1
その日の放課後、トイレで大を済ませて生徒会室へ。例によって級子が水先案内人。幸いにも二日連続で休むわけにはいかないとのことで、ツバメは部活のほうに出ていた。心安まる平穏な時間。パックス・ミツルギーナの到来だ。用を足した解放感もあってか、踊り出したい気分に駆られた。
けれども、そんな浮かれモードは先客の長船と鉢合わせしたことで早くも台なしとなった。
「よお丸木戸、よくもまあのこのことやって来やがったな」
長船はバカにするような口調で言った。それを受けて、横にいたもう一人のクラスメイトがにやにやと厭らしく嗤う。見るからに腰巾着風情の小男だ。名前は知らないし興味もない。
無視して通り過ぎようとしたが、その肩を長船に掴まれた。
「お前そんなに痛めつけられたいのか」
「離せよ。馴れ馴れしい」
無造作に手を払い除けると、クラスメイトの小男が舌打ちして一歩前に足を踏み出した。
「やんのかコラ」
「長船の子分がしゃしゃり出るんじゃねえよ。ていうか誰だお前」
「ああ?」
ムードは一気に険悪に。とそこへ、
「ちょっとそこ! 何揉めてんですか」
女性のきつい声が飛んだ。
がらんとした広い室内の黒板側に長テーブルが設置され、そこに学生が五人ほど座っている。ほかに窓際に立つ二人の男女。声の主は中央に坐している女生徒だろう。フレームの細い銀縁眼鏡にボブカット。整った顔立ちではあったが、声質をそっくりそのまま形にしたような、厳格そうな表情をしている。メガネっ娘の呼称は、この場合どう贔屓目に見ても当てはまりそうにない。
「あなたたち、次期生徒会長の立候補者ですよね。だったら速やかにこちらに来て、手続きを済ませなさい」
口早に捲し立てると、上級生と思しきその女生徒は二枚の書類を机上に広げて同じ数のボールペンをその上に乗せた。左右に控える一同は言葉を発しないばかりか微動だにせず、こっちの様子を眼の動きだけで窺い見ている。この連中がツバメの言っていた選管――選挙管理委員会のメンバーだろう。
「ふん」
「ケッ」
お互い顔を背けながら並んで歩き、申請用紙の前で立ち止まる。
「記入漏れや誤字脱字のないように、正確に記入して下さい」
俺たち二人を交互に、それもあからさまに値踏みするような眼で見やったのち、その眼鏡女はさあ書けと言わんばかりに二枚の用紙を手で示した。
ペンと紙を取り、どちらからということもなく俺と長船は長机の両端に離れてから、それぞれ必要事項の記入を始めた。その間、級子と小男はドア近くの壁に所在なげに佇んでいた。
「公約……?」
記入欄の下半分を占める、〈新生徒会長候補としての選挙公約〉という欄を書くに及んで、順調に記入を進めていた俺の腕ははたと止まってしまった。
公約。そんなの考えたこともなかった。思わず級子を振り返る。当の本人は、わたしですか?と自分を指差して眼をパチパチさせるばかり。どのみち、この場で級子に書かせるのは非常にまずい。
「あのぉ」
俺は中央の眼鏡女にそろそろと手を挙げた。
「選挙管理委員会委員長の、三年A組小竜葉摘です」
そう名乗った上で、小竜委員長は何か?と尋ね返してきた。
「コリュー委員長。これ、全部書かなくちゃダメなんスか」
「記入する必要のない箇所など一つもないはずです」
眼鏡の縁に手を添え、冷厳に言い放つ。こうなったら適当にでっち上げるしかなさそうだ。
「アホかお前は」やり取りを聞いた長船がすかさずせせら笑って、「そんなんでよく立候補する気になったな。お前なんぞ所詮その程度の器だってことさ。今から取り消しても恥にはならんぞ」
「恥だと?お前の鬚のほうがよっぽど恥ずかしいわ。そんなんでよく表歩けるな」
「おい丸木戸、もっぺん言ってみろよ」
こっちを威嚇しようとした長船は、何を思ったか「あ」と呟いて己の手許に向き直った。
「すいません、修正ペン貸して」
付近にいた男子生徒が、二本線で消して下さい、と指示を出した。
反撃のチャンスだ。
「何やってんだ。お前誤字脱字の意味判ってんのか」
「うるせえぞ。お前のせいで間違えたんだろうが」
「どうせ自分の名前でも書き損じたんだろ。自分の落ち度を棚に上げて人になすりつけてんじゃねえよ。小せえ器だな」
「ブチ殺すぞてめえ」
「大口叩くな。実際に殺しゃしねえくせに」
「いい加減にしなさい、あなたたち!」
委員長はそう叫ぶや、両掌で机を強く叩いた。更に何か言いかけたが、俺も長船もそれ以上口を挟むのを避けたので、憤然としたまま声を呑み込みガス抜きめいた鼻息を吐いた。
「ふう。ま、こんなもんか」
記入を終え、疲れを癒すように顎を伸ばす。と、視界の右端のほうで何やらおかしな動きが見えた。
ん? なんだ……そっちへ首を傾ける間もなく、
「名尚さん!」
級子の叫び声と同時に、俺は右の腹をすごい勢いで突き飛ばされ、窓の下まで吹き飛んだ。直後、バチンと何かが弾けるような音。
「い、いってぇー……」
一体何が起きた?右腹とクラクラする頭を押さえて窓下の壁にだらしなく寄りかかる一方で、部屋の様子を知るべく薄眼を開けてみる。
足の先に、ヘッドスライディングの恰好で床に突っ伏している級子がいる。少し離れた場所で大きく脚を広げ、丁度竹刀を振り下ろした姿の長船。そしてどうにか椅子から立ち上がったものの、驚きのあまり次のアクションを起こせずにいる机向こうの面々。
なんとなく想像はついた。俺が書き終えたのを見計らって、血の気の多い顎鬚が竹刀で攻撃してきたんだろう。それを察知した級子が俺を突き飛ばし、勢いを止められずにそのまま床に倒れ込んだ……。
「だ、大丈夫か」
「……は、はい」
どうやら長船の魔の手は避けられたようだ。するとさっきの破裂音は、標的を逸れた竹刀が床を思いっきり叩いた音か。
「な、何してるのあなたたち!」
ようやく呪縛から解き放たれた委員長が、両手で頬を覆って金切り声を上げる。
そんなときのことだった。不意に前方のドアが開いたのは。
竹刀を打ち下ろした姿勢のまま後ろを向き、新たな人物の姿を眼に留めた長船の肩が、ぴくりと動いた。
「ふん、ここで真打ち登場ってか」
竹刀片手に、扉の敷居を鷹揚に跨いだ長身の剣士は、室内のただならぬ気配を感じてか一瞬眉を顰めたが、すぐに表情を戻すと長机に座る一同に一礼して、静かに長船の許へ歩み寄った。
「長船、何をしている」
「見ての通りさ。こいつは同じクラスの候補者なんだ。生徒会則に従って、攻撃を加えているところだ」
「そこにいる女の子もか」
「違う。こっちは推薦人だ。勝手に飛び出してきたんだ」
「候補者を庇ったということは、まだ登録が終了していないんじゃないか?」
「だけど記入は終わってるぞ」
「ま、まだ登録は済んでませんよ!」
ヒステリックにそう叫んだのは委員長だ。顔が興奮で紅潮している。
「こちらで記入内容を確認してから、初めて登録申請の許可が下りるんです。な、なんなんですか、いきなり斬りかかったりして」
「チッ、なんだよ」
不満気味に竹刀を収める長船。その背後に、更に新たな人の影が確認できた。
「……級子ちゃん!?」
ツバメだった。慌てて駆け寄り、級子の容態を伺う。
「ケガしてない?」
「あ、はい、大丈夫です」
「長船、この卑怯者!あんた許さないからね!」
「おい待てよ。フライングに関しちゃ謝るが、結局不発だったんだ。そう怒るな」
「そういう問題じゃない!」
俺のほうには、今一人の次期剣道部部長が近づいてきた。
「丸木戸くん、大丈夫かい」
そして未だ座り込んでいる俺に、ゆっくり手を差し伸べる。
「ああ、悪いな」
一応感謝の言葉は口にしたが、手のほうは無視して自力で立ち上がった。
「お前も登録しに来たのか、鬼丸。自分の彼女を推薦人にして」
級子を助け起こしたツバメが鋭く睨めつける。
「彼女じゃないわよ。何言ってんの、この大バカ!」
「そうだよ。それに推薦者は、同じクラスの生徒でなきゃダメなんだ」
「なら何しに来たんだ?未来の部長殿が、部活の最中に直々にこんな所へ」
皮肉たっぷりに長船が口を挟んだ。
「お前がなかなか戻ってこないから、呼びに来たんだ」
「戻ってこないって、十五分かそこらだろう? どこまでせっかちなんだよ」
「その分練習の時間が減ることに変わりはない」
「はいはい、お前さんが練習熱心なことは、俺が一番よく知ってるさ。部長様々だよ全く」長船は呆れたように顎鬚をさすり、続けて「それはそうと、あんたこそこんな半端な時間に来て何やってんだ。早く用紙に書いちまわないと、練習時間なくなっちまうぜ」
「僕はもう済ませたよ。ねえ、委員長さん」
その言葉に呼応するように、委員長が記入済みの用紙を素早く手許に出した。
「あなたは二年C組の鬼丸僧兵くんね。今日の昼休みに申請用紙を受理しています。達筆だし、記入内容も非の打ち所がないですね」
なんだか申請の段階で既に差をつけられているような。
「なんだ……てことは、俺を呼び戻すためだけに来たのか?えらく信用がないんだな俺は」
「それだけじゃない」鬼丸は一瞬だけツバメを盗み見てから、俺に視点を固めた。「ツバメは、どうも君のことが心配らしくてね、丸木戸くん」
ツバメの顔色が豹変した。
「そ、そんなこと一言も言ってないでしょ! あたしはただ、長船とナナが出くわしたら厄介なことになると思って」
「丸木戸くんのことになると、ツバメの勘は異様なほど冴えてくるからね」
「腐れ縁ってやつだ。鬼丸、まさかお前妬いてんじゃねえだろうな?」
「ちょっとナナ! バカなこと言わないの」
ところが、鬼丸はこっちの軽口に対して驚くほど真剣な視線を注いできた。
「確かにね。そうかもしれない」
「へ?」
真意を測りかねる発言だったが、これ以上詮索するのはなんだか空恐ろしい気がしたのでやめておいた。
「ただし、俺はまだまだこいつに気を許しちゃいないからな」俺はツバメを顎で示して、「こいつがお前んとこのスパイじゃないとも限らないし」
「ぬぁ、ぬぁんですってぇー?」
ゴゴゴゴと擬音を従えそうな面持ちで、ツバメは音もなく竹刀を持ち上げた。
「そんなことないです!」級子も加勢する。「小烏さんは、そんな埋伏の毒みたいなことをする人じゃありません」
マイフク、ノドク? だが、それを聞いたツバメが生涯の友を見るような眼で級子と見つめ合ったのを考えると、そこそこ重要なタームなのか。
「委員長さん、そんなことより俺たちの申請はどうなるんだい?」
見るからにうずうずした様子で尋ねかける長船。申請が認められた直後にでも襲いかかるつもりか? なんて好戦的なヒゲなんだ。
「ま、待って下さい。今から話し合います、しばらくお時間を」
二枚の用紙を翳したまま、委員会の面々は小声で耳打ちし合っていたが、程なくして意見がまとまったらしく、代表して真ん中の委員長が立ち上がった。
「検討した結果、両名とも公約に多少難点が見受けられましたが、選挙活動に支障を来すほどではないと判断し、ここに生徒会長立候補者としての申請を受諾いたします」
「よし」
改めてこっちへ足を向ける長船。そこに立ちはだかる次期部長二人。その背後で懸命に案を練る俺と、寄り添うように側に立つ級子。長船の推薦者の小男はというと、為す術なく最初の立ち位置に突っ立ったきり、ほとんど生徒会室のオブジェと化していた。
「止めるな、鬼丸」
「丸腰の相手に卑怯だとは思わないのか」
「いいや思わねえな。武器を持たねえ奴が武器を持つ者の前に屈するのは当然の理だ」
取り敢えず時間を稼ぐしかあるまい。俺は長船の死角に身を置いたまま、口を開いた。
「判った、長船。力で決着を着けようというお前のやり方に、俺も従うことにする」
「な、名尚さん」
「ナナ、あんた正気?」
「ただし」乾いた唇を舌で舐め、そして、「俺がお前の言うことを一つ聞いてやったからには、お前にも一つ、俺の言うことに従ってもらう」
「なんだそりゃ」
「時間と場所は俺に決めさせろ。決闘の場所と時間だ」
しばしの沈黙。己が竹刀をきつく握り締めていた長船は、とうとう構えを解いた。
「いつだ?」
「まだ決めてない。決まり次第連絡する」
「よし、なるべく早めに教えな。それと絶対逃げるんじゃねえぞ、いいか」
「ああ」
不敵に唇を歪めた長船は、委員長のほうを向いて、
「あいつとの決着が着いたら、またここに来ればいいんだな?」
「あ……はい、そうです。今後のスケジュールについては、その際説明しますので」
「ま、どう足掻いても無駄だと思うが。当日まで精々気張るんだな、丸木戸」
捨て台詞を残して、長船は部屋を離れた。叩きつけるように閉めた扉を、小男が慌てて開け直し追い縋る。けれども、室内の異様な雰囲気はそう簡単には緩和してくれなかった。
「ナナ、これからどうするの」
「名尚さん……」
何もない。今のところは。どうするかは、これから考えるしかない。
だが、卑怯の度合なら長船如きに負けやしない。どんな手を使ってでも勝ってやる。手段を選ばない奴が手段を選ぶ奴を打ち破るのは、当然の理なのだから。