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ツバメの合意を得て、〈イレクティヴ・エレクトロ〉は一気に三人組になった。俺は頭数に入っていない。ダンスユニットはフロントの女子たちで、俺は脇でサンプラーとやらをいじる係。要は添え物だ。
討論会の巻き返しを図るべく、一同はそれから練習に次ぐ練習を重ねた。布都乃妹による振りつけの考案。その後実際に三人で動いてみて、気になる箇所を修正する。
「ここ難しいね」
「そうですね」
「一拍減らそうか、ワンツースリーじゃなくて、ワンの、スリー」
踊っては止まり、修正してはまた踊りの繰り返し。ツバメは許可を貰い、部活動の時間を削って放課後もダンスレッスンに打ち込んだ。
先輩の仕事もまだ終わらなかった。サンプラーの使い方を俺に教え、曲に合わせてパッドを押すコツを自ら指導してくれた。何をやっても大丈夫とはいうものの、要所ではきっちりタイミングを合わせる必要がある。その上タイミングよく押すことの難しさは、実際にやってみないと判らない。頭で考えるより遥かに困難だ。こりゃギターなんて弾けないわけだ。
投票日まで残り一週間を切り、生徒会長の座を懸けた選挙戦は俄然活性化した。
「おお見える! 見えるぞよ! 眩いばかりに照り輝く太陽神のお姿が! そして妾に、一票を与えよと宣っておられるのじゃ。さすれば魔群は駆逐され、物価高騰、金融危機、年金問題、格差社会、凡てが一気に解決するであろう!」
朝、学校に着くと校門の前で教祖が叫んでいる。隣の推薦者は黙然と手を合わせたきりだ。更にその周りに数名の信者が立っていたが、布都乃妹の姿はなかった。教祖にじろりと睨まれ、足早に門を潜る。
「天狼星におられる〈大宇宙の意思〉の顕現まで、あと一週と迫った! そこで地球にいる我々の役目とは、朝晩北の方角を向いて邪念を消し去りシリウスの同志らに祈りを捧げ、質素な食事を済ませたのちシリウス言語の習得に勤しみ……」
今度は演説時と同じタスキを提げた六世が、ビールケースの上に立って長広舌を揮っている。かしずく推薦者の姿も相変わらずだ。教祖よりギャラリーの数も多い。まずまずの人気のようだ。
玄関を通ると、続いて現れたのはこちらもタスキ姿の詩人だった。同じ文藝部員である長身の推薦者を従え、日本語と外国語を織り交ぜた理解不能な単語の羅列を絶唱しつつ廊下を練り歩いている。果たしてこれが有権者に票を投じさせるきっかけとなるのだろうか。級子の予想に反して、実はこいつが一番どうでもいい気がする。
二階へと向かう階段の踊り場には吸血女と野生児だ。野生児の着用するタスキには〈献血にご協力を!〉としか書かれていない。昇ってくる俺を見て、献血への協力を声高に訴えていた二人の動きが止まった。
「丸木戸。あんた腕の手術のとき、輸血したんだってね」
いきなり話しかけられた。それも俺の与り知らぬことを。
「いや、そんなの知らないぞ」
「ふん、叢雲先生に輸血用血液のことを訊いたら、あんたに使ったって言ってたんだ」
そうなのか。しかし、それを知ったことで何故にこの吸血女は、こんなにも怒りに唇を噛み締めているのだろう。
「保護法がなけりゃ、ボコボコにしてるところだよ。血を吸う奴は全員敵さ!」
「す、吸ってねえよ。足りなかったんだからしょうがないだろ。文句あるなら叢雲先生に言えよ」
「うるせえ! あの小娘がいなけりゃ、てめえなんざとっくにボコッてたんだからなっ」
この野生児、まだあのことを根に持ってやがるのか。
「虎徹は気が短いんだ。ここから突き落とされる前に、とっとと消えな」
「そうだそうだ! 討論会でも恥曝したくせに」
「判った判った、消えるよ、消えるって」
俺は階段を駆け上がり、昇りきったところで脱いだ上履きを野生児に投げつけた。
「ぷおッ」
「こ、虎徹!」
顔面に直撃したのを確かめ、慌てて逃げ出す。
「待ちやがれ、てめえ!」
怒声を背に、教室とは反対方向へ走る。片足が靴下で滑るが脱いでいる暇はない。
すると、竹刀を持った鬼丸が廊下の先に見えた。
「やあ」
余裕の笑みを浮かべて鬼丸は手を挙げてきた。もちろんタスキも着けていない。投票日まで何もしないという言葉は、どうやら嘘ではなさそうだ。
「おう」
返事だけして全力疾走のまま通り過ぎる。これで優男が出てきたら候補者ポイントラリー完全制覇なのだが、そんな偶然は起こるはずもない。インターネットを武器にする優男とは、目指す称号は同じでも争う土俵が違う。選挙戦が繰り広げられているのは、ここだけではなかった。
久々のおふざけで少し疲れたな。暫く屋上で休むか。最近全然サボッてないし……生徒たちを避けてひた走りながら、そんなことを考える。だが、これで授業に出ないと最近特に気合が入っているツバメが黙っちゃいないだろう。怒りに身を任せるあまり、ダンスユニット存続が危うくなる虞もある。
うーん。ツバメはやっぱり入れないほうが良かったかもな。すぐ叩くし。黙ってりゃそこそこ可愛いのに。
ふと気づくと、上履きと靴下という不揃いな俺の両脚は、知らない間に教室へと歩き出していた。以前ならこんなとき、脚はいつも勝手に屋上や外へ向かっていたのに。
圧倒的不利な選挙戦。紛れもない苦境。逃げ出す条件は見事に揃っている。にも関わらず、脚は自ずと教室へ向かう。ツバメが怖いのか? それもある。ただ、それだけじゃない気もする。
俺の中で、何かが変わりつつあった。
「やっぱりそのー……ものすごく遠くへ逃げ出したい気分なんスけど」
「気楽に考えたほうがいいわよ。日頃思ってることを、素直に書き出すような感じで」
放課後の練習室。俺は手を休めて大きく伸びをした。それから一方の壁に据えられた巨きな鏡に向かう〈イレクティヴ・エレクトロ〉の面々を暫し見つめた。Tシャツとジャージ姿で汗を浮かべ、荒くなる呼吸に苛まれながら、どの表情も不思議と明るい。
「ナナくん、誰に見とれてるの?もしかしてツバメちゃん?」
「違いますって」
先輩にからかわれ、頭を掻いて歌詞用のノートに向き直る。一ページ目は真っ白のままだ。書かれることのない無意味な罫線を見ていても、何一つ浮かんでこない。こうなったらD組の詩人から何かパクッてやろうか。
「ビラのレイアウト、妹が考えたやつでいい?」
「そうッスね。後でコピーしてきます」
「わたしが行くわ。ナナくんは歌詞考えてて」
「すいません、何から何まで」
「いいのよ。ナナくんのお兄さんには昔お世話になったし、そのお返しよ」
「はあ」
鏡のほうで甲高い笑い声が響いた。キツいのと楽しいのは、あの三人の中ではあっさり両立できるらしい。
確かに俺は変わりつつあったが、あそこまで楽しげに笑えるようになるには、もう少し時間がかかりそうだった。
二十七日土曜日。曇り。〈日巫女教〉教祖の提唱による、太陽黒点の秘宝を捜索する期日である。俺は十数人からなる捜索隊を、布都乃妹の提示した交換条件を果たすべく尾行し、裏山に入り……そして下山した。
えらいことになった。
『なんだこりゃおい、俺様の腕がおかしなことになってんぞ』
数日ぶりに声を聞かせた〈影〉は、同居人のいない寮の自室で驚きに声を上擦らせた。
〈俺様の腕〉というのは、つまり俺の腕の影ということである。一度は胴体を離れたこともある俺の左腕は、〈影〉の声が聞こえすぎるという代償と引き替えに再度持ち主の許に戻った。そして今、〈影〉の腕はその倍ほどの長さになっている。
『お前、なんで剣なんか持ってやがんだ』
〈影〉が尋ねかけた。それも当然だ。俺は左手に、刃毀れ甚だしいボロボロの刀剣を握っていた。元は諸刃の剣だったようだが、ギザギザに歪んだ刀身は往時の容姿など見る影もなく、いつ折れても仕方がないというひどい有様だった。ただ、この剣を見て〈コレクションに加えたいわね〉と言った美人校医の審美眼も、相当歪んでいると見るべきだが。
「お前気づかなかったのかよ」
『ああ、なんか今日は昼過ぎから調子悪くてな。影に引っ込んでたわ』
〈影〉に調子なんてあるのか。俺は突っ込みたいのを怺えて、
「裏山で拾ったんだ」
『裏山?』
「いや、拾ったのは鬼丸なんだけど」
『あのさ、何言ってんのかよく判んねーんだけど。最初から説明しろよ』
今日は朝から練習があったのだが、俺と布都乃妹は午前中で切り上げた。布都乃妹は捜索隊に加わるため、俺はそれを追跡するためだ。布都乃妹とも別れ、独り正面玄関から外へ。そこから裏門側に回り込んで付近の松の幹に身を潜め、裏口に集合した捜索隊の面々をまずは打ち眺めてみた。
一段と眼を惹くのは白装束の集団だ。十人近くいる。〈日巫女教〉の信者たちだろう。布都乃妹の姿はまだ見当たらない。ほかに参加している選挙関係者は、D組の詩人とE組の吸血女、それとどういう風の吹き回しか、鬼丸も参加していた。討論会のときも割と教祖の話を面白がっていたようだから、恐らくは興味本位の参加だろう。
さっきから、聖なる山なのじゃ、神が宿っておるのじゃ、という教祖の掛け声がひっきりなしに聞こえてくる。最後に、白装束への着替えを終えた布都乃妹が玄関先に姿を現し、一同に合流した。
教祖はさほど高度のない裏山を指差し、いざ行かん! と気勢を上げた。一同はぞろぞろと出立し、俺も動き出した……
『で、ずーっと後を尾行けてたのかよ』
「いや、途中で見晴らしのいい高台に出てさ。前に天太たちとそこで昼寝したりメシ喰ったりしてたんだけど、そこに着いたら眠くなってきて」
『ほとんど条件反射じゃねーか。シンプルな頭の構造してやがんな』
高台に立って足下の風景を眺めていると、休日なのに早起きしたせいか、それともサボッていた頃の感覚が戻ってきたのか、ムクムクと睡魔が擡げてきた。俺は平石の上で横になった。五分だけ仮眠を取るつもりが、気怠い心地好さに包まれて、そのまま俺はどこまでも深い淵に落ち込んでいった……
『いつまで寝てたんだよ』
「鬼丸に起こされるまで」
唾でも飛ばしそうな勢いで〈影〉が吹き出した。
何者かに肩を揺さぶられ、俺ははっと眼を醒ました。訝しげに覗き込む鬼丸。少し離れた所に立ち並ぶ捜索隊の面々。当惑気味に俺を見る布都乃妹。日は西の彼方に今にも沈みそうだった。
わなわなと四肢を震わせていた教祖は、溜まった鬱憤を晴らすかのように烈火の如き怒りを爆発させた。
『そりゃ災難だったな』
「災難なんてもんじゃねえ。メチャクチャ怒られたんだぜ。教師にだってあんな剣幕で怒られたことねえよ」
『なんでそんなに怒ってたんだ?』
「秘宝の探索が空振りに終わったんだよ。その帰り道にたまたま立ち寄った高台の石の上で、俺がグーグー寝てたわけ」
『最悪だな。見つからなかったのは貴様のせいじゃ! ってわけだ』
教祖は俺を追い立て、平たい石の下を調べよと信者に命じた。眼についたものはなんでも調べようという肚らしい。古文書の臭いがする、という教祖の言葉に従い信者総出でどうにか石を持ち上げると、天太が挟んでおいたエロ本が出てきた。教祖はまとめて破り捨てた。
やめじゃやめじゃ、貴様のせいで何もかも台なしじゃ! 憶えておれ! と言い残し、教祖はさっさと道を降りていった。後に続く信者や候補者たち。そんなとき、最後に残った鬼丸が近くの林の中で見つけたのが、この刀剣だった。
「鬼丸、何見つけたんだ」
「いや、ただのナマクラだ。これじゃ藁も切れない」
「秘宝じゃないのか」
「どう見ても違うね。要るかい、丸木戸くん?」
鬼丸はそう言って、拾い上げたボロボロの剣をこっちに投げ渡した。
「な、投げるなよおいっ」
「あ、すまない」
ボロボロとはいえ鞘のない抜き身の剣だ。皮膚にぶつかれば傷つくかもしれないし、刃先が当たれば突き刺さってしまうだろう。
俺は咄嗟に出した左手で、回転しながら飛んでくる剣を避けようとして――
柄をがっちり掴んでいた。というより、掌に吸い込まれた柄をただ握っただけといったほうが正しい。
鬼丸はすかさず口笛を吹いて、
「やるじゃないか。ついうっかり投げてしまったけど、この分なら謝る必要はなさそうだね」
「お、おう、まあな」
我ながら大した反射神経だ。そう思いつつ、俺は林の中に剣を放り捨てた。
「…………」
俺が立ち尽くしているのを見てか、鬼丸がどうしたんだい? と声をかけてきた。
「いや、なんでもない」
なんでもないことは全くないのだが、取り敢えず鬼丸にはそう答えておいた。
「君は降りないのかい」
「ん、ああ、先行ってていいぜ。後から行く」
鬼丸の後ろ姿が充分離れたところで、俺は自分の左手をまじまじと見やった――
『なるほどな。掌にくっついちまったってわけか』
俺は床の〈影〉にもよく見えるよう、手の甲を上にして左腕を差し出し、一本ずつ指を開いた。掌は下を向いている。指を開けば、当然握っていた剣は床の〈影〉の上に落ちるはずだ。普通なら。
――剣の柄は掌に貼りついたままだった。
『どうなってんだ、一体』
「携帯で叢雲先生を呼んで、診てもらったよ」
『なんて言ってた?』
「お手上げだと」
俺は校医が実際にしたのと同じ仕種で手を挙げてみせた。オリジナルと違って、俺が挙げたのは何も持っていない片腕だけだったが。
「掌と柄の、触れ合ってる部分の組織が、癒着しちまってるそうだ」
『癒着? 一回握っただけでか?』
「理論上剣を切り離すことは可能だけど、掌の組織もごっそり取らないと無理なんだと」
『マジで? お得意の再生医療技術でどうにかならねーのかよ』
俺が疲れたように首を振ると、〈影〉は呆れたようにやれやれと言い、
『そもそも原因はなんなんだ?』
再度首を振り、俺は溜め息を吐いた。
「先生は薬の副作用かもしれないって言ってたけど」
『また薬か。なんでもかんでも薬のせいにしやがって。結局判んねーってことだろ』
「まあ、そうだろうな」
『切断した腕はくっつけても、くっついた剣は外せねーってのか。なんつー皮肉だよ……いや待てよ』
含みのある言い方をする〈影〉。
「どうした。何か気づいたことでも?」
『ものは考えようだぜ。利き腕じゃねーんだし。散髪とか髭剃りに使えるかもしれねー』
「顔とか切れたらどうすんだ」
『お前のクラスのヒゲ男で試し剃りしてみろよ』
「そりゃ名案だけどさ……」
そんなことより、明日からどうやって生活していけばいいんだ。選挙もいよいよ大詰めだというのに、よりによってこんな時期に。俺は暗澹たる思いに打ちのめされ、本物の眩暈を覚えた。