シャボン玉は真実を映す
「さあ謎解きの時間だ」
金丸さんの被っているテレビ画面には、シャーロックホームズめいたキャラがキメ顔で映っている。
「何、言いがかりを。人の悩みを勝手に謎と言わないでください」
沙母君は、憮然とした態度で返した。
「さっき君は僕を疑っているといったね」
「そうです。あなたはずっと『嘘だ』と言っていました」
「それはおかしいな」
「はい?」
「俺が考えていた『嘘だ』は君の『心が読める』に対してではないよ」
言った後、金丸さんはホームズを僕に向けた。
「宗也君の『僕は栗谷先輩の下着のことを考えていない』という発言に対してだ」
「!」
「うおーい!!」
何をまたその話題を掘り返しているんだ!
「やっぱり宗也君……」
「違いますから! おいこらテレビ! あることないことぬかしやがって!」
「恥ずかしがりながら騒いでいるということは、つまりそういうことだよ栗谷君。いやあ、青春だなあ」
憎らしい顔で笑うホームズが画面に映る。
「ブラウン管ぶち抜くぞ!」
「ごめん、宗也君。残念だけど、君とはもう半径10メートル以内に入れないな」
「そんな傷付くことをあっさりとした表情で言わないで下さいよ! 本当に考えてないんですってば!」
「まあまあ。そろそろ本筋に戻ろうじゃないか、宗也ソン君」
「語呂悪っ!」
「さて、それはともかく」
騒ぐ僕を尻目に金丸さんは咳ばらいをした。
「もし心が読めるのであれば、俺が疑いをかけている対象を間違えることがあるかい。もし君に、他人の心の声が完全に聞こえるのなら、他人の思考を勘違いして捉えることがあるのかと聞いているんだ」
「そ、それは……」
沙母君は、さっきまでの食って掛かった態度から一変、しおらしく俯き、目を泳がせている。
確かに、一理はある。沙母君がもし心を読んでいるとすれば金丸さんの「嘘だ」という思考だけでなく「沙母君は心が読めると言っているがそれは嘘だ」まで読み取るはずだ。だが、沙母君はそこまで読み取ることができなかった。ということは。
「君は嘘を付いてはいない。その反応を見れば誰にだって分かる。だが、嘘を付いていないということは、必ずしも本当のことを言っているとは限らない」
ホームズが、パイプをふかす。
「俺が思うに、君は心が読めているんじゃない。単に、洞察力、推理力、想像力が非常に優れているだけだ。君は恐らく、人の心を推測するのが得意なんだろう。その推測の正答率が高いから、君はいつしか、『自分は心が読めるんだ』と勘違いをしてしまった」
しおらしくしていた沙母君の目に、少しまた闘志めいたものが見え始めた。その変化に気付いたか、金丸さんは、まあ最後まで聞きなってという風に手で制止した。
「だが、それには穴がある。君は人に『本当は心を読めないと疑われる』ことに敏感なんだ。あまりに敏感すぎて、相手の『疑う』動作全てを『心が読めないことに対する疑い』だと感じてしまうようになっていた。現に、俺はあらゆる方法で君に疑いをかけていったが、全て『心を読むことへの疑い』としてまとめられてしまった」
僕は心当たりがあった。さっきの沙母君の怒りのことだ。僕は彼に疑いをかけた覚えはないが、確かその時、『沙母君が社会に溶け込めるかどうか疑わしい』と考えていた。彼は、それを勘違いして、僕が信用してないと怒った……のか。少し、乱暴な気がするけど。
「ここから先は俺の勝手な推測だけど、君は中学校で心が読めるようになったといったね。それに気づいた君は、多分得意になったのではなく、不安に思ったはずだ。いい事ばかり読めればいいが、悪口や心無い思考にきっと傷つくこともあった。そして、心を読む、というのは他の人にはできないことだ。君は親や友達に相談をした。医者に診てもらいたい。直してもらいたい。しかし、誰も相手にはしてくれなかった。君は必死になって心が読めることを証明しようとするが、鬱陶しく思われて人が離れていく。辛うじて証明に成功したとしても、気味悪がられ、また人が離れる。そうして君はだんだんと孤立していった」
「……」
またしおらしくなった沙母君は、黙ったまま金丸さんの話を聞いていた。いつのまにか汗が噴き出していて、額から、玉粒ほどの汗が落ちた。彼は震える手でキセルを取ったが、手を滑らせ、床にシャボン玉をぶちまけた。
「だ、大丈夫? 沙母君」
栗谷先輩が慌てて沙母君に駆け寄る。
「……大丈夫です」
答えるが、から元気なのは誰が見ても明らかだった。
「金丸君、もうやめてあげなよ……。本当に辛そうだよ」
「嫌なことを思い出させてしまったなら謝るよ。でも、これは単なる推測だからね」
言うものの、きっとわざとなのだろう。性格が悪い。ただでさえ金丸さんのどこかすかした言動に胃の中で煮えていた僕の怒りは、沸騰寸前だった。
「まあ、過去はどうあれさ、大事なのはこの後だよ」
殴りかかってやろうかと思ったちょうどその時、金丸さんは意外な言葉を口に出した。
「君は心が読めていないんだ。だとすれば、今まで君に聞こえていた言葉は全てまやかしだ。君が勝手に『この人はこう言っている』と決めつけていただけ。君が思っているほど、人は君のことを見ていないし、君に思いを馳せることもしない。人は案外人に興味が無いんだ。言葉は悪いが、今までの君は単に被害妄想が激しかったのさ」
言葉はちょっと乱暴だけど、と栗谷先輩も入ってきた。
「金丸君の言う通り、沙母君は、ちょっと人の目線を気にしすぎているのかもしれないね。その心の声はきっと、自分の声だったんだよ。自分に厳しいのか、自分を卑下しているのかは私には分からないけど、そこまでシビアに考えなくてもいいんじゃないかな」
「多分、君は自信が持てていないんだろう。でも、誇れるものなら、もう持っているだろう。そこまで人の考えていることを言い当てられるってのはすごい才能だと思うぜ、本当に」
「もっと自分に自信を持ってもいんじゃない。せっかく頭が良いんだからさ、それをもっと有効に使おうよ」
先輩たちが、口々にアドバイスを与えるのを、僕は何も言えずに見守っていた。何故か、僕まで目頭が熱くなっていた。
沙母君はまだ汗を垂らしていた。目には少しの疲労が見えていた。だが、彼の口元は少し緩んでいた。笑っていた。
沙母君は一口、パイプを吹いた。勢いよく噴き出たシャボン玉が、彼の顔を一面覆った。
「僕はずっと、シャボン玉を見ていたんですね」
シャボン玉越しに、沙母君は呟いた。そして、彼は立ち上がった。
「もう大丈夫?」
「えぇ、大丈夫です」
差し出された栗谷先輩の手を丁重におろすと、彼はまっすぐ芯の通った一礼をしてみせた。
「ありがとうございます。みなさんのご厚意、感謝いたします。もう少し頑張ってみようと思います」
言って、彼は確かな足取りで教室を後にした。沙母君の背中を見て、僕の腹の中でずっと煮えていた怒りの温度とは違う、穏やかな温かさを感じた。
沙母君が出て行った数分後。学校を閉めるギリギリの時間まで相談に付き合っていたらしく、僕たちは警備員さんに叱咤され、仲良く追い出された。警備員さんに対して申し訳ない気持ちがあったが、おかげで栗谷先輩(おまけに変なの一人)と一緒に帰ることができたので、僕にとっては好都合だった。
というわけで、夜道を三人でふらふら歩いていると、栗谷先輩が思い出したように口を開いた。
「だけど、本当は心が読めないっていうの、よくわかったね」
「そうですよ。だって僕が心を真っ白にしていたのまで当てたんですよ。あれはどう考えても心を読んでるでしょう」
「いや、俺は別に、沙母君が、本当に心が読めないと思ってるわけじゃないよ」
「えっ」
「は?」
何を言っているんだこの人は。
「正直、アイスの味を当てたことを彼に指摘されていたらまずかったねぇ」
テレビは神妙にうなずく。いやいや。
「じゃ、じゃあなんであんなに自信満々に『君は心が読めない』と言っていたんですか?」
「うーん、まあ、作戦かなぁ」
金丸さんは、チャンネル切り替えのつまみを手持無沙汰に回しながら語り始めた。
「彼は心が読めることに悩んでいた。見た限り、本気で悩んでいるようだったから、冷やかしの可能性は少ないと踏んだ。だから、俺はそれが単なる思い込みか、本当かの二択だろうと考えていた。となると、やるべきことは『君は心が読めないんだ』と説得することだけだ。思い込みであればまさにその通りなのだから、考え過ぎなんだよと諭すことができる。たとえ本当に心が読めていたとしても『これは自分が勝手にそう思っているだけだ』と思うようになれば、きっと今よりももっと楽に考えられることができる。一石二鳥なわけさ」
「な、なるほど……」
金丸さんの作戦に、僕は思わず感嘆の言葉を漏らした。
「俺たちは相談部だからね。彼を悩みから救えるかどうかが大切なんだ。心が読めるかどうかなんてそんな些細なことはどうでもいいんだよ」
ずっと俯いていたのは、沙母君のことを疑っていたのではなく、沙母君を信じて、いかに助けるかを考え込んでいたのか。勿論、栗谷先輩も同様に。
僕は沙母君へのうしろめたさと、自分への羞恥心で、体が熱くなっていた。僕だけが沙母君に対して疑いをかけたという事実を認識すると、いよいよ僕は罪悪感に打ちひしがれた。
俯いていると、いつの間にか栗谷先輩の顔が近くにあった。
「おわぁっ」
思わず身構えると、栗谷先輩は怪訝そうに僕を見た。金丸さんは、肩を揺らしていた。
「どうしたの、宗也君。急に後退って」
「いえ、何でもないです」
まあいいけど、と先輩は本題に入った。
「相談部の意義を見せることができたのを思えば、これが宗也君にとって本当の部活動見学になったかな」
誇らしげに先輩は笑った。
「どう、やっていけそう?」
聞かれてすぐに、僕の中で今日の出来事が再生された。それをしまいまで見てから、僕は答えた。
「やっていけるか自信は無いですが、頑張ります。迷惑をかけるとは思いますが、よろしくお願いします」
言葉を選んだつもりだったが、結局、ありきたりでつまらない言葉になってしまったのを僕は恥じた。せっかく、栗谷先輩に会うためだけではない、本当の目的が僕の中で出来たような気がしたというのに。
「そう! なら良かった!」
先輩は、はしゃいで走り出し、少し前を歩く金丸さんにタックルをしかけた。ぐおっと声を上げた後、金丸さんはくの字で折れて倒れこんだ。非常に愉快だった。
ひとしきり四つん這いで咳き込んでいた金丸さんが回復すると、そういえば、とその態勢のまま話し始めた。
「ついでだし、さっき言ってたアイスクリーム屋に行こうよ。桜味ってどんな味するのか気になってさ」
「行くのはいいけど、そのまんまで食べられる?」
「うまいことやるさ」
「あの、僕も行っていいですか?」
「宗也君、さっきの話は意外とまだ続いてるからね」
「いや、それ誤解なんですってば!」
「私の100メートル以内には入らないで」
「さっきより広がってるんですけど!」
こうして、僕らは少し薄暗い夜の坂道を、アイスクリーム屋に向かって歩いた。金丸さんはともかく、栗谷先輩と冗談を言い合えるほどの仲になったのは、僕にとって大きな進歩であった。ところで先輩の言葉が冗談でなければ、僕は死ぬだろう。
何とは無く一か月前のことを回想して見せたのは、実は僕がいま暇を持て余しているからだ。
今に忙しくなるぞーと言っていた先輩だったが、どうやら先輩たちは、学生本文の忙しさが二年になってついに現れたらしく、そうそう部活には顔を見せられなくなっていた。そのため、栗谷先輩を狙う男ども、金丸さんに惹かれる層が離れ(奇抜だからか一種のカリスマがあるらしく、男女問わず好感度は高い。納得がいかない)、まるでお客がいない。
しばらく待っていると、がらりと教室の扉が開く。僕は彼を待っていた。
「やぁ、石坂君。ちょっと遅れてしまったね」
沙母君は、笑って僕を見据えた。
「怒ってるね、ごめん。でも、どうせ何もすることが無いと分かっていたなら、何か本でも持ってくればよかったのに。あぁ、忘れたんだね。ずっと鶴折ってたのか。ふふ、石坂君も石坂君でけっこう変わった人だよね。いや、馬鹿にしているわけではないよ。ほんとほんと」
沙母君はひとしきり話してから、僕の前に座った。ともすれば、沙母君がただの頭のおかしなおしゃべり男子に見えるかもしれない。だが、僕は、彼が決してそうではないことを分かっていた。
「いやぁ、君と話すのはやっぱり楽だね。口に出さないでいいんだもの」
「そう言ってくれるのは、君だけだよ。まあ、他の人も、僕のことを理解してくれるようになったんだけどね」
沙母君は笑った。相談中に見せた、爽やかな中にほんの少し見えていた、卑屈でひきつった笑みは、すっかり消えていた。
あの件でいたく感動した沙母君は、相談部の一員となった。心が読めるかどうかは一か月たった今でも定かではないが、事実、彼の推測能力はすさまじく、すぐにお客さんの悩みを言い当てるため、言葉少なでも共感してくれると評判である。相談部は一つ大きな武器を手にしたことになった。
「さてと、そろそろお客さんが来る頃かな」
制服の内ポケットからパイプを取りながら、彼はふとつぶやいた。
「えぇ、まさかー。全然人の気配無いじゃ……」
コン、コン、と後ろのドアを叩く音が聞こえた。僕は声も無く、その方向を見た。
ばっと沙母君の方を振り返ると、彼は不敵な笑みを浮かべてパイプを吹いた。シャボン玉の奥に覗く沙母君の目は、泡越しにも、何故か真っ直ぐに見えた。