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――布都之先輩だった。
俺は雲を踏むような足取りで聴衆に近づき、紙コップの水を飲んでいる先輩を見つめた。
そうか。音楽だ。この手があったか。
眼が合った。コップを床に置いて、先輩が微笑む。
「君も聞いてたんだ……どうだった?ナナくん。わたしのギター」
すっかり忘れていた。布都之先輩は軽音楽部に所属していたんだ。
「先輩」
俺は土下座していた。無意識のうちに。
「俺に、ギターを教えて下さい!」
俺はギターを学ぶのを諦めた。
といっても、布都之先輩に断られたわけじゃない。先輩は快諾してくれたし、先輩みたいなギターを弾いて聴衆の心を掴みたいという作戦にも賛同してくれた。
だがしかし、俺にはギターを弾く才能が絶望的なまでに欠落していた。
放課後のことである。俺は級子と共に、再びこの音楽練習室に来ていた。先輩が弾いていたのと同じアコースティック・ギターを借りて、ごくごく初歩的なレクチャーを受けた。
そして一時間後。俺は胡座をかいた恰好で壁に旋毛をつけ、己の腑甲斐なさを呪いに呪っていた。
「名尚さん、しっかりして下さい。まだ時間はたっぷりあるんですから。気を確かに」
「ああそうさ……端から無理だったんだよ。俺如きがギターに手を出そうだなんて。俺が甘ちゃんだったのさ。無能がいくら頑張ったって、結果は眼に見えてんのにな」
「キャンペーンソングを作るっていうナナくんの案は、悪くないと思うの。お兄さんも選活でギターの弾き語りを披露してたし。だから、ナナくんも焦らないで練習を続けていけば、本番までにはきっと間に合うと思うわ」
「兄貴は昔から器用でしたから……それに引き替え俺なんて、勉強も運動もゲームも影踏みも人並以下だし、その上ギターまでこんな下手で」
背後でギターを片づける音。先輩にも見捨てられたか。
「ほら、楽器はギターだけじゃないし、ほかの楽器なら弾けるかも」
元気づけてくれるのか。優しいお言葉だが、一度折れた心はそう易々と回復してはくれない。
「気持ちはありがたいッスけど、無理ッス。指を全然使わない楽器とかでないと」
「まあ、そういう楽器もなくはないけど、それよりも、演奏をしないっていう手もあるのよ」
演奏しない?
「世間で売れている曲の多くは、DTMやサンプラーで作った楽曲なのよ。演奏を機械に任せているの」
「DTM?」
「デスクトップ・ミュージック。パソコンをメインに据えて製作した音楽のこと」
俺は頭をグリグリと壁に押しつけて、
「パソコンだと優男と被るからダメッス」
「もちろんパソコンを使わなくても製作できるわ。シーケンサーつきのオールインワンシンセとかね。ぶっちゃけサンプラー一台だけでも、それなりに曲はできちゃうものなのよ」
顔を上げ、肩越しに振り返る。
「本当スか?」
「観たことない?ライブの風景で、女の子たちが列組んでダンスしていて、横のほうに一人でキーボードを操作する男のマニピュレーターがいたり、それすらいなかったりっていう」
あるぞ。うん、ある。カラオケにも滅多に行かないし、そっち方面はかなり疎いが、そういうのは結構テレビで見かける。
「詳しくは存じ上げないのですけれど、テクノ・ポップというもののことですか」
「日本国内でいうとそうね。海外だとエレクトロとか、シンセ・ポップっていう名称が一般的だけど」
そうか。実際に演奏する必要はないんだ。ギターが弾けなくても、楽器が演奏できなくても、前列に女子を踊らせて、後ろでキーボードを弾いてるふりをすればいいのか。後は再生させる曲さえあれば……。
「それだっ!」
俺は遂に、希望ある未来を見た気がした。
次の日のこと。一時限目の終了後、雑然とする教室の中でぼーっと外の風景を眺めていると、荒々しい跫音と共に後頭部を引っぱたかれた。
「あたっ」
これもツバメじゃない。級子は俺のすぐ隣にいる。誰だろうと後ろを向くと、怒り心頭といった顔つきの天太が全身を強張らせて立っていた。
「バカヤロー!」
「な、なんだよお前」
「ナナ、てめー叢雲センセーの携帯の番号知ってるってマジかよ!」
「ん、ああ、昨日聞いた」
「なんで俺に教えねー。てかどーしておめーだけ聞いてんだって話だよ」
俺は校医が口にしたことをありのまま告げた。選活中は体調管理が第一だから、何か体に異変があったらすぐに連絡すること。それとほかの生徒たちには――たとえ気心の知れた友達でも、電話番号を教えるなということ。
「ふざけんなてめー!」
それでも天太の怒りは収まらない。まあまあと仲介に入る伽藍も眼に入らない様子だった。天太が怒る気持ちも判らないではないが、無断で約束を破るわけにもいかない。ここは天太に矛を収めてもらうしかなかった。
「何してんの」
ツバメが現れた。これで話がややこしくならなければいいのだが。
「何か揉め事でも?」
鬚面の長船がひょいと顔を覗かせた。お前は来なくていい。
「お取り込み中ごめんなさい」
そこに割って入ったのは、思わぬ人物だった。布都之先輩である。そこだけ時の流れが滞ったように、全員の動きが止まる。伽藍に至っては、布都之先輩の一挙手一投足を見逃すまいと、眼窩から飛び出しそうなほど目玉を剥いて見入っていた。
「ナナくん、はいこれ」と、先輩は薄手のCDケースを手渡して、「それっぽい雰囲気の曲幾つかチョイスして、CDーRに焼いておいたから。どんな感じの曲がいいか、明日にでも意見聞かせてね」
コンディショナーの清楚な香りを残して、先輩は去っていった。が、沈黙は尚も続いた。それを破ったのは――
「ナナーッ! てめーこのやろー!」
伽藍だった。
「ぜってー殺す!殺されろてめー!ぜってー殺してぶっ殺す!」
伽藍の口から初めて聞く暴言の数々。終いには意味不明な奇言を喚きながら俺に躍りかかってきた。ツバメと、今度は天太が止めに入る番となった。
教室の角に級子と立ち尽くし、無理矢理連れ出される伽藍を複雑な思いで見据える。なんだか選挙活動に身を投じるようになってから、争い事に巻き込まれる回数が急激に増えたようだ。
これが選挙ってやつなのか。苦い味を噛み締めながら、俺は周囲の好奇の眼を無視して席に着いた。受け取ったCDケースの表側に、今の騒ぎで早くもヒビが生じていた。
以後、天太と伽藍との間柄は相当離れてしまったのだが、まあ選挙が終わるまでは致し方ない。俺は選活に専念することを心に決め、それからは毎日のように、放課後を利用して布都之先輩と曲作りの打ち合わせをした。正確には、先輩は既に軽音部を離れてOG扱いだったのだけれど、後輩たちに請われてギターを弾いて聴かせるほど人気が高く信望も厚かったので、練習室の片隅を借りて連日出入りすることができた。
曲作りに関しては俺も級子もド素人だ。シンセに繋いだモニタースピーカーの前に二人で座り、先輩が打ち込んだ音を聴いてあれこれと話し合う。的外れな意見もあったとは思うが、先輩も辛抱強く聞いてくれて少しずつ曲の骨格は組み上がっていった。授業中にも製作途中の何曲かをイヤフォンで聞き比べ、そのうちにうとうとと寝入ってしまい、教師にプレイヤーごと取り上げられたりもした。
「最近は授業に出るようになって、先生感心してたのになぁ」
「はあ、こっちも色々と忙しいんで」
「どんな用事か知らないが、返してほしければここの課題を仕上げて今日中に先生の所に持ってくること。いいね?」
「……はぁ」
結局級子の助けを借り、というよりほとんど級子の力で課題を済ませ、無事プレイヤーを回収することに成功した。この程度の妨害でへこたれる俺じゃない。
ようやく見出した希望の光を、こんなところで取り逃してなるものか。もし間に合えば、立会演説の際に一曲披露できるかもしれない。それも無理なら告知だけでも大きく打っておこう。未完成のデモトラックを配布するのも手だと先輩は言っていた。それを聞いた級子は、なるほど、苦肉の計ですね、あれはゴのコウガイが敵を欺くために敢えて鞭打たれて……と訳の判らないことを独りで滔々と語っていた。
後は踊り手の募集だ。多すぎるのも統率が大変だから、数名でいい。級子と先輩にも頼んでみよう。ツバメは……訊くまでもない。ぶっ叩かれて俺が痛い思いをするのがオチだ。
そうだよ。実は俺、プロデュース業に向いてるんじゃないか?いよいよ追い風が吹いてきたか。よおし、俺が本気を出せばどんな凄いことになるか、学校の連中に思い知らせてやる。凪の期間が長かっただけに、ひとたび動き出せばこの船は速い。これが泥舟でない保証は、どこにもなかったのだけれど。