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学校の保健室のベッドで目覚めた俺は、左腕が繋がっている今のこの状態が夢なのだと最初は考え、次に帰り道で黒ずくめの刺客に襲撃されたあの出来事が夢なのだと思い直した。けれども、襲われたのが夢なら今ベッドで寝ている道理がない。
だったら襲撃は現実で、腕は切り落とされて……いない。
腕が繋がったままなのは、どういうわけだ?
「……名尚さん! 気がついたのですか!?」
カーテンの内側に入ってきた級子は、俺を見てそう叫ぶと、ベッドの脇にわっと泣き崩れ、ごめんなさいごめんなさいと繰り返した。自分が不在のときに俺が襲われたのを、よっぽど悔やんでいるのだろう。
駆け寄る複数の靴音。カーテンが大きく開けられ、学校医とツバメと、その後ろからは布都之先輩が姿を見せた。
「気分はどう?」
「ナナ、大丈夫? あんた丸二日寝てたのよ」
気分はまあまあだが、二日寝てた?二日も?
「てことは、今日の日付は」
「十六日よ。十六日火曜日の午後四時過ぎ」
腕時計を見ながら先輩が言った。俺は自分の額を手で打った。取り敢えず右手で。
「あちゃー、祝日終わってるよ。もったいねえ」
「何言ってんのよ、バカ」
「まあ、それだけ元気ってことね。良かったじゃない」
俺はベッドのシーツで顔を覆っている級子の頭を軽く叩いて、
「お前も元気出せよ。俺も眼ェ醒めたんだし。ちょっと寝すぎたけどさ」
「級子ちゃん、昨日は一日中ここにいて、今日も休み時間のたびにここに来てたのよ」
「あら、小烏さんもずっと一緒だったじゃない」
「わたしはただの付き添いですっ」
突慳貪にツバメが言い返す。
「C組の十握くんと、D組の粟田口くんも見舞いに来てたわよ。すぐ帰っちゃったけど」
十握と粟田口?ああ、天太と伽藍か。一瞬誰のことかと思った。
「ただ十握くん、なんだかすごく恨めしそうな顔してわたしを見てたのよね。どうしたのかしら」
「はあ、そりゃまあそうでしょうね」
曖昧に言葉を濁して、俺は改めて自分の左腕に眼をやった。
「ところで先生、この腕……」
「あ。そういえば、まだお礼の言葉を聞いてなかったわね。感謝しなさい。それ、わたしが縫合してあげたのよ。助手もなしで独りでね」
「え、先生が? 嘘でしょ」
「甘く見ないでちょうだい。これでも超医療特区で、最先端の再生医療技術を学んでたんだからね。ここの医療設備だって実は大学病院並なのよ」
全然そんなふうに見えない。先生の見た目もさることながら、ベッドの周辺を見渡してみても、眼につく物といえば少々値の張りそうなサイドテーブルくらいだ。天井の照明もなんの変哲もない蛍光灯のようだし。
「骨も神経系もちゃんと繋がってるから、動かそうと思えば動かせるはずよ。どう?」
俺は左腕を持ち上げた。造作もない。おおっと声が上がる。級子が顔を上げ、眩しげに腕のほうを見た。
「逆に怖いんスけど、こんな簡単に動かせて。あんまり違和感もないし。傷口がちょっと痛むけど」
「縫合痕もそのうち消えるはずよ。特効薬塗ってあるから」
「と、特効薬って……」
怖い。とんでもなく怖い。
「そういうのって、大抵副作用があるんじゃ」
「どうかしら。臨床データ少なすぎるのよね。一応マウスへの投与は問題なかったんだけど」
「おい、そんなの使ったのかよ!?」
俺はベッドの縁を強く叩いた。今度は左手で。
「普通は完全な回復までに二年はかかるものなのよ。それを二、三日にまで縮めたんだから、多少のリスクは……ねぇ」
「ねぇ、じゃねえよ」
俺は呆れてベッドに身を沈めた。モルモットか俺は。
「丸木戸くん、君は人類として初めてこの薬を投薬されたのよ。もっと誇りに思うべきだわ。それに比べたら、副作用の二つや三つくらいどうってことないわよ」
誰がそんなふうに思うか。
「それより拒絶反応のほうが心配なのよね。まあ何か問題が起きたら携帯で連絡してちょうだい。もっと細かいデータも欲しいし」
俺はデータ採取の実験台かよ。
「丸木戸くん、携帯は右手で操作してるの?」
「……携帯は左。箸とか鉛筆は右だけど」
「なら右手で素早くボタン操作できるようにしておいてね」
「……はあ」
俺は校医の視線を避けるように枕に頭をつけ、横を向いた。
「あ、そうだわ」校医は少し困ったような顔をして、「君の実家に何度も電話してるんだけど、ちっとも出てくれないのよね。お父さん外出多いの?」
「あー、ほとんど家にいないッスよ」
「確かお兄さんも実家でしょ?」
「はあ。でもほとんど家にいないッス」
「そう。取り敢えず君の意識も戻ったことだし、連絡のほうはどうしましょうかしら」
別にいいですよ、と答える。親父も兄貴も仕事で忙しいのだろう。腕は元通りなのだから、わざわざ伝えるまでもない。
「判ったわ」
「ナナ、級子ちゃんにお礼言いなさい」ツバメは級子の背中に手を添えて言った。「あんたが倒れてるのを見つけて、叢雲先生に連絡してくれたのは級子ちゃんなんだから。もし級子ちゃんがたまたま通りかからなかったら、発見が遅れて腕の治療も間に合わなかったかもしれないのよ」
そうだったのか。
「級子、ありがとな。助かったわ」
「そんな……わたしはただ、名尚さんを助けようと必死で」
涙を拭いながら級子は言った。
「あら、わたしへのお礼はなし?実際に手術したのはわたしよ」
「先生は黙っといて下さい」
「それはそうとナナ、あんた一体誰にやられたの?」
全員の視線が俺を向いた。黒マント、黒タイツに白い仮面と日本刀。俺は見たままを伝えたが、これだけで敵の正体を暴くには情報が足りなさすぎる。
「やっぱり対立候補の誰かよね、きっと」
ツバメの推理に先輩が首を振る。
「けど、保護法を破った者は選活ができなくなることは、全員知っているはずよ」
「そいつには絶対バレない自信があったんですよ」
「それにしても手口が残酷すぎるわ。いくら生徒会長の座を狙うライバルだからって、腕を一本切り落とすような真似をすると思う?」
「やりかねない候補はいる」
ツバメは断言した。暗にあの教祖のことを仄めかしているのだろう。
「ただ、先輩の言う通り、ちょっとやり方が過激な気もするのよね。ナナ、あんた最近誰かに恨まれるようなことしてない?」
何日か前には、サボり仲間二人の恨みを買ったばかりだ。
「そんなの数え上げたら切りがないぞ」
「……あんたって人は」
「犯人捜しは追々やりなさい」埒が明かない場を締め括るように、校医は口を開いた。「まずは腕を完治させること。明後日ぐらいには傷も完全に塞がる予定だけど」
腕の切断が四日で完治か。非常識な話だ。嘘臭い。未だに信じられない。
「じゃあ、ちょっと席外すわね。君は今日はここで寝ていきなさい。後でタオル貸すから体も拭くといいわ。なんなら七支さんに手伝ってもらう?」
級子はまたもやシーツで顔を覆った。泣いているわけではなさそうだ。
「何言ってんスか」
「何言ってんですか」
俺とツバメの声が重なる。
「じゃあツバメちゃんが手伝ってあげたら?」
布都之先輩が軽口を叩く。
「なんですかもう、先輩まで!」
「お、おい、そこで竹刀振るなよ」
『良かったな、腕くっついてよ』
「おお、すげえよな近代医学はよ……って、え?」
いきなり聞こえた〈影〉の声に、俺は思わず返事をしてしまった。不審そうに俺を見下ろす幾つもの眼。俺は肝を冷やした。
人のいる場所で〈影〉の言葉に反応したことなど、ここ数年なかったのだが、ついうっかり応じてしまった。〈影〉のことを失念していたせいか。いや、それだけじゃない。
〈影〉の声が、いつも以上にはっきり聞こえたのだ。周囲の人々の声と、寸分違わぬほど鮮明に。だから返事が、自然と口を衝いて出てしまった。
「名尚さん……どうかしましたか?」
「え、何が?」
白を切りつつ、そっと枕に視線を落とす。枕に映る〈影〉との距離は、確かに近い。だが、距離の問題ではない気がする。感覚としては、耳許で話しかけられたような感じだ。
「枕に、何かついてる?」
「あ、いや別に。ぬ、抜け毛でも落ちてねえかなぁなんて。ほら、副作用で髪どっさり抜けたらシャレになんねえだろ」
「今、わたしたち以外の誰かと、喋ってなかった?」
「いやいや、ほかに誰もいないのに?冗談きついッスよ先輩」
「まさかと思うけど、薬の副作用じゃないわよね」
「平気ッス、平気平気。これ前々からなんで」
「前々から?」
やばい。藪蛇だ。
「はははは、なんでもないッス。ははははは」
繋がった腕で力瘤のポーズをする。こうなったら笑って乗り切るしかない。
『はははははは……って何が面白いんだよ』
やっぱりだ。〈影〉の声が、今まで聞いた中でも殊更大きなものになっている。級子たちがこの声に気づかないことが、むしろ不自然なくらいの音量だ。ここまで来ると、自分の〈影〉と喋っているような気がしない。耳のすぐ真後ろにいる、背後霊の声を聞いているかのようだ。
……もしかしてこれは、声を聞き取る俺の能力が、より強くなったと考えるべきなのか?多分そうだろう。だとすると、どうしてこんなことに?薬か?やはり特効薬のせいなのか?
……こんなにも早く、薬の副作用が出てきたのか?そもそも、こんな副作用あっていいのかよ。
もう笑うしかない。笑うしかなかった。
『一人でうるせーぞお前。いつまで笑ってやがんだ。みんな引いてんじゃねーか』
「はははははは、はっはっは……」
〈影〉の声を打ち消すように俺は笑い続けた。さして効果はなかったようだが、見舞客の表情を凍りつかせる効果だけは、覿面だったようだ。