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私立御剣高等学校に入学して、もうじき一年半が経とうとしている。
その間、俺は一度たりとも図書室に足を運んだことがなかった。
図書室までの経路ですら今日初めて知ったくらいだから、相当気合の入った疎遠ぶりだといえる。
図書室に関心がない一番の理由は、もちろん読みたいマンガや雑誌が置いてないことなのだが、昔から図書館という空間には無言の圧力を感じて好きになれなかった。
沈思黙考を常としていた兄貴と違い、俺は沈黙というやつに免疫がないのだろう。
二学期の一日目を無事乗り越え、放課後。
作戦会議と称して転入生の級子は俺を図書室へと連れ出した。
昼飯が少なかったせいで既に空腹だったのだが、それを告げるとサンドイッチの残りを喰わされそうなので黙っておいた。
「図書室の場所なんて、よく知ってんな」
「はい、学校の見取り図は、休み中に凡て頭に叩き込んでおきました。地の利を知るのは戦略上重要ですので」
「なんかすごいわね。戦の準備みたい」
後ろからのツバメの声に、俺は肩越しに振り返って、
「なんでお前がいる」
「二人っきりだと、あんた間違いなく悪さするでしょ。そういうことのないように見張ってんのよ」
「部活サボりたいだけだろ」
「あんたと一緒にしないで」
険悪なムードにおろおろしながらも、転入生は歩みを止めずに俺を導き、やがて頃合いを見計らったかのように、
「こちらの学校、本当に変わってるんですね」
と切り出した。
「そう? どの辺が?」
「そりゃあお前、剣道部員が四六時中竹刀を持ち歩いてることだろ」
つむじの辺りに一発貰って、俺は悲鳴と共に頭を抱えた。
「だ、大丈夫ですか?」
引き攣り笑いを浮かべて問いかける級子。
「平気平気。こいついつもこんな調子だから」
「お前なぁ、幼馴染みなんだから、ちったあ手加減しろっての」
「関係ないでしょ……まあでも、竹刀の帯刀は学校創立以来の伝統だしね。剣道に関しちゃ一応名門校だし」
「その由緒ある剣道部の次期部長が、小烏さんなんですよね。本当にすごいことだと思います」
「やだなぁ、そんな大したことないよ」
「そうそう、どうせ賄賂とかの裏工作で実権を……って、お、ごあっ、や、やめろって」
今度は喉を突いてきた。
正気かおい。
こっちは防具の一つも着けちゃいないのに。
「そ、それに、もっと不思議なこともありますよ」
間を執りなすように級子は言葉を継いだ。
「二学年だけG組がないこととか」
「やっぱりそう思う? 絶対変だよね。ほかの学年はちゃんとあるのに」
この学校は各学年が全部で七つの学級に分かれている。
クラスの名称にはアルファベットが用いられ、先頭の組から順にA・B・C……と割り振られる。
ここまでは普通だ。
七クラスあるので、最後のクラスは当然七番目のアルファベット〈G〉が振られることになる。
現に一年と三年はそうなっているし、俺自身去年は一年G組の生徒だった。
ところが。
第二学年だと、一年G組は一つ跳んで二年H組になるのだ。
どういう訳か、第二学年だけはG組が存在しないのである。
更に第三学年では再び三年G組に戻る。
かなり昔からの規則らしいが、面倒なだけで得など一点もない気がする。
どうしてこんな制度を採用しているのか、俺にはさっぱり判らない。
「学園七不思議とまではいかないけど、結構おかしなこと多いのよね、うちの学校」
「まだあったっけか?」
「あんたねぇ、来月の生徒会長選挙なんて、その中でも最たるものでしょうが」
そうなのか?
よくよく考えてみると、俺は生徒会選挙の内実についてまるで知らない。
昨年の選挙で記憶に残っていることといえば、全校生徒が集まって投票したのち、その場で開票するという発表形式くらいのものだ。
しかも実際に投票した憶えはないから、どこかで昼寝でもしてたんだろう。
ややあって図書室に到着。
まだ閲覧可能な時間なので、生徒たちの姿もちらほら見受けられる。
見憶えのない顔ばかりだ。
日頃の俺の生活では、決して交わることのない連中なんだろうな。
「なあ、級子。兄貴にはなんて言われてんだ?」
級子はすぐには答えなかった。
六人掛け程度のテーブルにそれぞれ腰を下ろし、俺とツバメを順繰りに見渡したところで、ようやく意を決したように口を開いた。
「それが……鶴丸さんからは、弟の選挙活動を手伝ってほしい、としか言われてないのです」
「それだけなのか?」
「はい」
もっと色々聞いていると思ったが、その程度か。
「〈影〉がどうのとか言ってなかったか?」
「影、ですか……?」
「いや、聞いてないならいい。なんでもない」
白を切っているふうでもなさそうだ。
となると、それほど根回しがいいとも思えない。
妙な感じだ。
前もって助っ人を送り込む用意周到さがあるかと思えば、細かい指示を全く与えない杜撰な面もあったり。
何か裏がありそうだが、それも定かじゃない。
「ねえ、級子ちゃんって、ナナのお兄さんとはどういう関係なの?」
頬杖を突いた姿勢で、ツバメが尋ねかけた。
むろん頬杖は左手でだ。
利き腕はパイプ椅子に立てかけた竹刀にすぐさま手を伸ばせるよう、恐らく膝の辺りにでも乗せているに違いない。
「鶴丸さんとは一度しかお会いしたことがないんです。ただ、うちの父が、鶴丸さんと名尚さんのお父様には大変懇意にしていただいたそうで」
「ふぅん」
俺は話半分に聞きながら大欠伸を放ったが、幼馴染みの凶悪な視線に気づいて居住まいを正した。
「そうなんだ。でも、こんな奴のために学校まで変えちゃうなんて、ちょっと可哀想な気がするなあ」
そういうことを、何も〈こんな奴〉の眼の前で言うことないだろうに。
「そんなことないですよ」級子は顔の前で手を振って、「わたし、この高校にずっと憧れていたんです。純粋に剣の道を究めようという教育理念は、とても素晴らしいことだと思います」
「その代わり、剣道の大会には出場できないんだけどね。まあ、そんな大会に出たがるような人は最初からここには来ないし、だから級子ちゃんみたいなコがすっごく貴重なのよ」
「はい、ありがとうございます」
「もし心変わりしたら、いつでもあたしに言ってきてね。うちの部、カワイ子ちゃん大歓迎だから」
往生際の悪い女だ。
それでこんな所までのこのこついて来たのか。
「いえ、そんな」
「お前の部活って大会に出れねえの?」
ツバメは深い深い溜め息を吐いて、
「あんたそんなことも知らないの?元々うちの学校は〈真剣勝負〉をモットーとした剣術の練習場が発展したものでしょ」
言われてみれば、そんなことを聞いた憶えがあるようなないような。
ただ、この学校内において剣道部が、他校では類を見ないほどの一大勢力を誇っている点は疑いようがない。
でなきゃ、いっぱしの剣士気取りの帯刀がここまで黙認されるはずがない。
「さすがに真剣を振り回すことはなくなったけど、剣道大会で名を上げるのは、真剣の徒として恥ずべき行為だっていう風潮が根強いのよ。だから大会には参加しないわけ」
「そんなもんかね」俺は小馬鹿にした口調で言った。「優勝できないのが怖くて、建前言ってるだけなんじゃねえの?」
「あんたねぇ」と、髪を掻き上げ呆れたように口を開くツバメ。「もし本当に生徒会長に立候補したら、そんな減らず口二度と叩けなくなるからね」
「何?」
「選挙規則第一章第七条。生徒会長の立候補者は各学級より一名選出すること。定員に満たない場合は学級内の投票にて選出すること。もしも定員を上回る場合は……」
続きを引き取ったのは級子だった。
「……協議その他によって選出すること」
二人とも生徒会の会則を容易く諳じてみせた。
こういうことは、暗誦用に憶えておくものなのか?
「んで、一体それがどうしたんだ?」
「まだ判らないの?」
「あ?」
「定員オーバーのときは、〈協議その他〉で決めることになってるのよ。つまり投票をする必要がないわけ。でもって、うちのクラスは長船が必ず立候補するでしょ」
あの猪みたいな単細胞野郎か。
そんなに会話を交わしたわけでもないが、仲良くなれそうなタイプじゃないのは確かだ。
「あいつのことだから、腕ずくで候補者の座をもぎ取ろうとするでしょうね」
「腕ずくって、まさか」
級子の顔が瞬く間に強張った。
「まあ、あいつも剣の腕は確かだから、木刀とか使ってきたら……そうね、折ろうと思えば腕の一本や二本は折っちゃうんじゃない?」
「そんな」
思わず顔を覆う級子。
「何真に受けてんだおい」
俺は下らないことばかり並べ立てるツバメを睨みつけた。
そんなバカな話があるか。
「待て待て。折っちゃうんじゃない? じゃねえだろ。そんなことしたら傷害事件だ」
「普通の学校ならね。だけどお生憎様、ここは天下の御剣高校よ。剣術で相手に〈参りました〉って言わせちゃえば、後は不可抗力だとかなんだとかでうやむやにしちゃうでしょうね。弱い奴が悪いってことで」
おいおいおい……なんだそれ。
ここは弱肉強食の世界かよ。
「お前、折れたのが首の骨だったらどうするんだ」
「そりゃあ、大腿骨骨折とか命に関わることなら、麓の総合病院に行かなきゃならないけどね。内臓破裂とか」
「遠すぎるっつうの。手遅れだったらどうしてくれんだ?」
「そんなことわたしに訊かれても……」
何かが決定的に違う。
感覚が、認識が微妙に、けれどもはっきりとズレている。
「心配要りません」両の拳を握り締め、級子が声を振り絞った。「明日にはわたしの剣が寮に届くはずです。そうすれば、名尚さんを害する者は懲らしめて差し上げますので」
「それがダメなのよ」残念そうにツバメが言った。「取り敢えず候補者には推薦者が一人つくんだけど、会長候補の登録が済んだ瞬間からクラス代表として正式に選出されるまでの間、推薦者は当事者同士のやり取りに一切介入できなくなるの」
「ご、護衛もできないのですか?」
小さく頷くツバメ。
「そういうのって、話し合いで決めるだろ普通」
「普通の高校なら、ね」
そうだった。
授業フケたり寝たりの繰り返しでなかなか気づかずにいたが、ここは普通の高校じゃなかった。
二年だけG組がないわ、剣道部が幅を利かせているわ、近所にコンビニもないわ……。
「うちの学校の教育理念って知ってる?」
「知らん」
「即答するな。それにあんたには訊いてないから」
「文武両道ですね」
級子の答えに、ツバメはさも満足そうに微笑んで、
「そう。その文武両道を理想とするうちの高校の、選挙の部分を〈文〉とするなら、言わば〈武〉に当たるのが、一つしかない候補者枠の奪い合いなわけよ」
どう転んでも、力ずくで長船と争うことになるのか。
ケガを覚悟で。
いや、絶対ケガするだろ。
勝ち負け以前の問題だ。
それに速攻で治せると言っても、当の学校医が留守にしてたらどうするんだ?
「だ、大丈夫です。心配ないです。多分……」
どうにか励ましの言葉を口にした級子ではあったが、そこに自信は少しも滲み出ていなかった。
「立候補を取りやめるっていう選択肢はないのか?」
「何弱気になってんのよ」
ツバメにポンポンと肩を叩かれた。
もちろん竹刀で。
「あんたが本気を出せば、選挙なんて楽勝なんでしょ?」
「そ、そうでしたね。お昼の時間に、確かそうおっしゃってましたよね」
二人揃って記憶力がいいのは判ったが、俺の質問には答えてくれないのか。
俺に決定権はないってことか?
「まあ、本気さえ出せばの話だけどな。一応大天才だし」
「少しは謙遜しなさいよ」
いや、謙遜してそれなんだけど。
「わたしもちょっと弱気になってました。反省します。こんなに落ち込んでいたら、作戦会議になりませんよね。幸い今日は小烏さんもいらっしゃいますので、名尚さんを候補者にするための案を、色々と出してもらいたいのですけれど」
「案を出すって、そんな柄じゃないよ、あたし」
「いえいえ、先程からの的確な助言の数々、ありがたい限りです」
「えーそう? なんか照れちゃうなぁ」
級子に褒められ、ツバメは満更でもなさそうだ。
「なんかこう、軍師みたいな感じ? 四輪の車に乗った孔明みたいな」
ツバメは背凭れにふんぞり返って、団扇で扇ぐような仕種をした。
すると……。
「こ、ここ孔明!」
級子の表情が一変した。
興奮に眉尻がわなないているのがはっきり見て取れる。
奇声に近い級子の声に、数人の生徒がこっちを向いたが、当人は気にも留めなかった。
「それです! わたしたちは軍師を求めていたんですよ。選挙も戦の一種には違いありませんから、深謀遠慮を極めた頭脳が不可欠なのです」
「でも、どっちかっていうと、考えるより先に手が出ちゃう性分なのよね。あたし扈三娘タイプだから」
「こ、こここ、扈三娘!」
級子のテンションが明らかにおかしい。 変なスイッチが入ってしまったようだ。
「……演義はやっぱり吉川英治版ですよね」
「夏侯惇の〈惇〉が、〈トン〉じゃなくて〈ジュン〉になってるのよね」
「そうです! なので、それを踏襲した横山光輝や光栄のゲームでは〈ジュン〉の読みが採用されているんですよね」
「でも、昔はむしろ〈ジュン〉のほうが一般的だったんでしょ」
「みたいですね……ああ嬉しいです。転校初日に、こんな話で盛り上がれるなんて」
「蜀の武将だと誰が好き?」
「趙雲と馬超です!」
「おっ五虎将チョイス。定番だねぇ。錦馬超に、〈子龍は一身すべてこれ胆なり〉」
「うううひゃー!」
一体なんの話題で意気投合しているんだろう。
さっぱり判らない。
この盛り上がり方から察するに、女子向けのBLものか何かだろうな。
俺にはどうでもいい話だ。
俺は耳を傾けるのをやめて瞼を閉じた。
結局、閉館時刻ギリギリまで二人は愉しげに語り合い、選挙の対策らしき案は一つも出てこなかった。
こんなことなら、〈影〉にでも相談したほうがまだ有意義だったと思う。
夕刻の西の外は依然として明るかったが、日中隆盛を誇った太陽は灰色の雲の向こうに鳴りを潜めていた。
これでは〈影〉も出てこないだろう。
「お前、部活はいいのかよ」
「ん、一日くらい問題ないっしょ。明日はちゃんと出るし」
「未来の部長がそんなんでいいのか?」
「思い出した! ねえねえ級子ちゃん、梁山泊にも五虎将っているじゃない。そうそう、関勝に林冲、秦明でしょ。あと呼延灼と……もう一人誰だっけ。いっつも最後の一人だけ出てこないんだよね……そう董平! 級子ちゃんすっごい! よく憶えてるねー……」
学生寮へ向かう道すがら、女二人の会話は十秒と途切れることがなかった。
よくもまあ、飽きもしないでこれだけ喋れるもんだ。
あー腹減った。