彼は頼りにされたようで嬉しかった
魔族を殺すことは容易ではない。
それが創世から生きた魔族であれば尚更、消滅させることは難しくなる。
数十年前、二人の魔族同士がぶつかり合った余波で精霊の谷は崩れた。
暴力的なまでに純粋なただの魔力の塊と、圧倒的な物理破壊力の応酬に、最果ての森を横断していた渓谷は消えた。
森が吹き飛び、大地が削られ、世界樹の根は這う場所を失った。
すべてが終わったとき、砂埃に視界が白く染まった精霊の谷の跡地に立っていたのは少女だけだった。
空間魔術の中で大切に守られていた少女は、その魔術が突如として壊れたことで、様変わりした現実の世界を目の当たりにした。
白一色のその世界。暗闇しか知らなかった少女に、緑溢れる森や綺麗な満月を見せてくれた彼の姿はない。
孤独に押し潰され、崩れ落ちた少女に、精霊の谷を彷徨っていた光の精霊が囁いた。
「貴女の大切な彼はまだ此処にいるわ。貴女の魔術で元の姿を取り戻せるかもしれない」
少女は精霊に促されるまま、彼を思い浮かべて魔術を使った。
――少女の周りの時間が戻る。
彼と歩いた森が再び息吹を上げ、彼に髪を飾ってもらった花が咲き、彼と一緒に水浴びをした泉が湧いて、ふわりと後ろから彼に抱き締められて。
彼は存在のほとんどを霧散させた状態でも少女の傍にいたのだった。
姿を保てなくなった状態でも、自分を抱き締め続けていてくれたことが嬉しくて、少女は彼を振り仰いだ。
だが、少女はすぐに絶句することになった。
彼はまだ身体の半分を失った状態で、命である魔力制御回路を剥き出しにさせて、苦しげに目を閉じていたのだ。
彼の意識はない。自分を呼ぶ声もない。
ズルリと力なく肩を滑り落ちていく腕は、心が凍えるほど冷たかった。
かろうじて形を半分取り戻しただけの彼と共に草の上に倒れた少女は、光の精霊が止める声も構わず、再び魔術を使った。
彼の存在を取り戻す為に。彼を生き返らせる為に。
身体の大部分を取り戻す彼とは対照的に、少女は少女ではなくなっていった。
少女は大人に、彼女は老いて――そこで意識は途切れた。
しかし、時間魔術の反動で老いて死んだはずの少女は、再び少女となって、彼の腕の中で目を覚ますことになった。
彼に自分はどうして生きているのかと聞いても、君は最初から死んでなどいないと言う。
少女の魔術によって意識を取り戻した彼は、獣の本能のまま魔界に戻り、気付いたときには魔王に延命を望んでいたと言った。
延命の宝珠を授けてもらい、この世界に急いで戻ってきた彼が倒れていた少女を見つけたときには、何も異常はなかったと。
もう二度と離さないと誓う彼の声の後、ゆっくりと温かい腕の中で目を閉じた少女の耳に違う声が響いた。
「私の可愛い娘。大切なその彼と一緒に生きて、幸せになりなさい」
声は身体の内側から聞こえた。
その優しい声は、ずっと昔に聞いた覚えがある母の――娘を想うあまり、死後に光の精霊となったエルフの母が遺した最期の声だった。
食堂のテーブルの一角に場所を移した俺達は、淡々と語られるエレノアの昔話を聞いていた。
エレノアが死んだのは何歳のときなのか。
俺はリリアのその質問を聞いたとき、驚愕のあまり息を呑んだ。
ザイレもエレノアも一度死んでいたなんて、俺は知らない。
「私は精霊となって谷を彷徨っていた母に救われました。私の中に僅かに残された母の記憶では、私の魔力制御回路に魔力として入り込んだ母が、自分の存在を代償に私の身体で時間魔術を使ったようなのです」
エレノアは、そう寂しげに胸に手を当てた。
自分の魔力制御回路に消えた母を懐かしむように。
リリアはテーブルの下では俺の手を強く握っているものの、まるでこの事実を知っていたかのように微動だにしていない。
それどころか、これで確信を得たとでも言いたいような真っ直ぐな表情をしていた。
魔族との戦いで瀕死になったザイレが、エレノアと共に生きる為に延命を願って魔素の種を埋められたことは、ゲームの中で回想されていたから俺も知っている。
でも、エレノアが一度死んだザイレに時間魔術を使ったから瀕死ギリギリの状態に戻っていただけで、その所為でエレノアのほうが命を落としていたなんて、少なくとも俺は知らなかった。
エレノアが話したことは、俺もリリアも知らなかったはずの、ゲームの中では語られなかった過去の話なのに。
「……リリア。どうして、エレノアやザイレが死んでいたことを知っていたんだ?」
ぐるぐると空回りする頭でリリアに問えば、リリアはきょとんと首を傾げた。
「え? エレノアを生き返らせたのは精霊になったお母様だったんでしょう? ザイレは死んでいないじゃない」
「いや、さっき霧散したって……」
「存在が魔力で出来ている魔族が、姿を霧散させられた程度で死ぬ訳がないでしょう。ザイレは人間じゃないんだから、それくらい大丈夫よ。それこそ、エレノアのお母様みたいに、自分の存在の全てを懸けて魔術を発動させなければ」
「……あ」
リリアの言うところに思い当たるものがあって、俺は短く声を上げた。
エレノアは俺達の会話に目を丸くしていたが、リリアと共に納得した俺の様子にガタンと急に席を立った。
「あの人は……ザイレは死んでいないのですか!?」
絶望の中に希望を見出したエレノアの、心からの叫びだった。
そうだ。ここは前世のような世界じゃないから、姿が消えたってそれが死んでいることを意味する訳ではない。
この世界は、良くも悪くもゲームの世界。
すっかり前世と人間の常識に捕らわれて勘違いをしていた。
エレノアも、昔から隠されている魔族の生態を知らないから、人間と同じ枠でザイレを見ていたのだろう。
リリアが言いたいのは、ザイレと同じ種族である魔王のことだ。
ゲームの中で、俺達は魔王と戦って平和を勝ちとっている。
俺達は魔王――魔族を完全に消滅させる方法も知っているし、裏を返せば消滅させない方法も知っていることになる。
「そうだよ、死んでない。ザイレは魔王に次ぐ魔力を持つ純粋な魔族だ。魔王はヒロイン達に倒された後も生きていた。一旦は姿が消えたから消滅させられたと思ったけど、その後、周りの魔力が収束したと思ったら、目の前に魔獣形態になった魔王が復活していて二戦目があった。魔族を消滅させるには、存在そのものと言ってもいい本人の魔力を完全に使い切らせる必要があるんだ」
エレノアに伝えながらも、リリアに合っているかを確認するように俺は説明した。
ラスボスに二戦目があるのはお約束だとスルーしていたが、そのラスボスが魔族だった故の種族設定がこのようなところで救いになるなんて。
魔族はたとえ魔力を留めていた身体という名の器がダメージを受け、存在が魔力として空気中に散っても、自分の魔力さえ欠片でも残っていれば、姿を取り戻すことなど造作もない最強種族だ。
周囲の魔力を取り込み、時間の経過と共に自分の魔力として変質させ、器を再生させることができると、他でもない魔族の長である魔王自身が最終戦で言っていた。
「エレノアの母さんは、確かにザイレは『まだ此処にいる』って言ったんだよな? だったら、魔力を完全に使い切った状態ではなかったはずだ。ザイレは死んでいない。そうだよな? リリア」
「ええ。ザイレもどうしてその程度で自分が死ぬと本能レベルで勘違いしたのかはわからないけどね」
リリアは正解だと言わんばかりに俺に微笑んだ。
俺も思わず顔が緩んで、泣きそうな顔で宣告を待つエレノアに力強く頷いてやった。
「……ッ………ア、アア!!」
エレノアはヒュッと音がなるほど息を吸った後、大声を上げて泣き出した。
愛する人が瀕死になって、どれほど時間を巻き戻しても、若返らせた分と同じだけの時間を経てしまえば、再び傷を負ってしまったその時が巡ってきて、もう一度時間を戻して。
レゼのルートで、エレノアはそのような発狂したくもなるようなことを繰り返していたシーンがあった。
何度も手遅れになる前に魔術を使っていたのに、実はそんな程度で死なないから大丈夫だなんて言われたら、必然的にそうなるだろう。
俺がエレノアの立場だったら、同じように泣くなるほど安心する。
エレノアの涙につい俺も涙腺が引き摺られそうになったが、ふと疑問が湧いて寸でのところで止まった。
「あれ? じゃあ、どうしてリリアはエレノアが一度死んでいたことに気付いたんだ?」
俺はてっきり、エレノアはもうザイレが死に瀕していることを知っていて、倒れる度に何度も自分の身体に負荷を掛けてまで時間を巻き戻していることをザイレに気取られないよう、時間魔術の反動で成長してしまった自分の年齢を子供達に移しているのかと思っていたのだが、そのゲームの情報だけではエレノアの死とは繋がらない。
リリアはずっと握っていた俺の手を離してエレノアの傍に行き、そっとハンカチを差し出して、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。確信があった訳じゃないの。貴女がどれだけ肉体年齢を溜め込めるか考えたときに、どうしても引っかかることがあったから。大聖堂で私の部屋に時々お世話に来てくれる神官達に聞いたのだけれど、貴女、決して四十歳くらい以上の姿にはならないんですってね」
顔を上げたエレノアの涙を拭いながら、リリアは続けた。
「好きな人に老いた姿を見せたくないのかと思ったけど、私が貴女の立場なら絶対に二十五歳以上の姿にはしないから、その理由は違うと思って。子供達を魔力制御回路の暴走から救うという建前上、少なくとも一般的に回路が安定すると言われている二十歳前後の姿にしなければならないのに、私が治したヴィスやサラを見ている限り、貴女は子供達を段階的に大人の姿にしている様子があった。一気に成長させると、貴女にも子供にも身体に過度の負担が掛かるからだと思っていたけど……二回治してわかったけど、見た目こそ血塗れになれど、貴女も子供もまだ余裕があるわね?」
エレノアはリリアからハンカチを受け取って、視線を泳がせた後、静かに頷いた。
傍から見ればあの血塗れの惨状の何処に余裕があったかは皆目見当がつかないが、術者であるリリアと当人が認めているということはそういうことなのだろう。
「貴女の時間魔術は、等比で肉体年齢を対象に移すものではないことはこの二回の儀式で理解したわ。術者である貴女側は、過剰に代償を支払う必要がある。でも、それがわかっているなら、何度も苦痛を与えてしまうのに、何故、貴女は子供を一気に成長させるだけの肉体年齢を溜めてから儀式をしないのか」
リリアは俺に視線を移した。恐らく、リリアが続ける言葉はこうだ。
「エレノアは、何らかの理由で子供を一気に二十歳前後まで成長させるのに必要なほどの年齢を溜めておくことができないから?」
「そう。そして、この世界の人間の寿命は約八十歳。それを加味して考えたとき、寿命を考慮したにしては安全すぎる四十歳くらいという年齢で成長を止める貴女はきっと、四十歳からそう遠くない年齢で確実に自分が死んでしまう歳を知っているんじゃないかと思ったのよ」
俺とリリアから同時に視線を向けられると、エレノアは自嘲が混ざった複雑な表情を見せた。
「全部お見通しなのですね。私の最期を見ていた母の記憶では、私が死んだのは一般女性の姿と比べるに五十歳を過ぎたあたりでしたわ」
「五十歳……ね。足りるかしら」
思案顔でリリアが呟いた内容も気になったが。
とりあえず、俺は廊下側に慣れた気配を一瞬感じて振り向いた。
そこには誰もおらず、エレノアもリリアも俺の様子に首を傾げており、気付いていない様子だ。
でもエレノアが自分の死を己の言葉で認めた瞬間、気の所為でなければ僅かに空間がブレた。
俺は無言で椅子から立ち上がって、今は何の違和感もないその場所に歩み寄った。
何事かと訝しむ二人の視線を背中に感じながら待ってみるが、当の人物は出てこない。
俺はしばらく様子を見た後、その場所に向かって一歩踏み込んだ。
出てこないなら、引っ張り出すまでだと。
一歩踏み込んだ場所は、ともすれば普通に一歩踏み出しただけの風景と変わらない場所に見えるが、決定的に違うところがある。
その空間には、リリアとエレノアがいない。
代わりに俺の前にいるのは、無理やり成長させられた外見に似合わない、不安に揺れる表情を浮かべたレゼだった。
「レゼ、どうした? お前、俺の話の途中から爆睡していただろう?」
「母上が……泣いている声が聞こえたような気がして。盗み聞きはダメだって言われたのに……ゴメン、ランスロット兄」
なるほど、牢の一件でリリアに盗み聞きを注意されたから出てこなかったのか。
レゼは両親の所為で常識がちょっとどころ外れているだけで、基本的には素直な良い子だから。
「……ねぇ。今の話、本当?」
必死に絞り出したような声で、レゼは俺に尋ねてきた。
その両手は痛々しいほどに固く握られていて、不安に耐えるように小刻みに震えていた。
ふいに先程の、俺の手を握りながらエレノアの話を聞いていたリリアの姿を思い出して――途端、リリアのらしくないその行動の意味を理解して、鼓動が煩いくらいに跳ね出した。
「ランスロット兄……?」
「え、あ、ごめん。えっと……レゼも一緒に話をしよう。今度は寝るなよ?」
俺は俯いたまま頷いたレゼの腕をとった。
初めて触れたレゼの腕に、そういえばと思い出して問う。
「なあ、レゼ。俺と追いかけっこして俺が勝ったら、何でも教えてくれるって最初会ったときに言ったよな」
「え……うん」
「お前の空間魔術を抜けられたら、俺の勝ちってことでいいか?」
「別に良いけど……」
レゼが了承したのを確認して、俺はちょうど真後ろに一歩分跳躍した。
たぶんこの方法で、空間魔術から抜けられる。
レゼは俺が攫われてから毎日子供達とやっている追いかけっこの中で、必ず初撃は大量のナイフを真っ直ぐ飛ばしてきていた。
真っ直ぐ飛んでくるナイフを後ろに跳んで避ける訳にはいかないから、横に跳び退くしかないのだが、初撃以降、ナイフで攻撃してくることはあまりなかったから何かあるんだろうと察していたが。
「ランス!」
いとも簡単に空間魔術に入り込み、とてつもなく簡単な方法で抜け出た俺の腕の中にリリアが飛び込んできた。
こういうところも、いつもの意地っ張りなリリアらしくないのはたぶん――。
「何やってるのよ、もう! 突然消えたら心配するじゃない!」
「ただいま。心配掛けてごめんな。あの時、ザイレの空間魔術にどうして迷い込んだのかずっと気になっていてさ。謎が解けた。これはもう、この世界の意思だ」
俺の突拍子もない発言に、リリアは何を言っているんだと眉間に皺を寄せた。
「こうして術者の状態が揺らげば、空間魔術に接している現実の一点を割り出せるけど、そんな訳でもなかったのにザイレほどの腕がある人物の空間魔術に本当に偶然迷い込む確立なんてどれくらいのものなんだろうな」
天文学的な数字の遥か上を叩き出せそうなその可能性に、リリアは目を見開いた。
「リリア。お前、セルディオにフリーマーケットに行くように頼んでいたよな? 何が手に入った?」
「……時の砂」
「作ろうとしていたものは?」
「……魔力源泉」
時の砂は、砂漠の国の皇子とトゥルーエンドを迎える為に必要な魔道具“魔力源泉”の材料だ。
売っている人物の出現も、並ぶアイテムもランダムであるはずなのに、こうして欲しいものが手に入っている現状。
俺はリリアの少し冷たくなった手を両手で包みこんだ。
リリアのか細い手は、俺が気付かなかっただけで、未だに不安そうな表情をしているレゼのように震えていた。
「大丈夫だから。どうやら女神は俺達にこの世界を救ってほしいらしい。リリアの考えた方法で、きっとちゃんと救える」
リリアの指先がピクリと反応した。
リリアは俺が食堂に来てから、ずっと俺の手を握っていた。
その行動が示すのは、これから話す方法で本当にザイレ達を救えるのか、一人では震えてしまうほど不確かで不安だったということ。
それで俺を頼って。俺を支えにして。俺の手を握って。
俺は込み上げてくる言い様のない感情のまま、リリアを力の限り抱き締めた。
「ちょ、ちょっと。ランス。レゼも居るんだから!」
リリアの抗議の声にレゼとの約束を思い出して、振り返った。
レゼはエレノアと暗い表情で見詰め合っていたが、俺と目が合うとバツが悪そうに視線を逸らした。
「レゼ。約束通りに教えてほしいことがあってだな」
どのような質問が来るのかと怯えるレゼを見据えて。
「ゲームの中でお前は言っていたんだ。ザイレの血を濃く引いているお前は、あいつと同じ時期に魔力が不安定になるから、ザイレが倒れる時がわかるって。その度に儀式の間に運んでいたお前なら予測できるだろう。ザイレが次に倒れるのは、いつだ?」
リリアが魔力源泉を使うと言うなら、ザイレ達を救う為に必要なのは恐らくこの情報だ。
レゼは目を見開いた後で唇を噛んで、しばらくしてから約束だからと固く閉じていた口を開いた。
「……二か月くらい後だよ。最近、父上が倒れる時期が早くなっているんだ」
どうしてかわからないけど、と続けるレゼ。
力なく垂れる頭を俺はガシガシと撫でてやった。
「俺とリリアはその理由を知っている。お前の父さんも母さんも友達も……大丈夫だ。まだ時間はあるから」
俺が一番尊敬する父を思い出して、記憶の中の父のようにそう言ってやれば、レゼの目からぽたぽたと涙が零れ始めた。
無意識の涙だったのか、突然のことに慌て始めたレゼの傍にエレノアが駆け寄ってきて、レゼを抱き締める姿はいつかの俺の母のようで。
「リリア、もう一度頑張ろう。絶対に救えるから」
リリアが考え付いたザイレ達を救う方法なんて想像もつかないが、俺が言い切ることでリリアの不安を少しでも軽くできるなら、実際に俺達に介入してきているのかわからない女神の存在すら味方につけて、微笑むくらい訳はない。
そんな俺の思考もリリアは読めているだろうけど、とりあえず彼女が笑って頷いてくれたから良しとした俺は、やっぱりどこまでも甘い。




