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「儀武さんは数日前から、深刻なスランプに陥ってしまいました」

 そう語るのは詩人と共に登壇した背の高い推薦者だ。雅号で呼ばれた隣の詩人はボールを咥えたまま一言も喋らない。

ざわざわと不安げな声が上がる中、推薦者は続けて、

「詩想が、詩のアイデアが全く思いつかなくなってしまったんです。詩想と文学と生徒会の融合が、このままでは実現しなくなる。儀武さんは悩みに悩み抜いた末、一つの結論に達しました。境地と言い換えてもいいでしょう。それは敢えて沈黙を保つこと」

 それであのギャグボールか。

「何も話せない状況を自らに課すことで、ダムが水を塞き止めるように詩想を余すところなく掻き集めよう。そして来るべき今日、溜まりに溜まったその言葉たちを奔流の如く吐き出そう……儀武さんはそう考えたんです」

 推薦者は静かになったグラウンドを見渡して、意を決したように、

「では、前口上はこれにて終わります。儀武さんの魂の叫びを、どうかお聞き下さい」

 詩人の背後に回り、ギャグボールをゆっくり外す。

「お願いします……」

 差し出した両腕を震わせ、詩人は眼を剥いて上空を見上げていたが、やがて、


「……腹減ったあああああ!」


 一声叫んで……後ろざまに倒れた。

 またもや騒ぎ出す生徒たち。だが主催者側の対処は迅速だった。

 壇上に倒れた詩人の許へすぐさま駆けつける会監の二人。当然服装はジャージでなく学校指定の制服だ。

「いつからつけてたの、それ?」

「三日前です」

「てことは三日も飲まず食わずってわけか。そりゃぶっ倒れるわ」

 と、そこへ白衣を着た校医がゆったりした足取りでやって来た。

「どう?」

「ただの空腹。あと、ちょっと脱水症状っぽいかも」

「点滴で充分ね。連れて行ってちょうだい」

「了解」

 リタイアした詩人が運び出されるまで、一分とかからなかった。無人となったお立ち台がやけに空虚に見える。

「皆さん、ご静粛に……これより最終演説を再開致します。E組の俵藤真紅さん、壇上へどうぞ」

 吸血女の演説は、献血の必要性を声高に訴え、序でに投票もよろしくという、先の立会演説と大差ない内容だった。目新しい点といえば、お立ち台からのバク転にひねりが一回加わって、観衆側を向いて着地するというパフォーマンス性の強いものに変わっていたことくらいか。

「きゃっ」

級子が小さな悲鳴を上げた。席に戻るとき、野生児が級子を威嚇したのだ。こいつの恨みの根深さも相当なようだ。ツバメが竹刀を構えて立ちはだかり、野生児は渋々席に着いた。

 六世の演説も、教祖に対抗するかの如く制限時間ギリギリまで続いた。内容は判らない。聞き流していたのではなく、出番に備えて機材のセッティングを始めていたからだ。リハーサルの時間はない。音出しが済んだらそのまま本番に突入となる。

 といっても、俺の準備は飾りのインカムを頭に着けるだけだ。左腕が使えないため、ほかを手伝おうとしても大して役に立たない。以前どれほど役に立っていたのかはこの際不問に付すとしても。

「いよいよだねぇ、みんな」

「そうね。級子ちゃん、大丈夫?」

「は……はひ」

「返事が変だよぉ」

 六世の演説が終了した。拍手に手を振りながら階段を降りていく。ようやく俺の出番か。あんまり退屈なんで眠くなってきたところだ。

「機材の準備がありますので、生徒の皆さんはそのまま暫くお待ち下さい」

委員長の声がかかる。選管の助けを借り、大急ぎで機材を移動させる。お立ち台の前にアンプ。その左右にツバメと布都乃妹。壇上には簡易ミキサーとシンセ類を置くテーブル。

手早くセッティングを終えた布都乃先輩が、深刻な面持ちの級子を覗き込んで、

「級子ちゃん、リラックスよ」

「ふ、ふぁい」

「だから肩に力入りすぎなんだよ」

 困った様子で俺と顔を見合わせ、先輩は下へ降りていった。

「お待たせ致しました。H組代表、無所属、丸木戸名尚くん、それではお願い致します」

 観衆の視線が級子に集まる。級子は動かない。俺は背後から近づき、形のいい後頭部を軽く叩いた。

「心配すんなって。トチったら俺が代わってやる」

「は……はい、大丈夫です」

 ……大丈夫そうだな。マイクに近寄る級子を見て、俺は自分の定位置に戻った。

「……名尚さんは」級子は語り始めた。「わたしの無理なお願いを快く引き受けて下さり、この生徒会長選挙に立候補して下さいました」

 なんの言い淀みもない、流暢な演説。つい今し方までの緊張が嘘のようだった。本番に強いタイプなんだろうな。まあ、その日会ったばかりの赤の他人を無理矢理選挙に巻き込むくらいだから、元々肝っ玉は据わってんだろう。

「凡てはわたしのワガママから始まったことでした。それでも名尚さんは決闘を制してクラスの代表となり、根気強く選挙活動に従事し、今日まで一生懸命頑張って下さいました。名尚さんのひたむきな姿にわたしは心を打たれ、わたしに勇気まで与えてくれました。名尚さんを助けるつもりが、助けられていたのは実はわたしのほうでした」

 こんなに嘘が上手だとは知らなかったが、茶々を入れるような場面でもない。俺は左手の剣に眼を落とした。包帯の白さが眼に沁みる。

「名尚さんは、日頃の行いは良くなかったかもしれません。ですが、選挙活動を通じて、名尚さんは確実に変わりました。授業にも必ず出席するようになりましたし、遅刻や早退も減りました。選挙の力が、名尚さんを動かしてくれたのです。選挙には、人を変える力があるのです」

 チアリーダー姿の、級子の後ろ姿。両手は真っ直ぐ腿の横へ下りている。メモは見ていないのか。いつからだ?

……最初から、見ていなかったのか。

「わたしのワガママに今日まで付き合って下さった名尚さんに、感謝の言葉もありません。たとえ名尚さんが生徒会長に当選できなくても、わたしは……わたし……」

 級子は初めて言葉を詰まらせた。咳一つ発せず、固唾を呑んで見守る生徒たち。

「……名尚さんと一緒に、こんなに楽しい選挙活動ができて、わたしは幸せです」

 声が震えている。眼の辺りを手で擦り、僅かにしゃくり上げてもいるようだ。

 涙か。泣いているのか。

 級子……お前、ナイスだっ!!

「頑張れーっ!」

 観衆から励ましの声が飛ぶ。聞き違えるはずもない、天太の声。

「頑張ってー!」

 クラスの女子の声が続く。そこかしこから発せられる声援に、級子は照れ臭そうに少し俯いた。

「それでは、曲のほうを聴いて下さい」

 復活した級子が曲紹介を始めた。

「昨日歌入れが終わったばかりの、できたてほやほやの、〈イレクティヴ・エレクトロ〉最初で最後の新曲です。タイトルは……〈選挙のうた〉です」

 俺は遠くに座る優男に眼をくれた。これもシンプル・イズ・ベストだろ?

 級子が振り返る。最高の笑顔を浮かべる級子に、愛用の傘を投げ渡す。

 俺は再生ボタンを押した。イントロのストリングス音が特大音量で流れる。やっぱりライブは大音量に限るな。級子がお立ち台から飛び降りる。男子生徒のヒューという煽りの叫声。

 左右でボンボンが揺れ、真ん中では傘の高速回転が縦横無尽に暴れ回る。

 もうじきAメロに入る。俺はサンプラーのパッドを押しながら、機械の声色に合わせて唇を動かし始めた。


 屋上で寝てたって 裏山で寝てたって

 並木道の入り口の ベンチで寝てたって

 教室で寝てたって 用具室で寝てたって

 並木道の向こう側の ベンチで寝てたって

 選挙はできる 選挙はできる 選挙だってできる 選挙だって


 初めこそ手拍子で曲に参加していた生徒たちだが、自然と体全体でリズムを取る者が増え始めた。展開が変わり、Aメロに戻る。


 パソコンを使っても 神様に祈っても

何もしなくっても 詩なんか叫んでも

 献血を勧めても シリウスを見上げても

 歌を歌ってても みんなと踊ってても

 選挙はできる 選挙はできる 選挙だってできる 選挙だって

 選挙はできる 選挙はできる 選挙だってできる 選挙だって


盛り上がりは最高潮に達していた。ふと見ると、上手にいた優男と吸血女もダンスの群れに加わっていた。六世に至っては、興に乗るあまり俺のパイプ椅子をパーカッション代わりに打ち叩いたりしている。グラウンド全体が野外フェスの様相を呈していた。

 何かが足許に絡みついた。下を向くと、剣に巻いていた包帯が取れて、足首にまとわりついていた。白シーツの上に映る俺の影はいつにもまして色濃く見える。俺は構わずパッドを叩く作業に集中した。

『ノリノリのところ悪いんだけど』

 モニターからの音量をものともせず、〈影〉は俺の耳許に声を送り込んできた。

「お前、邪魔すんなよ」

 このお祭り状態なら、多少喋っても悟られないだろう。俺は不満を凝縮した口調で言い返した。

「今すげえいいとこなんだからさ」

『いや、忠告したいことがあるんだわ』

「忠告?」

『早く逃げたほうがいいぜ』

 逃げる?どういうことだ。

「なんだそりゃ。また腕でも斬られるのか」

『いや、もっとやばい』

「あ?お前はっきり言えよ。どんなやばいことが起きるってんだよ」

『それがよく判んねーんだ』

「おいおい」

『けどみんな言ってんだよな。なんかやばいって』

「みんな?誰だそれ」

『眼の前にたっくさんいるだろ。踊り狂ってる連中が。そいつらの影が言ってんだよ。厭な予感がする、早く逃げないとって。俺もやばい気がする』

「気がするってお前……で、どこに逃げればいいんだ?」

『判んねー。ここじゃなきゃどこでもいいんじゃねーか』

「そりゃ無理だ。これから投票だぜ」

『だよなー』

 それっきり〈影〉はふっつり黙り込んでしまった。

 曲のほうもコーダ風の曲調からバスドラが消え、ベースが消え、〈イレクティヴ・エレクトロ〉のダンスが止まり、最後まで粘っていたシンセ音がふっと聞こえなくなった。

 一瞬の静寂。破られるための沈黙。


「いやっほう!」

 直後、地鳴りめいた喚声が全校生徒から迸り出た。

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