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『腕斬られたとき、出血もかなりあったから、当然輸血してんだよなあ』
知らん。治療の間、俺はずっと意識がなかった。知っているとすればお前のほうだろう。
俺は素早く周囲を確認すると、机の下に何か見つけたようなそぶりをして、その狭い空間にそっと首を突っ込んだ。ここなら、囁き声程度であれば隣にも聞かれずに済む。
(俺は何も聞いてないぞ。お前こそ手術の一部始終見てたんだろ?)
『知るかよ。誰が好き好んでむさ苦しい男の寝顔なんぞ眺めるかっての』
(むさ苦しくて悪かったな)
『けど、叢雲センセー近くで見てもすげーきれいだよな』
(あれ絶対再生医療技術使ってんだって。で、輸血がどうかしたのか?)
『あーそうそう。俺の声がでかくなった理由って、それのせいなんじゃねーの』
(薬の副作用じゃなくて、輸血の成分がってことか。けど、なんでそう思ったんだ?似たような症例でも知ってんのか)
『いや全然。根拠はねーけど、なんとなく』
(ふざけんな。適当なことばっかりぬかしやがって)
『いいだろ。話し相手がいなくて退屈してんだよ』
(うるせえ、少し黙ってろ)
「丸木戸くん、どうしました?」
怪訝そうな委員長の声が背後から聞こえた。
「あ、いや、すいません」
俺は急いで上体を起こし、はははと愛想笑いをして座り直した。
「うるせえ黙ってろ、とか言ってませんでした?机の下で」
委員長の余計な証言に、それまで調子よく語っていた吸血女が射殺すような眼で俺を見た。完全に誤解だが、俺は目を逸らして萎縮するしかなかった。
空咳を放ち、再び吸血女の弁舌が始まる。
「……つまり、フィンランドやロシアには、血を吸う蛾が実際に存在するんだよ。ある昆虫学者によると、フルーツばかり食べていた蛾が進化したんじゃないかっていう話なんだけどさ」
「胡散臭ぇな」待ってましたとばかりに優男が口を挟んだ。「血を吸う蛾からして怪しいのに、フルーツ喰って進化?眉唾にも程があるっての。ガセネタ掴まれたんじゃないの、俵藤ちゃん」
「あんた、あたいが信用できないっていうのかい?」
「だったらソース見せてくれよ、確かなソースをさ」
「ソース!?」
推薦人の座っている辺りから、頓狂な声と、椅子から立ち上がるガタンという物音がした。E組の野生児が、涎でも垂らしそうな顔でこっちを凝視していた。刹那の間に候補者全員の視線が交錯し、珍しくも以心伝心で意見の一致を見たようだった。
――あの野生児は無視だ。
「あの、すいません。できれば選挙と関連する話をしてもらいたいんですが」
一瞬の間隙を縫って委員長が提案した。言葉遣いは穏やかだが口調は相当苛立っている。
吸血女は荒い鼻息を吐いたきり、唇を引き結んでしまった。喰い意地ばかり張っている給血係の失態に、気を殺がれてしまったのだろう。
「そういえば、H組の丸木戸くんの公約は、割と抽象的ですよね」
委員長に話を振られ、はあと相槌を打つ。
「この〈一風変わった生徒会〉というのは、現実的にはどういった想定をしているんですか?」
『想定外の質問だな。どうするよ』
こいつ後で説教だ。さて、問題はこの質問のほうだ。どんな出任せを並べてやりすごすか。
「ええとですね、〈一風変わった生徒会〉っていうのはその……」
言いかけて、俺は異変に気づいた。何やら周りの様子がおかしい。妙に騒がしい。騒がしさの質がいつもと違う。凶事が起きたときの、あの不穏な騒がしさだ。生徒たちの視線は、一様に体育館の後方を向いている。同方向に眼を転じると――
遥か先に見える用具室。その開いたドアの手前に、奇怪な風体の人影が二つ。上下の紫のジャージは見慣れたものだが、頭部を覆うのは銀行強盗ご用達のフェイスマスク。それぞれ赤と青の色違いを被っていたが、眼と口の縁取りは双方共に黄色だった。手には細長い棒状の――ま、まさか日本刀か?それにしては色合いが異なるような……。
ジャージの二人組は、遮るもののない直線をほぼ同時に走り出した。
「キャーッ!」
女子の悲鳴が呼び水となって新たな悲鳴を呼び、男子の叫び声も入り乱れて館内は忽ち狂躁状態となった。いやいやいや、叫びたいのはこっちだっての。その二人組は――真っ直ぐこの円卓に向かって突進してきた。
左右の人垣から数名の剣道部員が飛び出し、行く手に立ち塞がる。がしかし、謎の刺客二人は些かも速度を緩めず剣道部員を薙ぎ払い、更に距離を狭めてくる。日本刀ではなく木刀のようだが、受け止めた部員が竹刀ごと吹き飛ばされるほどの、それは凄まじい膂力だった。
ツバメが来た。タスキを外した鬼丸が床の竹刀を掴み上げ、ツバメを一瞥したのち迫り来る二人組に対峙する。
「鬼丸!」
今一人の影が横合いから飛び出し、剣道とも異なる独特の構えを取った。級子だ。
「級子ちゃん!」
加勢にと走り出すツバメ。
二人組も動いた。上段から打ち込んだ鬼丸の竹刀を、赤のフェイスマスクが真っ向から受け止める。次々と繰り出される級子の傘を、最小限の刀捌きで払っていく青のマスク。そこに竹刀を叩きつけるツバメ。青のマスクは迅速なフットワークで横に躱した。
「ここは危ない!」
「みんな下がって!」
優男と詩人が、パニック状態の生徒たちに懸命に声をかけている。教祖は信者と思しき十人ほどの男女に護衛されていたが、離せ、彼奴らは許せぬ、神聖なる討論を汚しおって、成敗してくれると盛んに息巻いていた。吸血女と野生児に至っては、素手のまま隙あらば二人組に組みつこうと身構えている。
六世の姿が見当たらない。さては逃げたか……いや、いた。遠くにいる教師たちの許に詰め寄り、何事か捲し立てている。早く警察を、と叫ぶ声が生徒たちのざわめきに混じって聞き取れた。
(おい、聞こえるか)
俺は館内の混乱に乗じて〈影〉に話しかけた。
『なんだよ』
(あのマスクか?こないだ俺を襲ったのは)
『お前だって見てんだろーが。俺様にばっか頼ってんじゃねー』
(あのな、真面目に答えてくれよ。俺は逃げるのに夢中でそんな余裕なかったっての)
『ふーん、仕方ねーな』
〈影〉は口を閉ざした。
『違うな』
思ったより早い、しかも断定的な返答に、俺は少し面喰らった。
(なんで判る?)
『お前、俺様に訊いといてそのコメントはねーだろ』
(いや、なんか妙に自信ありげだったから)
『ありゃ違うわ。二人とも強すぎる。あんな圧倒的な強さじゃなかった』
(本当か?)
『まあ人様の腕を一刀両断するくらいだし、こないだの奴も強いは強いんだろうが……おい、それよかツバメがピンチだぜ』
「きゃあっ!」
ツバメが突き飛ばされた。あのツバメがああもあっさり力負けするなんて。鬼丸も劣勢に立たされている。〈影〉の言う通り、確かにとんでもない強さだ。十人並の剣道部員たちなど為す術もない。
「キャッ!」
級子の傘が弾き飛ばされた。意を決して踏み込むE組の吸血・給血コンビ。しかし木刀との間合いが取れず、どうにも攻めあぐねている。
『助けに行かなくていいのかよ』
(みすみす殺されに行くのかよ)
「もうそろそろかしら」
そんな中、このただならぬ状況をやけに冷静に見つめていた委員長が、意味ありげに呟いてマイクを手に取った。そして、
「そこまで!!」
ざわめく生徒たちを圧するような大音声が、スピーカーから放たれた。途端に収束していく騒ぎ声。二人組が木刀を下ろしたのを見て、吸血女らも身構えと緊張を解いた。
「驚かせてごめんなさい。これは我々選挙管理委員会が仕組んだ、狂言芝居なんです」
えっという声が随所から挙がる。
「狂言芝居?」
「どういうこと? あの二人組が仕込みだったってこと?」
「じゃあ、鬼丸たちも?」
「なんでそんなことを」
口々に発せられる疑問の呟きが、弥増しに膨れ上がる。それを制するように、委員長は一層声を張り上げて、
「突然の危機的状況に及んで、生徒会長候補の皆さんがどのような行動を取るのか、抜き打ちでテストさせてもらったんです」
委員長はマイクから一旦口を離し、もうマスクを取っていいですよ、と肉声で話しかけた。
木刀を持った二人がマスクの縁に手をかけ、一気に剥ぎ取る。
驚嘆の声がここそこで沸き上がった。
「やはりそうでしたか……塚原先輩、伊東先輩」
そこにいたのは、かつて一度だけ顔を合わせたことのある、会計監査委員会の三年生二人だった。
「いい運動になったよ」塚原は陽気に首を回しながら、「全力勝負もたまにはいいもんだな、鬼丸」
「勘弁して下さい。こっちは防ぐのに精一杯でしたよ」
「俺たちゃ本日限り有効の、保護法無効許可証を貰ってるのさ」
懐からそれらしきカードを取り出し、伊東も声をかける。
「ま、先輩の我儘に付き合わされたと思って我慢しな」
鬼丸もツバメも汗だくなのに、上級生は息一つ切らしていない。力の差は歴然としていた。
委員長はまたマイクを取って、
「生徒会長たるもの、不慮の事態に際しても冷静に対処できねばなりません。そこで会監の二人と先生方に協力してもらい、もし討論会の最中に暴漢が乱入してきたらというシチュエーションで、一芝居打ってもらったんです。文武両道の理念がどれだけ浸透しているか、その〈文〉と〈武〉を同時に試す、またとない機会だと思いまして」
なんとまあ悪趣味な芝居だ。それにしても暴漢役の二人、手加減抜きで打ちかかっていたのか。そりゃ鬼丸もツバメも必死にならざるをえないし、俺だってビビるわけだ。
「総評を言います。A組の安綱くんとD組の青江くん、この二人は騒ぎ立てる生徒たちに積極的に声をかけ、安全な場所へと誘導してくれました。B組の三条さんは直接的な働きかけこそありませんでしたが、討論会に対する意気込みは充分伝わりました。C組の鬼丸くんは皆さんも見ての通り、暴漢に怯むことなく果敢に立ち向かってくれました。E組の俵藤さんも同様です。徒手空拳で挑もうとする姿は、大変印象的でした。またF組の孫六くんは、痛めた足を押してすぐさま先生方のほうへと走り、警察を呼ぶよう訴えていました。実際には先生方も仕掛け人だったんですが、彼の行動はとても現実的で理に適っていたと思います」
委員長はここで少し間を開けて、
「皆さんを騙すような真似をして、大変申し訳ありませんでした。代表して謝らせて下さい。ですが、わたしは同時に誇りにも思うのです。今年の立候補者の皆さんは、例年に勝るとも劣らない素晴らしい方々が揃っていて、この中の誰が生徒会長になっても、きっと全校生徒を正しい方向へ導いてくれるに違いないと」
凡てを言い切ったように息を吐き、マイクを置いた委員長は、少し離れた床にH組云々と書かれたタスキが落ちているのを見つけた。
それから館内にいる全員の視線が、自分とは微妙に異なる箇所に注がれていることにようやく気づいた。
委員長は静かに後ろを振り返り……俺と眼を合わせた。こっそり背後に回り込み、姿を隠し、委員長を盾にしていた、この俺に。
「…………」
「…………」
「丸木戸くん。あなた……そこで何してるの」
公約の質問と違って、これは容易に答えられる。がしかし、これは絶対口にできない答えだった。俺は考えに考えた。そして、
「なんか急に……腕の傷口が疼き出したんで、はは」
『嘘つけ』
「もう治ったんじゃなかったの?」
「……ははは」
『ほら見ろ、バレてんじゃねーか』
俺は思った。完全に……しくじったのだと。
その後、残った生徒たちだけで手順を簡略化した模擬選挙を行った。投票結果は即日集計、十五分後に発表された。
俺が最下位だったのは言うまでもない。