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俺は唖然とした。
「まあ、そういうわけなのよ」
校医から凡てを聞き終えても、俄には理解することができなかった。
「すみません、ごめんなさい、申し訳ありませんでした!」
さっきから級子はずーっと頭を下げている。
信じられるわけがない。俺の左腕を切断した犯人の正体が実は級子で、衣装と刀は校医から拝借したもので、あの日級子が急いで寮に帰ったというのも嘘で、実際は並木の陰で変装して俺が通るのを待ち受けていただなんて。急に言われても、信じられるわけがないだろう。
「なんで、そんなことを」
「七支さんはね、腕を斬るつもりはなかったの。刃先に塗った薬が傷口に浸透する程度の傷をつければ、それで充分だったのよ」
薬? また薬が出てきたか。今度は何薬だ?
「二、三センチぐらいの深さのね。当然、応急手当は必要になるけど、事前にわたしの電話番号は教えてあるから、きっとわたしに連絡するだろうと踏んでたのね。そうすれば、薬云々もこっちで揉み消せると思って」
「あそこで名尚さんが突っ込んでくるなんて、考えてもみなかったんです。あまり近づかれたら正体がバレてしまうと思いまして、身を護るつもりで刀を振り上げましたら、つい」
「左腕を斬り飛ばした……ってわけか」
「す、すみません! ごめんなさい……」
保護法は、あくまで対立候補やその推薦者に対して有効なもので、自分の推薦者に攻撃されるという想定などしていないのだろう。
結局、保護法を破ろうとして未遂に終わった野生児も含め、誰一人保護法を破った者はいなかったことになる。真相は、こんなにも身近な場所に隠れていたのか。
「ほんとお前は弱い奴に対して容赦ねえからな。野生児のときとか」
「わたしの修行不足です! 申し訳ありません。こんなことのないように、予め練習もしていましたのに」
「練習?」
「はい、傘でこう、後ろからバシンと」
思い出した。トイレを出たところを傘で叩かれた、あのときか。あれが俺を襲う練習だったのか。
それだけじゃない。俺がベッドで意識を取り戻したあの日、犯人推理に話が及んだとき、級子も校医も言及を避けていたように思う。つまり、言及しないだけの理由があったというわけか。
「さっきから薬って言葉を結構聞くんだけど」と、俺は級子を見つめながら言った。「その薬ってのは、お前の所持品なのか」
級子は返答に窮した。代わりに校医が、
「違うわ。わたしがあげたの」
「なんでまたそんな」
「小烏さんがあんまりにも君を追いかけ回すものだから、七支さん、不安になっちゃったのよ」
「不安?」
「君と小烏さんが、くっついちゃうんじゃないかって」
「くっつく? 俺とツバメが? まさか」
「本人はそう思ってても、周りが同じように受け取るとは限らないでしょう。とにかく、そんな七支さん見てたら可哀想になっちゃって、老婆心ながら協力してあげようと思ったのよ。それで保健室に呼び出して、色々アドヴァイスをしたのね」
「そういやお前、傘で俺叩く前、確か保健室に行ってたんだよな?」
恐縮したまま頷く級子。あの段階で、既に俺を襲撃する準備が着々と進んでいたことになる。なんてこった。
「刀と薬のアイデアを提供したのもわたしなの。だから、あんまり七支さんを責めないであげて」
「あの、その薬ってなんなんスか?」
「まだ判らないの?」呆れ果てたように校医は肩を竦めた。「七支さん、残念だけど、薬の効果は全く出てないみたい」
「い、いえ……わたしはその」
「……?」
訳が判らない。さっぱりだ。それより、俺にはもっと気になることがある。それを尋ねることにした。
「今言ったこと、どうして俺にバラしたんスか? このまま黙ってても問題ないはずなのに」
「七支さんがね」校医は慈しむような眼で級子を見て、「これ以上黙ってるのは耐えられないって言ってきたの。丸木戸くんも晴れて生徒会長に選ばれたことだし、たとえ事実を告げて嫌われたとしても、それはそれで仕方がないってね」
「アホか。怒る気にもならねえ」
俺は椅子から立ち上がった。拳を握り押し黙っている級子を一瞥し、それから校医に向かって、
「それと、薬のことはよく判らないんスけど」と前置きしたのち、「前につけてもらった先生の特効薬でちゃんと腕も繋がってんだし、その薬も全然効いてないってことはないんじゃないスかね」
「丸木戸くん」
「名尚さん……」
見上げた級子と眼が合う。俺は慌てて逸らし、
「ま、包帯を返し序でに剣を見せに来ただけなのに、そんな話が聞けるなんて思ってもみませんでしたよ」
全員の視線が机上の刀剣に集中する。刃毀れ一つない黒い刀身が、天井の照明を受けて濡れたように輝いていた。
「百パーセント鉄隕石製の剣、早くコレクションに加えたいわぁ」
夢見がちな表情で囁く校医。
「もうちょい待ってて下さい。試したいことがあるんで」
「でも、本当にいいの? わたしが引き取っちゃって」
「まあ鬼丸には怒られそうだけど、俺には必要ないんで」
今日は寮の同居人が出払っていて、一晩中独りで過ごすことになった。
『なんでまだ持ってんだよ! 早く叢雲センセーに預けちまえって』
正確に言うと独りではないのだが。
「そう言うなって。いざ離れるとなると寂しいもんさ」
『嘘つけ。どーせ何か企んでんだろ』
「そうカリカリすんな。またお前と話ができて嬉しいんだからさ」
『嘘つけ。顔見りゃ判る』
巨大隕石を弾き飛ばしてから数日もの間、〈影〉は声を出すことがなかった。疲れて寝ていたのだそうだ。てっきり死んだものかと思っていたのだが。
二段ベッドの下に腰掛け、黒い刀身を覗き見る。顔が映るほどきれいな表面には傷一つない。
「どうして剣が離れたんだろうな?」
『さあな。本来の姿を取り戻したから、用済みの宿主から離れたんじゃねーの』
「どうして鬼丸じゃなくて俺を選んだんだ?俺なんか剣のド素人だぜ。鬼丸のほうがずっと使いこなせるだろうに」
『知るかよ。お前のほうが単純で扱いやすいからだろ』
「なんだとコノヤロー」
床に映る〈影〉の位置を確認して、俺は剣を下に向けた。
『バカ、お前』
声音が変わる。〈影〉は明らかに怯えていた。
「ははーん、やっぱりそうか」俺は得意げになって言った。「お前、実はこの剣が怖いんだろ」
『怖くなんかねーよ』
「単純だなお前」
〈影〉に触れるか触れないかのところで剣先をちらつかせる。その狼狽ぶりは尋常でなかった。これだこれ。こいつを試してみたかったんだ。
「こりゃ面白いな。もう暫く手許に置いとくか」
『ふざけんなてめー!』
「まだ口答えすんのか。お前なんかずーっと寝てりゃ良かったのにな」
『刺すなよ、絶対刺すなよ!』
「そう言われると刺したくなるんだよな、人間ってのはさ」
『バカ、やめ……』
そのとき、携帯電話が鳴った。聞き慣れないメロディー。メールじゃない。電話だ。この着信音は……。
兄貴だ。
珍しい。珍しいにもほどがある。何年ぶりの電話だ? どういう風の吹き回しだろうか。
出るか? それとも無視か? 別段話すこともないような気がするし、話したいことが山積みな気もする。
どうするか……迷いに迷った末、取り敢えず携帯を取ろうと俺は腰を上げた。
「…………」
腰は上がらなかった。
手を離れた剣は、真下の〈影〉に真っ直ぐ突き刺さっていた。
『だ、だから言ったじゃねーか。無生物だけじゃねー、〈影縫い〉は生き物の〈影〉も縫いつけちまうんだよ』
〈影〉は語る。だが俺は喋れない。指一本動かせない。動きを封じられた。いや、自分の手でうっかり封じてしまった。
『どーすんだよ。今夜は独りきりなんだろ?』
そうだった。今日この部屋にいるのは俺だけだ。
声が出ないから助けも呼べない。ドアの鍵は内側からかけてある。誰も入ってこれない。
……一晩中、こうしてじっとしてなきゃならんのか? 明日からは本格的な生徒会の引継ぎが始まるんだぞ。副会長の鬼丸や、ほかの役員たちとの顔合わせもあるし、会監に就任したツバメにも後で怒られる。何より書記の級子が心配するだろう。
明日からが本当の始まりだというのに。
鳴り続ける着信音を耳にしながら、俺はまさに生ける彫像だった。
(了)