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購買でカップラーメンとカレーパンを買う。給湯室でお湯を入れながら、暫し思案する。よし、裏山だ。俺は最短ルートを通って裏山へと走った。
元来なだらかな丘陵地の上に建っている校舎の、更に高い所にある裏山。その中腹部に当たる視界の開けた高台は、麓の町並が一望できる恰好の暇潰しスポットだ。移動に時間がかかるのが難点だが、長閑で他人が踏み入る気配もないし、俺たちサボりの常習犯三人組の――誰かに言わせれば〈三バカ〉の――お気に入りの場所でもある。二人の姿はない。また中庭で喰ってるんだろうか。
取り敢えず、級子に見つかる前に全部平らげてしまえば問題ない。そうすれば恐怖のお手製弁当を喰わされることもないだろう。
中腹の縁に据えられた、膝くらいの高さの平たい石に腰を下ろす。伸びきらないうちに、ラーメンを少しいただくとするか。そう思って蓋に貼ったシールを剥がしたときだった。
聞き慣れないエンジン音が驚異的な速さで近づいてきて、次の瞬間、傾斜の下から一台の大型バイクが飛び出してきた。
おいおい、なんだなんだなんだ?
「…………」
あまりの光景に声も出せずにいると、バイクは俺の数メートル手前で土煙を上げつつ停車した。運転していたのは、黒のライダースーツに白衣を羽織った学校医の叢雲静佳先生だ。どうしてすぐに判ったかというと、あろうことか校医はノーヘルだったからだ。
と、その背後よりスカートを翻してバイクを降りるもう一人の人影。こちらはフルフェイスのヘルメットを被っている。左手に竹刀を収めたその女生徒は、足早に駆け寄ってきて、
「なんで級子ちゃんと一緒に食べないのよ」
幾分くぐもってはいたが、かの幼馴染みの声を聞き間違えるはずがない。
「いや、それはその」
「言い訳はいいから、早く戻って。級子ちゃん待ってるから」
出し抜けに手を取られ、ぐいと引っ張られる。その拍子にカップラーメンの汁が零れて手にかかった。
「アチッ! ひ、引っ張るなおい、や、火傷する」
「火傷ぐらい叢雲先生に治してもらったら?ていうか、あんた何上履きのまま出歩いてんのよ!」
「イタッ! す、脛はやめろ、痛すぎる」
そんなこんなで無理矢理後部座席に座らされた上食料まで没収され、挙げ句ツバメの着用していたヘルメットまで被らされた。
「じゃ、先生お願いします」
校医はツバメに小さく手を上げると、すかさず反転してあっという間に坂を下っていった。
前に座るは美人の誉れ高い校医である。後ろからとはいえ体を密着させるまたとないチャンスなのだが、正直そんな余裕はなかった。
「うわ、うわ、ちょ、ちょっと先生、うわわわ……」
狭くなった視野を流れる風景の速度が尋常じゃない。確かな運転テクニックに裏打ちされた暴力的なライン取りに、俺は腰の辺りにしがみつくのが精一杯で、感触を楽しむことなど完全に忘れていた。振り落とされて死ぬかも、という生命の危機を感じたのも一度や二度ではなかった。
ノンストップで裏門までやって来て、バイクはようやく停車してくれた。ほうほうの体で地面に降り立つ。冗談抜きで脚が縺れ、軽くよろけた。
バイクに乗ったままの校医に腕をちょいちょいと突かれ、見ると、メットを返せというジェスチャーをしてきた。メットを外して渡したところで、俺はやっと傍らに立つ人影に気づいた。
それは弁当箱と思しき包みを三つばかり抱え、両の眼を真っ赤に腫らした級子だった。
「女の子を泣かしちゃダメよ、丸木戸くん」
豪快なエンジン音を上げてバイクが走り去ったのち、級子は手にした弁当を一つ差し出して頭を下げた。
「ごめんなさい」
「え?」
謝るのはこっちのほうだと思うが。
「昨日、名尚さんのご様子が思わしくなかったので、きっと味つけが悪かったのだと思いまして、今日は自分で食べてみました。寮の同じ部屋の方にも味見してもらって、これなら大丈夫とおっしゃられたので、お気に召していただけるはずです。昨日は、本当に申し訳ありませんでした」
直接不味いとは一言も言ってなかったのだけれど。態度で察していたのか。
「いや、俺も悪かった。何も言わないで勝手にメシ喰いに行っちまって。ごめんな」
頭を掻いて弁当箱を受け取る。
「いいえ、いいんです。食事のほうはまだですか」
「ああ」
「良かった」級子は安堵したように手を合わせ、「名尚さんを捜して歩いていたら、偶然小烏さんと叢雲先生に会いまして。恐らく裏山にいる、すぐに連れ戻すからということで、お二人に迎えに行っていただいたのです。本当に助かりました。あのお二人はわたしの恩人です」
またしてもツバメの勘が的中したわけだ。あいつは俺探知機か。もしかすると体のどこかにGPSでも仕込まれているのかもしれないな、俺。
バイクを奥の駐車場に駐めた校医が、悠然とした足取りで戻ってくる。歩き方も容姿もモデル然とした堂々たるものだ。そうそう、叢雲先生のバイクに二人乗りしたことを、後で天太に自慢してやろう。歯噛みして悔しがるだろう。
「丸木戸くん。あなた、大真面目に生徒会長に立候補するつもりなの?」
「は、はあ、まぁ」
真面目かどうかはともかく、立候補自体は事実だ。それにしても、昨日の今日で校医にまで知れ渡っているのか。他人にとってはどれだけ意外なニュースなのだろう。
「それなら、今日から候補者の受付が始まっているはずよ。空いている時間に済ませておくといいわ」
「あ、そうなんスか。早めに行ったほうがいいんですかね?」
「今週いっぱいは受けつけているから急ぐ必要はないけれど、淘汰期間もあるし、早いに越したことはないでしょうね」
「淘汰期間?」
「ほら、同じクラスで複数の立候補者が現れたら、決闘で一人に絞らなきゃならないでしょう」
け、決闘って……この先生もそういう認識なのか。
「もし武器が入り用なら、わたしが貸してあげてもいいわよ」
「先生、武器なんか持ってんの?」
「ええ、専ら刀剣関係だけどね。脇差の類から肥前国住藤原忠広に至るまで、自慢のコレクションが揃ってるわよ」
そう言う校医の長い睫毛に彩られた瞳が、妖しい輝きを宿した。刀剣にも詳しい学校医か。ちょっと怖いな。おかげでこの先生がこの学校に勤務している理由が、少し判った気がしたが。
「でも、コレクションってことは、汚したりキズつけたりしちゃまずいんじゃ」
「もちろんよ。無傷のまま返してちょうだい」
それ、要は使うなってことじゃないのか?借りる意味がない。
「頑張ってね、丸木戸くん」校医は俺の肩に手を置いて、「こう見えても、わたし超医療特区の嘱託医だから。あなたの身に何かあったら、傷痕の残らないようにちゃんと縫い合わせてあげるわね」
「せ、先生……全然洒落になってないって」
「七支さん、丸木戸くんにもしものことがあったら、すぐにわたしを呼んでちょうだい」
「あ、はい。判りました」
俄に畏まる級子。
「さすがのわたしも、息を引き取った人までは治せないから」
「ちょっと先生」
おっとこうしちゃいられない、それじゃあね……薄情な校医はそう言うと、急ぐそぶりも見せずゆったりした歩調で校舎の中に消えていく。その後ろ姿に、級子は深いお辞儀をして並々ならぬ敬意を表した。
「きれいな方ですね」
「人気があるのは確かだけどな。ただ、結構な変わり者だってことも今日判っちまった」
「傾城の美女ですかね。さしずめ貂蝉か二喬といったところでしょうか」
チョウセン? ニキョウ? 誰だそいつは。美人の名前にしては聞き覚えがないな。ひょっとして外国人か?
と、俺の胃袋が空腹を報せるべく、ぐるるると猛獣のような呻き声を発した。
「おお、そういや腹減ったな。メシ喰うか」
「お昼いただいたら、受付に行きますか?」
「いや、今からだとあんまり時間もないし、メシぐらいゆっくり喰おうぜ。お前もまだ喰ってないんだろ?」
「は、はい。そういえば、天太さんと伽藍さんは屋上だそうですが。南棟の」
「めんどくせえな。ここで食べるか」
「あと、小烏さんのお弁当を預かっているのですが」
「そのうち来るだろ。来なけりゃ喰っちまおうぜ」
それはあんまりですよ、と苦笑する級子。まあ泣かせるのに比べればよっぽどましだろう。この小娘の扱いも、今後は要注意だ。
裏口横のテラスっぽい一角に並んで座り、弁当の包みをほどいていると、門の向こうからツバメがタイミングよく姿を見せた。
「おう、ツバメ。お前も一緒に喰うか?」
「そうね……って、あんたまだ靴履き替えてないの」
ツバメは級子から弁当を受け取る前に、俺の前にカップラーメンの容器を翳した。
「お弁当終わったらこれも食べてよね」
「えーっ、それもうとっくに伸びてんだろ。要らねえよ」
「つべこべ言うな。あたしと先生に迷惑かけた罰よ。全部食べなさい」
「小烏さん、本当にすみませんでした」
「いいのいいの。悪いのはこいつなんだから……ナナ、残したらただじゃ置かないからね」
「どうせ竹刀で叩くんだろ。なんとかの一つ覚えでさ」
「どうしても今叩かれたいみたいね」
「い、いただきます」
ラーメンの容器を恭しく手に取り、俺は深刻な溜め息を洩らさずにはいられなかった。先程より明らかに温度の下がった容器が、殊更重く感じられる。俺は食べる前から胃凭れに襲われた。