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「あのさ、お前このクラスの生徒会長候補の、推薦人だろ?」
「誰だお前」
見た目に違わぬ獰猛な声だった。やりにくいことこの上ない。
「俺はH組の丸木戸だ。お前んとこの候補者はどこに行ったんだ?」
「なんでそいつをお前に言わにゃならんのだ」
「いいから教えろって」
俺は手をつけていないハンバーガーを取り上げようと手を伸ばした。それを男は荒々しく撥ねつけて、
「触るな! こいつぁ全部俺ンだ」
「やるのかおい。俺はH組の生徒会長候補だ。俺は保護法で身柄の安全を保障されてんだぜ」
「関係あるか、そんなもん」
男は指の骨を鳴らしながら立ち上がった。お、おい、こいつ本当に推薦人か?ちっとも話が通じないじゃないか。
「おい待て、お前、俺に手出ししたら……」
「関係ねえっつってんだろ!」
既に野生児の肩が目前に迫り、その後方から撓りの利いた右拳が風を切り裂く勢いで……ダメだよけられない! 俺は顔面直撃を覚悟で眼を瞑った。
間近で強烈な打撃音。だが、予想していた衝撃はいつになってもやって来ない。恐る恐る眼を開ける。
ほとんど何も見えなかった。俺のすぐ鼻先に、視界を遮る何かがある。斜めに走る、赤と白の縞模様。それは級子の差し出した傘だった。級子の傘が野生児のパンチを弾いたのだ。
「て、てめぇ何しやがる!」
俯いていた級子が僅かに顔を上げる。その形相は静かに、だが確実に怒っていた。
「名尚さんを傷つける者は、わたしが許しません」
野生児が次の攻撃に移るよりも早く、級子は構えた傘を眼にも留まらぬ速さで繰り出した。傘の尖端が、矢継ぎ早に相手の全身に打ち込まれていく。
「うおっ、ぐぉっ……ごぁ……」
野生児が全く抵抗の意を示さなくなったところで、ようやく級子は攻撃をやめて半身の構えになった。
口の周りにソースを塗りたくったまま、野生児は他の生徒の机に後ろざまにぶつかり、そのまま白目を剥いて机もろとも床に倒れ込んだ。
不可避の帰結として、教室内は騒然となった。
「虎徹が倒れた!」
「すげえ、虎徹倒しやがった」
「って感心してる場合か!誰か保健室に」
「いや、会監のほうが早い。会監呼べ!」
仰向けに伸びた野生児を呆然と眺めていた俺は、やがて腕を震わせて顔を真っ青にしている級子をしげしげと見つめた。さっきは俺が叩いたのさえ躱せなかった小娘が、今や傘一本だけで、反撃の暇も与えずに、決して貧弱とはいえない体躯の男子高校生を打ち倒した。
こいつ、実は俺なんか比べ物にならないほど強いんじゃないか?
「級子」
はっと眼を見開き、潤んだ瞳で俺を見つめ返す。
「あ、あの、ごめんなさい、わたし」
「お前、ムチャクチャかっこ良かったぞ」
「いえ、その、今のは……無我夢中で」
後ろ側のドアが開いて、竹刀を持った男子生徒が二人ばかり入ってきた。両者とも上級生のようだ。
「はいはい、ちょっとどいてちょーだいね。あ、君がH組の丸木戸くんね。ケガはない?」
「あ、まあ、はい」
「君とは初めましてだね。僕は会計監査委員会の塚原、よろしく。こっちが伊東」
紹介されたもう一人は、倒れた男の額や首筋に手を当てケガの具合を調べている。
「どんな感じ?」
「気絶してるだけ。血吐いてるかと思ったらソースだった。紛らわしい」
「はは、コントかっての。一応担架呼んどく?」
「そだね」
塚原と名乗った男は、素早く携帯電話を操作して耳に当てた。恐らくは学校医の叢雲先生に連絡しているのだろう。校内への携帯の持ち込みは通常禁じられているが、会計監査委員だけは例外的に所持を許されていた。言わば特権階級としてのステータスシンボルだ。
「君たち、もう帰っていいよ」
呼び出し中なのを利用して、塚原は携帯を持ったままそう言った。
「えっでも」
「保護法を侵害したのは彼のほうだからね。別に気に病むことないし。後は僕らに任せといて」
「それと、今度やり合うときは俺らが間に合うように頼むよ」伊東と呼ばれた男もこっちを見上げて、「お嬢ちゃんの華麗な剣捌き、見てみたいからね、ははは」
「そ、そんな……」
これ以上いても邪魔なだけだろう。すみませんすみません、と申し訳なさそうに幾度も頭を下げる級子を連れて教室を出る。
さすがにこれからF組に乗り込む気にはなれなかった。それに、こんなに凹んでいる級子を見るのは初めてだ。どうにか慰めて、というか盛り上げてやらないと。
「……まだまだです、わたし」
項垂れたまま呟く級子。いやいやいや、充分強いと思うが。
「真の達人は、相手の強さに応じて自分の力も制御できなくてはいけないのです。わたしは相手の力量を正確に推し量ることができませんでした。そのせいで、あんな騒ぎまで引き起こしてしまって。まだまだ修行が足りません」
そういうことか。
「会監の人も言ってたろ。ありゃあ向こうに非があるんだ。向こうの実力不足までお前が気にする必要ないっての」
「はい……ありがとうございます。優しいのですね、名尚さんは」
「まあ基本的にはな。ていうか今頃気づいたのかよ。おせえよ」
くすりと笑う級子。
「にしても、全然イメージしてたのと違ったな。口調もなんか軽かったし」
「会計監査委員の方たちのことですか」
「ああ」
会計監査委員会。名称が示す通り、主な仕事は会計係が執り行う生徒会費や部費などの会計業務全般を監督・査察することだが、生徒会運営に絡む諸々の諍いの調停や、今みたいに会則違反者の取締りなんかも行っている。伝統的に剣道部員、それも上位の有段者が任命される決まりで、ツバメ曰く、〈最強〉の呼び声高い、〈一番怖い先輩方〉なのだそうだが。
「強いと思います。わたしなんかよりも、ずっと」
やけに力のある声で級子は言った。己より弱い者はともかく、真に強い相手は一度会っただけでもなんとなく判るのだろう。
「あ、名尚さん。ここF組ですよ」
俺のYシャツの裾を引いて級子は歩みを止めた。
「お前……まだ続けるのか?」
「はい。名尚さんに元気を貰いましたので」
なんて回復力だよ。いや、気持ちの切り替えが早いというべきか。もしかしたら、思ってたほど凹んではいなかったのか?
「無理してんじゃねえだろうな」
「はい。平気です」
多分無理をしてるな。〈大丈夫です〉じゃなくて〈平気です〉と言うときは、そんな気がする。統計的に。
しょうがない、こいつの気が済むまで突き合ってやるか。俺は表向きだけでも意気揚々とF組のドアを開けた。が、ここにも候補者と推薦人の姿はなく、初回の偵察はほぼ空回りに終わった。
どいつもこいつも出払いやがって。唯一教室に残ってた奴には危うく殴られそうになるし、ひでえ学年だ。こんな学校の生徒会長になって、一体なんの得があるんだ?
そんなことを思いながら教室を出たところを、
「はいはいどいてどいてー」
会監の二人が持つ担架に揺られ、E組推薦人の野生児が唇を茶色に染めたまま通過していった。
「挨拶? そんな理由でここに来たの?随分変わってるね、あんたら」
放課後。中央棟の四階最上階にあるPCルームが、PC研究会の部室だ。A組の生徒会長候補・安綱叡吉と、ここに至ってやっと顔を合わせることができた。
机上に設置された液晶ディスプレイが部屋の奥までずらりと立ち並ぶ様は、教室というより一企業のコンピューター・ルームを思わせるが、今現在動いている端末は全体の二割ほど。部屋の前方に集まった部員たちも、補欠のいないサッカーチームが辛うじて組める程度の人数だ。
「ほかの候補者の方は、いらっしゃいませんでしたか?」
「来ないね。そりゃ来ないっしょ。俺だってほかの奴らに挨拶回りしようなんて思わないもん」
一理ある。こればっかりは、ニヒルな笑顔を頻りに浮かべているこの男に同意せざるをえない。
「まあでも、あんたらちょっと面白そうだし、五、六分でいいなら雑談ぐらいできるよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
級子は開いた手帳にペンを据えて、
「それではですね、安綱さんの選挙活動の具体的内容を教えて下さい。できれば活動方針なども」
オフィスにあるような事務用椅子からずり落ちそうになりながら、安綱はどうにか耐えてみせた。パソコンマニアというよりは、ノリのいい優男といった風情だ。
「こんな堂々としたスパイ、そうそういないよ。逆に面白いな」
「話せる範囲だけで結構ですので」
「そりゃまあ当然そうだけど。選挙活動っていっても、外で街宣みたいなことするのは厭だから、専らネットだね。サイトに宣伝文書き込んだり」
「どちらのサイトに?」
「もちろん学校の公式サイトだよ。某大型掲示板に書き込んでもしょうがないっしょ。後はSNSとか、ブログになんか書くかも。議員の選挙だとブログに宣伝するのはアウトらしいけど、うちにはそんな規則ないし」
相手の発言を素早く手帳に書き込む級子。
「こちらの学校には、所謂その、裏サイト的なものはあるのですか?」
「あるよ。ていうかそれ作ってるの俺たちだから」
一様にディスプレイに向かう部員たちを手で示して、PC優男は言った。
「言っとくけど、URLまでは教えてやらないからな。これは秘密クラブみたいなもんなんだ。部外者は閲覧禁止」
「判りました」
興味はないのに、そう言われるとちょっと見てみたくなるのが不思議だ。
「ま、ほかの候補者たちは自分らの部活をメジャーにしたいとか、そういう気概みたいなので張り切ってるけど、俺の場合は完全に部活動の一環だから、選挙活動も」
「というと?」
「情報戦の醍醐味がダイレクトに味わえるんだよね。選挙ってさ。どの情報をどう操作すれば人の心がどれだけ動くのかっていうさ。対立候補も投票者も、結局は全部人間が相手なわけだから。マインド・ゲームの要素も強いしね」
「なるほど、選挙も部活動の一環……と。公約の〈セキュアーな生徒会〉というのも、何かそれに関連した……」
「いや、思いつきでつけただけ。多少意味不明なほうがみんな喰いつくかなと思ってさ」
「そうでしたか。関係ない、喰いつくかも、と」
具にメモを取る級子を見て、優男は感心と呆れの綯い交ぜになった微妙な顔をした。
「んじゃ、律儀なスパイぶりに免じて、最後にあんたらの情報をすこーしリークしてやろうか」
「俺たちの情報?」
「なんですか、それ?」
「裏サイトのBBSを見せてやるよ」
優男は椅子を引いて自分の端末に向き合うと、迅速なキータッチでブラウザーを立ち上げ、それらしき白背景の画面を表示した。
「おっと、アドレスバーは消しとかないとな」
文字列検索か何かで、一瞬のうちに画面表示は該当箇所へと切り替わった。
「ほら、ここ見てみな」
優男が脇に退く。級子と顔を並べて画面を覗き込む。
掲示板の一部のようだ。
〈ところでさ、Hのマルキド立候補したじゃん〉
〈知ってる。しかもオサフネやっつけたんだろ?学校来ないくせにやるときゃやるんだな〉
学校来ないくせに、は余計だ。
〈あいつあの転校生とデキてんのかね?〉
〈そらそーだろ。ナナツサヤだっけ?かわいいじゃんあのコ〉
〈ずーっと一緒にいるしなあ〉
〈どー見たってオシドリ夫婦だよありゃ〉
〈毎日手作り弁当持ってきてるって話だぜ〉
〈マジで?〉
〈まーあいつもコガラスにさんざんしばかれてきたからな。そろそろ女運を取り戻そうとしてんだろ〉
〈今頃屋上でイチャイチャしてんじゃね?〉
〈そんなレベルじゃねえよ。きっと部屋に連れ込んで……〉
「み、見ちゃダメです!」
級子はディスプレイにしがみつくようにして、それ以降の閲覧を阻止した。
「ま、そういうこと」優男は狡賢そうに嗤うと、「これ見ても判るっしょ? あんたら校内でもかなり有名なカップルなんだよね」
「カ、カカ、カップル!?」
「いや、俺たちカップルじゃないんだけど」
とんでもない誤解だ。ただ、その誤解を招いたのは間違いなく俺たちの行動なのだけれども。
「そうなの?」
「だってキスもしてないしなあ」
「キキキキス!?」
またどもり始めた。ツバメも委員長もいないのに。おかしな奴だ。
「じゃあ俺が突き合っちゃおうかな」
「ダダダダメです! ダメです! ダメです! 絶対ダメ!」
「そんなに繰り返さなくても」
頬を引き攣らせる優男。だが、それは俺も同様だった。誰だか知らんが、適当なことばっかり書き連ねやがって。俺たちは見世物じゃないんだ。もし生徒会長になったら、こんな裏サイトぶっ潰してやる。