彼女は憤りに頬を染めた
この世界には、女神の降臨祭というクリスマスに似たイベントがある。
女神が降臨したとされる日に聖堂で祈りを捧げ、皆で世界の誕生を祝うイベントだ。
ゲームの中で、ヒロインはその降臨祭の最中に神託を持って大聖堂に現れた。
ヒロインは淡い桃色の髪に、澄んだ湖のような水色の瞳が印象的な美少女だ。
田舎の孤児院で過ごしていたが、その類稀なる美しさを見初められ、ある子爵の妾として王都に上がる途中で馬車が魔物に襲われ、女神の力に覚醒するところからゲームは始まった。
聖都に到着してすぐに大聖堂に飛び込んだヒロインは、最初は教会の人間にも受け入れられなかった。
嘘を吐くなと糾弾されかかったところで、タイミング良く大聖堂を魔物の群れが襲ってきて、ヒロインはそこで本格的に覚醒した浄化魔法を使って女神の力を証明し、とりあえず真相を確かめる為に教会に所属することになった。
チュートリアルという名の、隠しキャラであるレゼと仲良くなるための三か月の期間を経て、まだ浄化魔法の扱いが未熟なヒロインは、魔法を学ぶ為に王都の魔法学園へ入学することになり、勉強に恋にイベントにと忙しくも充実した日々を送りながら、魔王を倒してエンディングを迎えるというのが、ゲームの大まかな流れである。
ヒロインがいなくては、この世界は救われない。
ならば、ヒロインは必ず浄化魔法に目覚めてやってくるはずだ。
今日この日、女神の降臨祭を行うこの大聖堂に。
前日から降り始めた雪は、今はもう視界を白く染めるほどの強さになっていた。
吐いた息は白く、窓に触れた指先は神経まで凍るように冷たくて痛い。
「……ランスロット様のことが心配ですか?」
窓に映ったエレノアが尋ねてきた。
振り向けば、白い儀礼服に着替えた四十歳代まで成長したエレノアがどこか緊張の面持ちで立っていた。
かという私も、教会から借りた儀礼服を着て同じような表情をしていたが。
「……貴女もザイレのことが心配でしょう?」
「はい。ですが、信じています。貴女とランスロット様を」
エレノアの迷いなく頷くその姿に、私は少しだけ肩の力を抜いて、カチャリと開いたドアのほうを見た。
「行きましょう。女神の降臨祭の時間です」
ザイレの格好をしたレゼが、ザイレを真似て、無表情の神官長口調で入ってきた。
エレノアとレゼ、そして暗い表情をした二人を心配して落ち着かなくなった子供達にも事情を話した翌日から、レゼはこの日の為に仕事中のザイレにくっついて、徹底的にザイレの口調や立ち振る舞いを覚えてきた。
ザイレには他にやってほしいことがあるので、女神の降臨祭に神官長として出席させることはできない。
だが、教会主催のイベントのときに神官長を不在にすることはできないため、レゼに代役を頼んだ結果がこれだ。
本当にザイレとレゼは似ている。レゼの豊かな表情と幼い口調がなければ、こうもそっくりなほどに。
癖すら把握した完璧な変装は、同時にそれほどレゼの父と母を救いたいという想いが強いことを表していた。
「必ず上手くいくわ。女神がこれだけ祝福してくれているんだから」
この地方では珍しい雪は、女神の祝福と呼ばれている。
それがこれだけ降っているなら大丈夫だと朝にランスに勇気づけられた言葉を思い出しながら、私は足を前に踏み出した。
ランスとザイレ、レゼ以外の子供達はもう早朝から戦い始めている。
白く染まった雪山で、聖都に被害を及ぼす危険性がある魔物を一匹残らず狩っている途中だ。
運命のときはもうそこまで迫っている。
私達はこの大聖堂で、用意された舞台にヒロインが上がるのを待つ。
大聖堂は厳粛な空気に支配されていた。
祭壇の右には神官長の姿をしたレゼが、左にはヴェールを被って顔を隠したエレノアが控えており、礼拝者達を静かに誘導している。
フードを目深に被った神官達がキャンドルスタンドを手にして壁際に一列に並んでいる中、礼拝者が中央を直線で歩いて、ステンドグラスを通した七色の光が降り注ぐ祭壇の前で祈りを捧げては帰って行く光景を何度見送ったことだろう。
ヒロインの登場は、大雪にも関わらず、朝から来ていた熱心な女神信仰者達がちょうどまばらになってきた頃だった。
壁際の神官達の中に混ざって、時折揺れる蝋燭の炎にランスの無事を願っていた私は、外にいる神官達が騒ぐ声に顔を上げた。
バタンと一際大きく音を立てて、大聖堂の扉が開く。
息を切らした少女が一人、制止する外の神官達の声を無視して大聖堂の中央を進んできた。
不思議と大雪の合間を縫って窓や開いた扉から差し込んだ太陽の光が、スポットライトのように大聖堂に飛び込んできた少女を照らし、一歩進むたびに緩いウェーブを描く桃色の髪や細い身体からハラハラと落ちる雪が光を乱反射して、その少女は神々しい雰囲気に包まれていた。
その様は、祝福を纏ったまるで女神そのもののようで。
現実離れしたとても幻想的な風景に、ゲームのスチルで知っていた私でさえ目を奪われた。
「ここは大聖堂です。ましてや今日は女神の降臨祭……お静かに願います」
神官長役のレゼが、私達が教えた通りに抑揚のない声で少女に注意する。
少女はその声を受けて立ち止り、ゲーム通りに神官長に向かって叫んだ。
「神官長様! 世界に危機が迫っています! 女神様が私にそう言ったんです!」
私は思わず反応して、蝋燭の火を大きく揺らしてしまった。
ヒロインの台詞がゲームと違う。
レゼは些細な違いを気にしなかったようで、シナリオ通りに台詞を進めた。
「我らの聖女は、女神の啓示を受けておりません。女神は教会の正式な聖女を差し置いて、貴女に世界の危機を伝えたと仰るのか」
「それは私が本当の聖女だからです! ここに来る途中で女神の力に目覚めて、ちゃんと女神様の声を聞きました! 魔王が魔素の種を放ってこの世界を壊そうとしているんです!」
「……女神の啓示を証明できるものは?」
「魔法を見せます! 魔王が放った魔素を浄化できる私だけが使える魔法を、女神様から授かりました!」
「では、見せていただきましょうか」
「え……ま、待ってください! これから大聖堂を魔物が襲うから、そのときにならないと……」
レゼは尚もヒロインに何かを言おうとしたが、口を少し開けただけでそのまま口を噤んでしまった。
――非常にまずい。レゼが困惑している。
ヒロインのこの台詞、完全にシナリオにはない台詞だ。
魔物が大聖堂を襲うことなんて、ゲームの中のヒロインは知らなかった。
この少女――転生者だ。
「神官長様。その少女の言うことが真実であれば一大事です。神官達と礼拝者を大聖堂から避難させましょう」
私はフードをより目深に被り直して、列を一歩抜けて、いつもよりも低い声でレゼと他の神官達に訴えた。
スチルで一般の神官達の顔を描くのが面倒だったからだろう、今フードを目深に被っている設定に感謝した。
私が本来ならここにいるはずのない人間であることを、敵か味方かもわからないヒロインに悟られずに済む。
「あ……ああ、そうだな。皆、大聖堂から今すぐ離れなさい」
「皆さん。これから何が起こるかわかりません。列を保ったまま、慌てず大聖堂の外へ避難してください」
ここからはもうアドリブだ。
ヒロインが転生者でこれから起こることを知っているなら、それを利用して万が一のときの怪我人を一人でも少なくする為に動くしかない。
戸惑う神官達に指示して大聖堂の扉を大きく開かせて、私はエレノアの傍に寄った。
「神官長様も聖女様も、こちらへ」
素直に私に従う二人を壁際のほうに連れて行き、ステンドグラスの下から避難させて防御魔法で覆った。
ゲームの中で、魔物はステンドグラスを割って大聖堂に侵入してきた。
ヒロインも避難を始めた神官達を急かしながら、ステンドグラスが割れ落ちてくる範囲からきちんと逃れている。
先程の発言を聞く限りでは、ヒロインは転生者だが、浄化魔法をまだ自分の意思で制御できない様子だ。
ゲームの中であれば、割れたステンドグラスで怪我を負ったヒロインの血を求めて魔物が襲いかかり、命の危機に瀕してやっと浄化魔法を任意で発動させることができるようになるので、自分が逃げるとシナリオとズレて、結果、生じてしまうリスクをあの少女は正しくわかっているのだろうか。
自分が血を流して魔物を引きつけなければ、避難している一般の神官達や礼拝者にも危険が及ぶかもしれないことを理解した上で、あるいは、そのような危険性に目が向かずに単に自分が怪我をするのが嫌だからと逃げているのだとしたら、これから先の学園生活で私達のヒロインへの接し方が随分と変わってくる。
……まあ、私達が介入している今のこのイベントならば、ヒロインが怪我をしようがしまいが、結果的に死傷者はゼロにする予定だが。
私はランスと子供達に掛けている防御魔法の位置を探り、予定の位置にいることを確認した後で、レゼとエレノアの手を強く握った。
フードを被っているから私は今二人がどのような表情をしているのかわからないが、二人ともそれでわかったようで、私の手を握り返してきた。
あと半分。
しかし、神官達の半分が避難したところで、レゼが小さく呟いた。
「来るよ」
それから数秒後だ。ステンドグラスに大きな獣の陰が落ちたのは。
獣の咆哮と共に砕け散るガラスの音と悲鳴に紛れさせて、私は神官達とヒロインの間に予め用意していた防御壁を張った。
ヒロインはちょうど振り向いたため、背中に隔てられたその防御壁には気付いていない。
自分が逃げられなくなったことにも気付かず、ゲームでは有り得なかった事態に腰を抜かして少女は床に座り込んだ。
黒い毛に紅い瞳の巨大な狼が、トンッと巨体に似合わない軽い音を立てて大聖堂の内部に着地した。
真っ直ぐにヒロインを見据えて、再度、本気で咆哮を上げるその獣の正体は、本来ならばゲームの終盤にならなければ会うことのない魔獣形態のザイレだった。
ザイレにはすでに私達が未来を知っていて、魔素の種から聖都を救う為に動いていることは話しているが、レゼのシナリオの核心部分はあえて話していない。
ザイレには、私達は聖都を襲うだろう魔物の群れを先に討伐する予定だが、大聖堂で魔物に襲われないとヒロインがこの世界を救う為に必要な女神の力に本格的に覚醒しないから、貴方が代わりに襲って、と伝えてある。
明らかに信じていなさそうな顔をしていたが、私達に何一つ嘘を言っている様子はないし、エレノアとレゼが泣きそうな顔で真剣に頼むから、ザイレは渋々了承した。
別に私達を信用した訳ではないし、私達のことなどどうでも良いが、エレノアとレゼには弱いというザイレらしい反応だった。
実は私達が聖都のほうなんかどうでも良くて、そんなザイレを救う為に動いているということなど彼だけは知らずに、予定通り魔獣となったザイレは、ヒロインに襲いかかっていった。
魔物の群れではなく、それを遥かに凌駕する最強の魔族に襲われるヒロイン。
ザイレが手加減をしているとはいえ、恐怖で逃げ惑い、泣き叫ぶ美少女を防御魔法で閉じ込めていることに罪悪感を抱きながらも、私はさっさと浄化魔法を使えばいいのにと歯痒い思いでそれを見ていた。
シナリオ通りではない現状、ヒロインが泣きながら逃げるその光景はとても悲惨なものだった。
一部の正義感あふれる神官達は、助けに入ろうとして私の防御魔法に阻まれている。
外を通りがかったのか、防御魔法を破ろうとしてくる騎士や魔法使いの姿もあったが、邪魔だとすべて弾いてやった。
だが、私だってその状態をいつまでも維持できる訳ではない。
本当に防御魔法が必要になったそのとき、魔法が破られていて困る。
私が防御魔法の術者だと気付いた魔法使いから批難の声が上がったが、フードの中からでも私が睨みつければ声は止んだ。
そのとき、だ。
大聖堂内に眩しさを通り越して、網膜を焼き切りそうなほどの光が溢れた。
浄化魔法の光の本流が、このときゲームの中では天にまで届くほどの柱となって描かれていた。
ゲームの中で、ヒロインが使う浄化魔法でその描写があったのは二回だ。
本格的な覚醒を果たした今と、魔王を倒すとき。
即ち、今、この魔王を倒せるほどのレベルの浄化魔法にザイレは曝されている。
魔獣形態のザイレにこれを避ける術はない。
完全に防御魔法で周囲を覆ってあるし、空間魔術も発動の合図である指が鳴らせない魔獣形態では使えない。
――獣の悲鳴が、大聖堂内に轟いた。
防御魔法を叩き壊して出て行こうとするエレノアの腕を引いた。
まだ終わっていない。その証拠に、私の指先から血が飛び散った。
ザイレが防御魔法の中で暴れている。
魔力制御回路に組み込まれた魔素の種が浄化される際の痛みは、きっと内臓を剥ぎ取られるに等しい痛みだろう。
予期していなかったあまりの痛みで理性を失って、防御魔法を破って、ザイレはここから逃げ出そうとしているのだ。
ゲームの中で、ザイレはこの光に危機を察して遠くに逃げていたのだろうか。
だから、魔素の種は浄化されることなく、ザイレの身体に種として存在し続けたのか。
でも、今回は一度だけの人生だ。逃がす訳にはいかない。
歯を食いしばって浄化魔法を受けろとザイレに伝えたのに、人を信用しないからこうなるのだ。
誰も信用しようとしないから、いつまでも常識外れで、人間社会に馴染めずに家族を失うことになる。
自分は強いと思い込んで誰にも助けを求めないから、こうして一人で耐えて、魔法の類なら受けきれると油断して、結局は破滅して。
血塗れになった指先に私は魔力を込める。
防御魔法を修復する術式を追加して、追加して、追加して。
光が視界を支配する空間でそれを何度か繰り返して、私はやがてカツンと硬質な何かが床に跳ね返る音を聞いた。
淀んだ空気を払い去るように魔素の気配が消え、やっと訪れた安堵で倒れる寸前、大きな腕が私を支えてくれた。
ここにはいないはずなのに私はランスかと思って、見上げた先がザイレと同じ顔をしたレゼで、心配そうな表情をしてくれていなければ、つい殴っていたところで、自嘲の笑みが漏れた。
「……魔獣は?」
「深手を負って、防御魔法が緩んだ隙に窓から逃げて行った。後は私達に任せて、休んでいなさい」
私の問いに答える声は、扉のほうから聞こえた。
人垣が割れて、その間を堂々と剣を鳴らして歩いてきたのは、久しぶりに見る義父を筆頭としたオルトランド公爵家の騎士達だった。
「お義父様……どうしてここに?」
「お前達の帰りが遅いから迎えに来たらこの事態だ。私達が聖都の護衛に回ろう」
私はレゼの手を退けて、足に力を入れてしっかりと地に立ってから、腰を落として貴族の礼をした。
まだ血を吐いてはいない。まだ戦えると義父に示すように。
義父は仕方ないなと息を吐いた後、私に二本の魔法薬を渡してから、後ろの騎士達に合図して、確実にランスに知らされただろう逃げたザイレを迎え撃つ予定の雪山の方向に走って行った。
騒然とする大聖堂内にエレノアの足音が響いた。
エレノアは足元に転がる紅い宝珠を拾い上げてから、ところどころ血に塗れた大聖堂内を見渡し、最後に気を失って倒れているヒロインを確認して、神官達に向かって顔を上げた。
「今日は女神の降臨祭です。どうかお静かに皆様。脅威は新しい聖女様の活躍で大聖堂からは去りましたが、聖都はまだ危険に曝されたままです。この大聖堂内で、暫くお過ごしください。私共が魔獣を討伐してきます」
複数の騎士や魔法使い達から共闘の声が上がったが、エレノアはヴェールを脱ぎ捨てて、今までどの信者にも見せることのなかった素顔に有無を言わせぬ頬笑みを乗せて言い切った。
「私共が必ず討伐してきます。皆様は此処で、お静かに」
覚悟を込めた聖女の再三の忠告に、異論を唱える者はいなかった。
エレノアは近くの神官を呼び寄せて、新しい聖女と自ら認めたヒロインを部屋に運ぶように指示を出した。
私はそのやり取りを横目に、義父と公爵家の騎士達が走って行った方向を見詰めながら、魔法薬の瓶を握りしめた。
保険を用意しておいて、何が「大丈夫だ」とランスを殴ってやりたい気分で。




