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 授業が始まった。

 外は申し分ない晴天だというのに、気分はどんより曇ったまま。

 俺は鼻で息を吐き、腕組みして瞼を閉じた。

 窓のほうから、聞き慣れないか細い声がした。


「あの、すみません」


 件の転入生が、困った顔でこっちを見つめている。

 手許に開かれたキャンパスノートと筆記用具。

 しかし教科書がない。

 さては転校初日の緊張で忘れてきたな。

 頭はいいらしいが、案外おっちょこちょいなのかも。


「わたし、まだ教科書買ってないんです。よろしければ、隣で見せていただけないでしょうか?」

「……了解」


 一方的に変なイメージを抱いてしまったことを詫びつつ、抽斗から取り出した教科書を渡した。


「あ、いえ、見せていただくだけで結構ですので」


 返そうとするのを手で押し留めて、


「いや、持ってていい。俺使わないから。買うまで貸してやるよ」

「そんな……迷惑じゃないですか?」

「いいから持ってろって。なんなら落書きとかしてもいい。まあ、顔写真はこっちであらかた書いちまってるけど」

「ありがとうございます」


 転入生は顔を綻ばせ、何度も頭を下げた。

 そんなに頭を下げられると逆にこっちが照れる。


「……あの」


 まだいいたいことがあるのか、対する少女は上目遣いになって声を落とした。


「ん?」

「ナナオさん、ですよね。名前の名に、尚更の尚と書いて」

「ああ、そうだけど」


 下の名前を呼ばれ、俺は訝しんだ。

 さっき好奇心旺盛な奴らが寄ってたかって机回りを屯していたから、その誰かに聞いたのだろうか。


「サンドイッチは、お好きですか?」

「……えーっと……え?」


 俺は動転した。

 サンドイッチ、は、お好きですか?

 って言ったのか?

 今。

 ま、まさかな。

 初対面なのに、そんなこと訊いてくるわけがない。

 聞き違いだ。


「お嫌いですか? サンドイッチは」

「…………」


 意図がよく判らないので、よく判らないんだけど、と前置きし、嫌いじゃないけど、と正直に答えた。


「良かった」安堵したように破顔する転入生。「お昼用に作ってきたんですよ。後でお渡ししますね」


 俺は調子が狂いっぱなしだった。

 このコは、隣の席の人に昼食を賄う趣味でもあるのか?

 第一、俺が弁当を持参していたらどうするつもりだったんだ?

 馴れ馴れしいのを超えて、ここまでくると少々薄気味悪い。

 何者だ?

 この女……。

 だが、そんなことはお構いなしに、転入生は教師が言及する教科書のページを開いた。


「いっぱい食べて下さいね。来月には生徒会長選挙もありますので」

「生徒会長、選挙?」


 脳裏に次々と立ち現れる、大量の疑問符。

 思うさま吹き荒れる懐疑の嵐の中、更に彼女は、


「名尚さんは、当然生徒会長に立候補なさるんですよね?」


 せ、生徒会長?

 心の声は、どうも実際に口から洩れ出ていたらしい。

 しかも、思った以上に大きな声量だったようだ。

 黒板を軽快に滑るチョークの音が、ボキッという明らかに折れたであろう物音によって中断。

 大きく息を吸い込む音に続いて、


丸木戸まるきどォッ!!」


 空気を震わせる大音声が室内に響いた。


「二学期早々俺を怒らせるんじゃないッ!」


これまでにもこの教師に叱られたことは多々あったが、遅刻と居眠り以外の理由で怒鳴られたのは、今日が初めてだった。

 ご、ごめんなさい……囁くような謝罪の声が、窓辺に浮かんですぐに消えた。

 相変わらず疑問符の波に揉まれながら、何年も会っていない兄貴の姿が、一瞬だけ脳裏を過った。





 天太と伽藍は少し離れた木陰に陣取っていたが、いつでも会話に参加できるよう聞き耳を立てているのはもはや疑いなかった。

 真正面に正座するのは例の転入生。

 右側に自分の弁当を手にしたツバメ。

 手前の芝生の上には、種々のサンドイッチを詰めた籐のバスケットが置いてある。

 二学期最初の昼食は、二人の異性の乱入により、残る二人が追い出される恰好になったわけだ。

 お前ら悪く思うなよ。

 悪いのは俺じゃない。


「珍しい苗字だよね。七に支えるで、ナナツサヤでしょ?」

「はい……知らない方に、よくシチシって呼ばれます」

「確かに読めないよね。ところで七支さん、剣道得意なんでしょ?」


 そらきた。

 次期部長はいきなり間合いを縮めてきた。

 一緒に飯を喰おうだなんて柄にもないことを言い出すから、何か裏があるとは思っていたが、早速スカウトに乗り出したか。

 けれども、話を向けられたナナツサヤの表情はなんだか思わしくなかった。


「すみません。わたしが習ってたの、剣道じゃなくてフェンシングなんです。それも我流の」

「フェンシング?」


 期待に持ち上がっていたツバメの両肩が、眼に見えて下がった。


「ごめんなさい」

「あー、いいのいいの。こっちこそ一人で盛り上がっちゃってごめんね。そっか、フェンシングか……うちの学校、フェンシング部も盛んだしね」

「あ、でもわたし、フェンシング部には入りません」

「え? じゃあ、やっぱり剣道のほう?」


 歯を見せてニッコリ笑いかけるツバメ。

 相手は済まなそうに眼を伏せると、


「いえ、部活動には参加しない予定なんです」

「そうなの? もったいない」


 ウィンナーを頬張りつつツバメは嘆息した。


「お前帰宅部をバカにすんなよ」

「何よ急に。バカになんかしてないわよ。ただ、あんたの所属は帰宅部じゃないでしょ」

「違うのか?」

「遅刻部と早退部じゃん。こっちはバカにされてもぐうの音も出ないよね、ナナ」

「甘いな。掛け持ちは何かと大変なんだよ」俺は生えてもいない顎鬚を撫でさするようにしながら、「だがまあ俺ぐらいになるともうインターハイレベルだからな。堂に入ったもんさ」

「何切り返してんのよ。恥を知れ恥を」


 さすがに竹刀は手許になかったので、拳骨で腿を正拳突きされた。

 強烈な打撃ではなかったが、痛くなかったといえば嘘になる。


「ごめんね、七支さん。こんなクズみたいな奴と隣同士になっちゃって」


 お前、言うに事欠いてそれはないだろう。


「と、とんでもないです」


 少女の態度は殊勝なものだった。

 胸のリボンの前で細い指先を組み合わせ、


「お隣になれて光栄です。それに、お名前の〈ナナ〉もわたしの苗字の〈ナナツサヤ〉と通じるところがありますし、なんだか運命を感じます」

「う、運命?」


 唖然としてツバメは呟いた。

 少女はこくりと頷いて、


「あの、小烏さん。七支という苗字は呼びづらいと思うので、下の名で呼んで下さい」

「下の名前って……確か級子きゅうこちゃん、だったよね」

「はい」

「んじゃあ級子」

「お前が呼ぶなバカ」


 側頭部を平手打ちされた。

 その豪快な音に、向こう側の男連中が続けざまに飲み物を吹き出した。


「痛てぇ、痛すぎる」

「それに何呼び捨てにしてんのよ図々しい」

「いえ、呼び捨てで結構ですよ。名尚さん、どうぞ召し上がって下さい。お口に合うかどうか、あまり自信がないのですけれど」

「あ、はい。んじゃ、遠慮なく」

「小烏さんも良かったらどうぞ」

「あたしダイエット中なんだ。ごめんね」


 オーソドックスな野菜と玉子のサンドがメインだが、何故か口に含むと眼の醒めるような爽快な風味が広がった。

 んーサワーかな?

 いや、直球のミントか。


「どうですか?」

「これ、誰かに味見してもらった?」

「いえ、これ初めて作ったサンドイッチなもので、食べるの怖くて」

「ああ、そう……」


 それを赤の他人に喰わせるのか。

 明日からはまた購買部の世話になろう。

 そう心に誓った。


「ねえ、どうして級子ちゃん、こいつにお弁当なんか作ってきたの? あたし不思議でしょうがないんだけど」


 そうそう、それを明確にしておかないとすっきりしない。

 嫌がらせ以外の理由があるなら、俺もきちんと聞いてみたい。

 俺は興味ありげに面を上げ、自然な所作で食べかけのミント風味サンドイッチをバスケットに戻した。


「じ、実はその」暫しの沈黙ののち、遂に彼女は切り出した。「次期生徒会の役員を決める選挙が、来月に迫ったものですから。沢山お召し上がりになって、是非とも頑張っていただこうと思いまして」


 またこれだ。

 二限目の休み時間も、隣でずーっとこの話ばかりしていた。

 生徒会長選挙。

 立候補するんですよね。

 頑張って下さい。

 推薦者として陰ながら応援させていただきます。

 立候補。

 頑張って。

 応援します。

 この繰り返し。

 この一連の行動に誰が絡んでいるのかは、俺にはとうにお見通しだったのだけれど。


「? ……どういうこと?」


 要領を得ない顔でツバメは片眉を釣り上げた。


「君さ」俺は腕を組んで反り返った。「兄貴の差し金だろ」


 級子の肩がびくんと震える。


「兄貴? 兄貴って?」

「うちの兄貴だよ」

「あんたの?」

「……鶴丸さんも、それを望んでおられます」


 俺の名前や、俺が弁当を持たないことを知っていたのも、事前に調査するなり、兄貴に訊くなりしていたためだろう。


「自分同様、弟も生徒会長にってか。えらく身勝手な話じゃねーか」


 自嘲気味に言い捨てる。


「生徒会長?」


 ツバメが上擦った声を上げた。


「お前立候補するのかよ、ナナ」


 外野席の伽藍までもが口を挟んできた。


「するわけねーだろ、めんどくせー」

「めんどくさいとかいう以前に、あんたじゃ絶対当選しないって」


 ひどい言い様だな。

 寂しそうに項垂れる転入生を前に、俺はつい、


「ま、この俺様が本気出せば選挙なんざ楽勝だがな」


 自信満々に言い放ってしまった。


「本当ですか?」

「何言ってんの。信頼ゼロのくせに」

「おいおいマジかよ」


 肩を聳やかして言う伽藍に続けて、その傍らで弁当を掻き込む手をようやく止めた天太が、


「けどよォ、お前んとこのクラスは、長船おさふねが出しゃばるんじゃねーの?」

「そうね。あいつ鬼丸に対抗意識燃やしてるから」

「へ? 鬼丸も出んの?」


 唇についた米粒を拭いもせず天太は眼を円くした。


「そうよ。あんた同じクラスでしょ、知らなかったの?」

「初耳だ。ていうか、じゃあナナも長船も勝ち目ねーじゃんか」

「あの、すみません」級子が訊いてきた。「その鬼丸という方は、一体どのような……?」

「こいつの彼氏」


 ツバメを指差して言うと、その指をスパーンと裏拳で弾かれた。


「違うって言ってるでしょ、大バカ」


 俺をきつく窘めた後、ツバメは転入生のほうに向き直った。


「C組の鬼丸はね、男子剣道部の次期部長なの」

「成績は優秀だし顔も悪くねーから、女子人気が高いのさ。後輩の面倒見もいいんだろ?」


 伽藍の言葉に、まあね、と頷くツバメ。


「一言で言えば、つまんねー奴ってわけだ」


 総括して級子に伝える。


「ちょっとナナ、悪意ありすぎ」

「事実を述べたまでだ。優等生と一緒にいたって退屈なだけだろ」

「劣等生といるのも疲れるんだけどね」

「なんだと」


はあ、と腑に落ちない返事を零す級子だが、訴えかけるように俺を見る顔つきは真剣そのもの。


「でも、大丈夫です。わたしが全面的に協力しますので」


 俺の手を取り、ぎゅっと握り締めて彼女は言った。

 その不似合いな光景に、数少ない傍観者たちは狼狽の色を隠すことができなかった。


「生徒会長目指して、一緒に頑張りましょう!」

「いやその、頑張りましょうじゃなくてだな……」


 夏の陽射しが降り注ぐ中庭に、樹木の風にそよぐ音が白け気味に鳴り騒いだ。

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