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教室ではそろそろ朝のホームルームが終了し、一時限目の準備をしている頃だろう。今日は二限くらいから出てみるか。
名前も知らない広葉樹の蒼々と生い茂る並木道。そのベンチに横たわって雲の切れ間をぼんやり眺めていると、頭上のほうから小さな跫音が近づいてきた。
「名尚さん、授業が始まりますよ」
昨日初めて聞いた声だ。その体勢のまま顎を伸ばすと、あの転入生の姿が上下逆になって視界に映った。
「なんだ、お前か」
曲げていた膝を伸ばし、大きく伸びをする。単なるポーズのつもりが、本当に欠伸が出てきた。
「早く戻れよ。お前こそ遅刻するぞ」
「問題ありません。名尚さんを連れて帰るまで、教室には戻らないと伝えてありますので」
「いやいや、そりゃ俺が困るっての」
「さっ、早く戻りましょう」
「お前なぁ」
大人しい顔をしているが、その実結構な小悪魔なのではないか?
ちょっと警戒したほうがよさそうだ。
「よくここにいるのが判ったな」
「小烏さんに伺ったんです」
「ああ、なるほど」
ツバメには俺の居場所を探知する能力が備わっているらしい。本人に言わせると、〈あんたの行動はワンパターンだから、どこに行きたいのかぐらい大体判る〉のだそうだが。
「しょうがねえなあ」
不承不承起き上がり、ズボンの汚れを払う。気乗りはしないが、ずっと近くにいられても落ち着かない。ここは俺が引くか。
「小烏さんが」
色調に乏しいタイル状の道を並んで歩いていると、級子が声をかけてきた。
「ひょっとすると三バカ……あ、すみません、そうじゃなくて、えーと……ほかの二人もいるかも、とおっしゃっていたのですけれど、今朝はいらっしゃらないのですか?あの、昨日のお昼にご一緒した」
「ああ、あいつらね。朝は顔合わさないからなぁ」
天太と伽藍は、クラスこそ違えど一年のときに寮が同室で、その縁で自然とつるむようになった。けれども進級と同時に部屋も別々になり、クラス替えでも一緒にはならなかったので、多少疎遠になっていた。
にしてもツバメの奴、昨日来たばっかりの転入生にまで〈三バカ〉とか伝えているのか。名誉毀損だ。訴えてやる。
「ほかの場所でぐだぐだやってるか、それか真面目に授業受けてんじゃねえの」
「あの、名尚さんは、遅刻を続けていて大丈夫なのですか?」
「大丈夫って、何が?」
「学業が疎かになったりとか」
「まあ、落第はしないようにうまくやりくりしてるからな。最低限のラインは守ってるし。こう見えてもすごく計算してんだよ」
「そうだったんですね。失礼しました」
適当にやり過ごして二階の教室へ。もう一時限目は始まっているはずだが、クラスメイトたちの様子が少し変だ。雑談とまではいかないけれど、やけに私語が目立つ。後ろを向いて椅子に馬乗りになっている生徒もいる。まだ教師が来ていないようだ。
黒板に書かれた〈自習〉の二文字を見て、俺はすっかり騙されたことに気づいた。こっちを見るツバメの顔に満面の笑みが浮かんでいる。してやられたのか俺は。
「級子、お前知ってたのか」
「す、すみません」深々と頭を下げ、級子は、「でもやっぱり、授業にはなるべく出たほうがいいと思いまして……」
「判ったよ、ったく」
今更ベンチに引き返すのも億劫だ。俺はつかつかと一番後ろを通って自分の席に腰掛けた。そんな俺に近づく一人の人影がある。
剣道部の、長船大雅だ。
通り道付近の生徒が注視する中、俺の斜めすぐ手前で長船は立ち止まった。その周辺だけが、不自然に静まり返る。
「丸木戸」
「ん?」
「今朝、面白い噂を耳に挟んだぞ」
早速来たか。血の気が多い野郎だ。
「へえ。俺にも聞かせろよ」
「お前、生徒会長に立候補するんだってな」
「なんだその話か。それがどうかしたのか?」
「奇遇だな。俺も立候補するのさ」
長船はトレードマークの竹刀を下に向け、その柄を両手で包むように押さえつけた。自称剣豪の子孫だそうだが、顎に蓄えた虎鬚も相俟って、これで椅子に座ったら戦国武将と見紛う居姿である。
「悪いことは言わねえ。選挙から手を引け」
宣戦布告か。さすがクラス一の乱暴者と名高いだけのことはある。居丈高な物言いもすっかり板についている。
「立候補を、取りやめろっていうのか」
「ああそうだ」
「誰が言い触らしたのか知らねえけど、俺立候補するなんて一言も言ってねえよ」
「いいえ、名尚さんは必ず立候補します」
恐る恐るといった声色で、級子は言った。ああ?と長船が凄味を利かせると、ヒッと叫んで身を竦ませる。強面の上に体格差だけでも親子ほどの違いがあるし、無理もない。
「こいつが推薦人か」長船は鼻で嗤って、「まあ誰がバックにつこうが同じことだ。最終的に候補者を決めるのは、俺たち二人の問題だからな。そうなりゃ間違いなく俺が勝つ」
見下すような言い分に少々腹が立った。
「根拠もないのによく言うぜ」
「何ィ?なんなら今ここで、どっちが強いか決めてやってもいいんだぞ?ああ?」
長船が竹刀の先端で机を何度か叩いた。挑発しているのか。ここで引いたら男が廃る。やってやろうじゃないか。
……いや待てよ。ふと冷静になって考える。こっちは素手だ。武器がなければ防具もない。こんな無防備な状態で、もし脳天でもしばかれたら……メチャクチャ痛い。頭蓋骨が陥没するかもしれない。ツバメには散々打たれ続けてもう慣れっこだが、あれでも本気で叩いたことは一度もないだろう。だが、長船は手加減などしなさそうだ。
ここは一つ、机に額をこすりつけて謝っておくか。
「上等だコラ」
俺は敢えて虚勢を張った。何故なら、あれやこれやと思い巡らせているうちに、長船の背後から救いの女神が近寄ってくるのが見えたからだ。
「ちょっと長船。授業中でしょ」
ツバメの苦言にも長船は動じない。
「留め立てするな。こいつもやる気になってるぞ」
「あんたたち、まだ選管に立候補の申請してないでしょ」
「センカン?」
「選挙管理委員会。そこに立候補しますって言いに行かないと、正式な候補者として認められないのよ。それが済むまでは、いくらここで騒いだってなんの意味もないってこと。今コテンパンにやっつけたとしても、それこそ私刑扱いで停学処分よ」
ふん、と息を吐いて長船はゆっくり竹刀を下ろした。
「そういうことなら、勝負はお預けだ」
攻撃が来ないと判れば怖くない。いや怖くないというのは大袈裟だが、奴の後ろには竹刀を持ったツバメもいるし、よもや傍観に徹するなんていう俺みたいな真似はしないだろう。仮にも幼馴染みだ。
「自分でふっかけといて逃げるのかおい」
今度はこっちから煽ってやった。もちろん有事に備えて座席から飛び退く準備は万全にしておいてだ。
憤然と睨みつける長船だが、どうにか怒りを肚に収めたと見える。踵を返して自席へと足を向けた。その戻り際、擦れ違いざまにツバメのほうを見やって、
「小烏」
「何よ」
「お前どうして丸木戸の肩を持つんだ。本来なら、同じ部活の俺を支持するべきじゃないのか」
「肩なんか持ってないわよ」
「ふん、どうせ鬼丸が勝つから、どっちが出てこようが大差ないとでも思ってんだろう。お前から伝えておけ、精々足許掬われねえようにってな」
「あんたが面と向かって言えばいいじゃない。同じ部活でしょ」
「ふん」
押し退けるようにしてツバメから離れ、長船はわざとらしく音を立てて着席した。座るというより、臀部を座面にぶつけるといったほうが相応しい座り方で。
ツバメは何か言いたげな顔だったが、結局無言のまま心配そうにこっちを一瞥したのみで、自分の席に引き下がった。
「なんだか、とっても怖い方ですね」
ひそひそ声で級子が話しかけてくる。
「あんなの見てくれだけさ」
「名尚さん、さっきすごくカッコ良かったです。啖呵切ったり、逃げ腰になった長船さんを挑発したりして」
「当たり前だ。あのくらいは言ってやらないと」
実は心身共に冷や汗タラタラものだったのだけれど、そこまで教える必要はないだろう。
教室にはさっきまでの雰囲気が戻りつつあったが、俺の背中に張りついたYシャツの冷たさは、なかなか消え去ってはくれなかった。やれやれだ。真面目に授業を受けようとすると、ろくな目に遭わない。