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黒い染みは少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
ブラックホールが音もなく広がっていくような不気味な光景に、まだ夏の残暑も抜けきっていないというのに背筋がぞっと粟立った。理事長はあれを見て固まってしまったのか。
「な、なんだあれ?」
「やだ、ちょっと大きくなってない?」
「ブラックホール?」
『隕石だ』
生徒たちの喚きに〈影〉は冷静に答えたが、むろんそれが聞こえるのは俺だけだ。
「い……隕石だ!!」
またしても、俺の口は勝手に叫んでいた。〈影〉に身体を乗っ取られてしまったのかと一瞬思った。
「隕石!?」
「まさか……ここに落ちるのか!?」
それから訪れたパニックは、討論会の乱入事件の比ではなかった。
「と、とんでもないデカさだぞ!」
「あれが落ちたら……俺たちは全滅だ……」
「なんたることじゃ! 凶星が、凶星が落ちてくる! 太陽神は、太陽神は妾を助けては下さらぬのか」
「凶星ではない。あれは腑甲斐ない我輩への罰だ。シリウスの同胞が、我輩の至らなさを懲らしめようというのだ」
落ち着け、落ち着いてと叫ぶ教師や選管らの声が却って生徒たちの恐怖を煽り立ててしまい、収拾のつく目処は全く立たない。
「おい、どうすりゃいいんだ」
『ゆっくり近づいてるふうに見えるが、ありゃ結構なデカさだからな。かなり早く落ちてくるぜ。取り敢えず校舎は跡形もなくなるな』
「どうすりゃいいのか訊いてんだよ!」
『三十六計逃げるに如かず。けどもう手遅れさ。完全にな』
「名尚さん」
と級子の声。俺が誰もいない空間に話しかけているのを見て、不審に思ったのか。
「剣が……左手の剣が」
包帯は地面に落ちている。露になった刀身に眼をやると、上から降ってきた黒曜石の破片みたいなものが、剣の表面に付着したのが見えた。
「……なんだ?」
謎の破片は次から次へと落下しては、刃毀れを埋めるように刀身に貼りついていく。なんだこの破片は。どこから湧いて出ているんだ?
『おいおい、その剣、まさか……』
剣は七割方元の姿に戻っていた。諸刃のかなりの部分が修復を終え、直線のエッジを取り戻している。降り注ぐ破片は申し合わせたように所定の場所に取りつき、継ぎ目を消して、さながら朽ちていく剣の逆再生映像でも見ているかのようだった。
『やっぱりそうだ。隕鉄を吸い取って自己修復してやがる……こいつぁ〈影縫い〉だぜ!』
「カゲヌイ?」
どこかで聞いた単語だが、それを思い出している時間はなかった。
『ナナ、お前早く壇上に登れ!』
「え、おい」
『いいからさっさと登りやがれ。白い床のほうが縫いやすいんだよ』
縫いやすいってなんのことだ?疑問に思いつつ、俺は狂乱に支配された全校生徒を尻目にお立ち台へ駆け上がった。上空に見える黒い点は益々大きく、今まさに太陽を隠さんとしていた。手前の理事長は……立ったまま気絶していた。
「理事長はどうする」
『ほっとけ』
グラウンドを見下ろす。頭を抱えて悲鳴を発する者、ただただ空を凝視する者、早くも校庭の外へと遁走する者もいた。
「名尚さん!」
「ナナ!」
お立ち台に駆け寄る級子とツバメ。
「お、どうした」
「どうしたじゃないでしょ! 何やってんのよ」
「いや、まだ何もしてない。これからするところだ」
「だから何するのか訊いてんのよ!」
それには俺も答えようがない。
『おし、剣がすっかり元通りになったな』〈影〉は興奮冷めやらぬ様子で、『いいかナナ、自分の足許を隕石の影が覆ったら、剣を床に突き刺せ』
床に突き刺す?
「突き刺すったって、俺の力じゃ無理だ。順手持ちで向きも悪いし」
『いちいち文句たれてんじゃねー! ほら、もう太陽が隠れちまうぞ』
巨大な隕石は異様な速度で地表に迫り、あっという間にグラウンドは隕石の影に覆われた。
『今だ、刺せ!』
言われるがまま、下に向けた剣を灰色に翳ったシーツに突き立てる。奇妙な感触と共に、剣先は数十センチも突き刺さった。
凄まじい風がグラウンドを吹きつけ、スカートを押さえる女子が続出した。けれどもそれを眺めている余裕などない。
風が収まり、逃げていた者も、立ち尽くす者も、頽れていた者も、全員が今一度薄暗い空を見上げた。
「止まった……のか?」
天を覆わんばかりの巨大隕石は、衝突まであと一、二秒というところで、ぴたりと静止していた。
『まだだ。少しずつ下がってきてやがる』
隕石はジリジリと近づいていた。それに呼応するかのように、シーツの下に埋まった剣先が凄い力で押し上げられる。
『絶対抜くなよ! 抜いたら墜落するぞ』
そ、そんなこと言われても……俺の力じゃこれが限界だ。
『そうか! 俺だけじゃねえ。今なら、ここにいる全員の影が隕石の影と同化してるのか。だったら……』
何に思い至ったのか、〈影〉は口早にそう独りごち、そして、
『やい、てめえら!』
向こうの裏山にまで届きそうな大音量で呼ばわった。
『このままじゃ、俺たち全員ペシャンコのお陀仏だ。問答無用で力を貸してもらうぜ。文句は後でいくらでも聞いてやる。さあ力を貸しやがれ!』
〈影〉は、周囲にいるあらゆる生き物の〈影〉に命じた。返事はない。少なくとも俺には聞こえない。だが、剣を押し上げる力に対する新たな反発力が、左腕とは違う箇所から発生しているのが判った。
兄貴や親父なら、そいつらが一斉に声を張り上げる様子も聞き取れるのだろうか。ほんの少しだけ、兄貴たちが羨ましくなった。
『頼むぜお前ら、縁の下の底力を見せてやれよ!』
更に力が加わる。一センチ、二センチ……徐々に刀身が沈んでいく。地上から百メートルばかり上空にて、巨大隕石は完全に停止したようだった。剣はお立ち台の下に、刀身が見えなくなる鍔ギリギリのところまで埋まっていた。
『ふう……完全に影を縫ったぜ』
夕暮れよりも暗い周囲の闇に、〈影〉の声だけが聞こえる。ほかの話し声は一切聞こえない。俺以外の人間には、永遠にも思える静寂が広がっているのだろう。
『最後の仕上げだ。弾き飛ばすぞ』
「ど、どうやるんだ」
『剣を抜いて、切っ先を勢いよく上に掲げろ。勢いよくだぞ』
異論を挟む余地もない。
俺は剣の柄を引っ張った。大した抵抗もなく剣は抜け、俺はそれを光乏しい天に翳した。
ブゥオン。
一瞬にして巨大隕石は上空へ飛び去り、南の空へ弧を描き、裏山の中腹に激突した。地響きは一分以上にも及んだ。衝突した痕にはクレーター状の巨大な窪みができあがっていた。まずい。学校を救ったはいいが、サボりの名所を一つ失ってしまった。
「……た、助かった、のか?」
「助かったのよね……」
光が戻った世界に、声も戻ってきた。安堵のあまり、次々とその場にへたり込む生徒たち。
「名尚さん!」
級子が階段を駆け上ってくる。
「すごいじゃない! あんた何やったのよ」
後から来たツバメに背中をバシバシ叩かれた。竹刀ではなく平手だが、それでも痛いものは痛い。
「完敗だよ、丸木戸くん」
お立ち台の下で俺を見上げ、鬼丸が惜しみない拍手を贈る。
「学校を襲った未曾有の危機に、僕はどうすることもできなかった。これは君の手柄だ。肌身離さず剣を持ち、剣を愛する君の心に僕は負けたんだね。僕はそこまで竹刀に思いを込めることはできない」
いや、これは肌身離さずじゃなくて、肌身を離れてくれないだけで。
「それだけじゃない。剣は見た目ではないということまで、僕に教えてくれたんだ。僕にはまだまだ剣というものを見る目がない。修行が足りないらしい」
鬼丸はそう言って背を向けた。
「悪かったな。告白のチャンス奪っちまって」
「気にしなくていい」鬼丸はちらっと振り向いて、「告白したところで、きっと振られていたに違いないからね」
「お前を振る女なんているのかよ」
「いるよ。君のすぐ側にね」
こっちを見もしないで鬼丸は言った。ツバメを見る。去っていく鬼丸の後ろ姿を、ツバメは寂しそうな眼でじっと見つめていた。
「なんたること……! 彼奴にかような力が秘められていたとは。妾はもう、何も信じられぬ、信じられぬぞ!」
地を打って嘆く教祖を、チアリーダー姿の布都乃妹が慰めている。傍らに佇む六世の表情もいつになく同情的だった。
「えー、皆さん」憑き物が落ちたような委員長の声だ。「決選投票の件なんですが」
「投票するのは構わないけど、時間の無駄だと思うね」
委員長の前に立ち、鬼丸が言葉を遮る。委員長は頷いて、
「では、挙手で決めましょう。会則にはこんな決め方は書いてありませんが」
「僕も賛成だね。あと、僕の順番は後回しにしてほしい。微々たる数の挙手を見ることほど虚しいものはないからね」
委員長はもう一度頷いた。
「判りました。それでは丸木戸くんから伺います……H組代表、無所属、丸木戸名尚くんに投票したい方は、挙手をして下さい」
手が挙がる。歓声も上がる。座っていた連中が立ち上がり、何事か叫んでいる。手の数は数え切れない。いや、数えるまでもない。そんな様を他人事のように見ながら、こういうのも悪くないかもな、とぼんやり思った。
「判りました、ご静粛に」
何度目かの注意でようやく静まらせたのち、委員長は幾分困惑気味に、
「本来なら、この後理事長のお言葉となるのですが、理事長のご様子は……」
俺は長らく立ち尽くしている理事長の顔を横合いから覗き込み、委員長にバツのジェスチャーを出した。
初めて見る笑顔を口許に浮かべ、委員長は、
「こちらも会則にはありませんが、理事長の宣言は割愛させていただきます……新生徒会長は、満場一致でH組の丸木戸名尚くんに決定致しました」
再び大歓声。手を取り合って喜ぶ級子とツバメ。
「やったね級子ちゃん!」
「やりましたね……わたしたち、やったんですね!」
俺は肩に剣を乗せ、沸き立つ周囲を眺め渡した。拍手喝采に混じり、選挙のうた、選挙のうた、という掛け声が聞こえてくる。
「どうする?ナナ……じゃなくて、新生徒会長さん」
「言い直すなよ、気色悪い」
「どうしましょうか、名尚さん」
「訊くまでもねえよ。まだ機材もあるし、新生徒会長の挨拶代わりに一発ぶちかましたるか」
「はい!」
「うきゃーE2サイコー!」
「御剣ばんざーい!」
「級子ちゃん可愛いー!」
さっきと同じ曲なのに、踊り慣れてきたのか盛り上がりは前回以上だ。もう一つ異なるのは、ボンボンを振る布都乃妹の前で、白装束の集団が率先して踊り回っていたことだ。教祖は独り意表を突いて日舞モード。ノリが違いすぎるが、今日のところは無礼講だ。勘弁してやるか。
「なんだこの曲はぁーっ! 詩想がぁーっ、溢れ出るぞーっ!」
声の方向に眼を凝らすと、点滴を吊した詩人がカクンカクンと変な動きをしているのが見えた。あれで踊っているつもりなのか。同じ生徒の中にもいろんな奴がいるもんだ。いつもの授業じゃ気づかないことが、ここにいると沢山判る。それでいて一体感まで味わえるなんてな。
「なあ、人間も〈影〉も一緒なんだな」俺は〈影〉に問いかけた。「〈影〉にもいろんな奴がいて、たまに一致団結したりしてなぁ。なぁ?」
返事はない。暫く待ったが、やはり応答はない。俺は足許に眼をやった。
左手を離れた剣が、シーツの上に転がっていた。
〈影〉は何も語らなかった。