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 天下分け目の巌流島。にしてはコンクリートの壁がやけに目立つ。第一ここには海がない。登校するには些か早すぎる、雨上がりの早朝。指定した学校の裏庭で仕度を済ませ、相手が来るのを待つ。待ちに待って、正直待ちくたびれた。眠い。早く来いよあの野郎。約束した時間より少し早く来るのが待ち合わせの常識だろうが。ってあれ?巌流島って確か待ちくたびれたほうが負けたんだっけか?じゃあこの例えは不適切だ。

 一点の隙間もなく天空を覆う雨雲に、〈影〉の奴もさぞかし不機嫌なことだろう。ただ、今日はそんな愚痴の類もさっぱり聞こえてこない。昨日は意外なほど長時間会話ができたのだが、一晩寝たらすっかり元の調子に戻ったようだ。

「名尚さん」

 後方から紫の傘を手にした級子が、水溜まりをよけながら小走りに近づいてきた。

「叢雲先生は来てたか?」

「はい、でもまだ眠いので、保健室でうたた寝するそうです。もし深傷を負ったら、携帯で呼んでほしいとおっしゃっていました」

「それで起きなかったらどうすんだっつうの」

「す、すみません」

「お前は謝らなくていいよ」

 肩を竦めて俯く級子。雨はやんでいるので傘は差していなかったが、柄を前にして左手に提げるその持ち方は、剣道部連中の竹刀を思い起こさせた。

「それ、フェンシングのときの持ち方か」

「これですか?」級子は言われて初めて特徴的な持ち方に気づいたようで、「これはその……わたしは正式な競技としてのフェンシングではなくて、より実戦向けの剣術を習っていたのです。その持ち方ですね」

「実戦向け?」

「はい。ただ、昨日学校のほうに確認したら、やはりレイピアの所持は許可できないとのことで、武器の携帯はできなくなってしまいました」

 レイピアというのが武器の名称なのか。名前からして外国製の刀剣のようだ。学校側が認めないってことは、竹刀よりも殺傷能力が高いんだろうか。とすると、よく判らんが銃刀法違反なんかを懸念したとも考えられるな。

「おいおい、お前そんな武器を使いこなせるのか?」

「ええ、そうです。ですが所持できなくては意味がありません。なんの力添えもできなくて、申し訳ありません」

「いいっていいって。どうせ今日の戦いは手出し無用なんだから」

 級子は不安に満ちた眼差しを、俺の足許に置いてある大きな鉄のスコップと二つの電気ポットに向けた。

「こちらが名尚さんの武器なのですか?」

「まあな……おっ、ギャラリーが来たな」

 遠方の土手に人影が二、三見える。天太と伽藍に……あれはツバメか。

「名尚さん、来ました」

 級子がぼそりと呟く。いや、それ俺今言ったんだけど、と級子を見ると、その視線は土手ではなく出入り口の辺りを向いている。

「誰もいないぞ」

 そう言ってじっと眼を懲らしていると、灰色の空と緑の樹木をバックに、長船と小男がゆっくり姿を現した。視力ではない。級子の奴、あんな遠くにいる人の気配が判るのか。大したもんだ。俺は素直に感心した。もし何か悪いことをするときに見張りに立てれば、レーダー代わりになる。

 裏庭に足を踏み入れた長船は、俺が向いている方向に合わせて直進してきた。剣道着と袴姿だ。面や防具を着けていないのは余裕の顕れだろう。

 十メートルほど距離を置いて立ち止まる長船。それを見て、俺は八割方勝利を確信した。

「待たせたな、小次郎」

「おう、待ちくたびれたぜ……ええと、武蔵、だっけ?」

 俺はスコップを取り上げ、肩に乗せた。

「なんだそりゃ」長船が怺えきれずにククッと上体を震わせた。「〈小次郎敗れたり〉どころの話じゃねえぞ。お前、やる気あんのか。ふざけてんだろ」

「本気だよ」

「大体そのポットはなんだ。お茶でも振る舞おうってのか」

「うるせえな。いいからかかってこいよ」

「まあいい。むしろ今日まで待たされたのはこっちのほうだ。とっとと片づけてやるか……小娘、離れてろ」

 竹刀を上段に構え、長船がぴたりと静止する。まるで野武士だ。

「二刀流だったら決闘にぴったりだったんだが、俺の流派じゃないんでな。薩摩示現流の初太刀、とくと味わうがいい」

「示現流? あの〈なんとかーっ!〉ってやつか」

「〈ちぇすと〉だよ。お前当てる気ゼロだろ。しかも実際は言わねえんだよ」

 長船の来る方向を計算しつつ、俺も立ち位置を定めて身構える。といっても、スコップの構え方なんて知らないので、柄を握る手に多少力を込めた程度だったが。

「では参る」

 刹那の間ののち、長船は奇声を発しながら全力で突進してきた。

「きえええええええ!」

 ブルース・リーの怪鳥音さながらの叫びに、思わず総毛立って金縛りに遭う。が、下手に動くよりは都合がいい。相手の進路さえ変えなければ。

 次の瞬間、長船は裏庭の地面から――姿を消した。

「えっ?」

 驚きの声を上げる級子と、眼を剥いて口をぽかんと開ける小男。

「バカめ、まんまと嵌りやがった」

 俺はスコップを放り投げると、ポットを両手にぶら下げて長船の消えた辺りに駆け寄った。

 こんな単純な落とし穴に、引っかかるなんてな。

 地面に穿たれた一角を見下ろす。深さは二メートルほどだが、折からの雨で穴の内部はドロドロにぬかるんでいる。自力で這い出すのにも難儀しそうだ。白の道着も鬚も泥だらけの長船は、陥穽から抜け出そうと懸命にもがいていた。

「させるかっ」

 俺は長船の汚れた顔面目がけてポットの熱湯を噴射した。

「あぢぢぢぢ、あつ、あつ、熱い!!」

「じっとしてろって。折角顔きれいにしてやってんだから」

 だが困ったことに、いくら押せども注ぎ口が狭くて熱湯が思うように出てくれない。こうなったら、と上蓋を外して中の熱湯を直接注ぎ込む。

「ぎゃああああ!」

 よし、効いてる効いてる。さて二本目だ。今度は最初から蓋を外し、勢いよくポットを傾ける。と、零れ出た熱湯の一部が左手にかかった。

「アチッ!」

 手を滑らせ、俺はポットを落としてしまった。熱湯の雨に喘いでいた長船は、続いてポットそのものを頭に喰らい、今までと趣の異なる悲鳴を上げて少し静かになった。

「おっしゃ、とどめだ」

 俺はさっき投げ捨てたスコップを拾うと、縁の土を崩してせっせと内部にかけ始めた。今朝方ここに落とし穴を作っていたときも思ったが、やはり雨の後は土壌が柔らかくなっていてとても掘りやすい。俺が選んだ期日は間違いなかった。ありがとう気象庁。

我ながら見事な作戦だった。三時間かけて作り上げた穴の上にビニールシートを張り、それを藁と余った土砂で覆い隠す。長船のやって来るだろう方向に応じて、ちゃんと立ち位置も調整した。長船のルート上に落とし穴が来るように。こんなにうまくいくとは、正直思わなかったけれども。

「あ、あの、名尚さん」

 級子の声で、俺はふと我に返った。

「ん?なんだ」

「もう、よろしいのではないでしょうか。長船さんも参ってらっしゃるようですので」

 腰の辺りまで汚泥に埋まり、頭や顔にかかった土を拭おうともせず、ポットの横で長船はぐったりしていた。どちらかというと精神的ダメージのほうが大きそうだ。

「旦那、長船の旦那!」

 推薦者の小男が、穴の縁に取りついて懸命に叫んでいる。聞こえているのかいないのか、中の長船は反応に乏しい。

「どうした長船、早く上がってこいよ」

 声をかける。返事はない。

「な、何を言ってるんだ。あんな状態で、もう戦えるわけがないだろう」

 小男が泣き言を言う。

「うるせえ」

 スコップで土を一掬いし、小男にかける。頭とYシャツを汚され、小男はうひゃっと飛び退いた。

「お前に訊いてんじゃねえ。おい、長船!降参か?」

 やはり返事はない。俺は足許に転がっていたもう一つのポットを、穴の中へ蹴り落とした。直撃しそうになるのを、長船は慌てて腕を持ち上げて遮ったが、骨を打つ鈍い音がして一際大きな悲鳴を発した。

「なんだ、やっぱり起きてんじゃねえか。コラ、長船。狸寝入りしてんじゃねえぞ。どうなんだ、参ったのかまだやるのか?どっちなんだ、ええ?」

 口早に畳みかける。腕を押さえて苦痛に顔を顰めていた長船は、苦渋に満ちた声色で、

「……参った」

「まあ本当は〈参りました〉が正しいんだがな、今日のところはこの辺で勘弁してやる」

 俺はスコップの尖端を墓標代わりに地面に突き刺し、落とし穴に背を向けた。

「な、名尚さん」

 狼狽気味に俺を呼ぶ級子。

「お?」

「長船さん、あのままでよろしいのですか?」

「問題ないだろ。子分もついてるし。心配なら叢雲先生に電話しときな。俺は生徒会室に行く」

 一応〈参った〉の言質は取ったが、助け起こした瞬間に襲いかかって先の発言を反故にしないとも限らない。というより、俺があいつの立場なら絶対にそうする。そこまでの元気が残っていればの話だが。早いとこ勝利宣言をしておくに越したことはない。

 裏庭を離れる直前に振り返ると、天太と伽藍が穴の傍らにやって来て、しゃがみ込んでいるのが見えた。小男の姿はない。どうやら長船を助けるべく自ら穴に入っていったらしい。その先の土手に、ツバメと、ツバメに手を引かれて眠い眼を擦っている校医が相次いで姿を見せた。ツバメが呼びに行ったようだ。

「幻滅したか?やり口が非道すぎて」

 斜め後ろをついてくる級子に声をかけた。

「いえ、そんなことないです」級子はその短い髪をブルブルと左右に振って、「真の戦いに作法など存在しないことは、わたしも承知しています。戦国の世の常です」

「ふーん」

「逆に、名尚さんの鮮やかな手腕に感服していたところです。陥穽の計は、軍事戦略上の常套手段ですので」

「……ああ、そうか」

「わたし感動しました。神算鬼謀とはまさにこのこと。名尚さんはものすごい智略をお持ちなのですね」

「…………」

 ツバメが変わり者だってことよく知っているが、この娘も相当変わってるな。そう思った。

 月曜の朝は往々にして憂鬱なものだ。学校に来ると特にその思いが強くなるが、今日は頗る気分がいい。一仕事終えて安心したからだろうな。これでこのまま寮に帰れれば最高なのだが。


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