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太古の昔より、〈彼を知り己を知れば百戦して殆うからず〉と申します。敵情視察は政治的外交戦略の必須事項です。自分の能力を遺憾なく発揮するためには、相手の実力を見極め、その上で相手よりも優れた技能、あるいは相手の保有していない技能を効率よく使わなくてはいけません。これなくしてわたしたちの最終的勝利はありえないのです……。
こういう話になると俄然張り切る級子に押し切られる形で、貴重な休み時間を費やし他クラスの立候補者たちを調査する羽目になった。最上の策は物影に潜んでこっそり相手の様子を窺うことなのだそうだが、学校の教室でそれを遂行するのは現実的に不可能なので、挨拶を兼ねた顔合わせという名目で、そいつらのいそうな教室なり部室なりを見て回ることになったのだった。
「お前が一人で行けば充分じゃねえのか」
尤もなことを言ったつもりなのに、級子は俺が人見知りなのだと思ったらしく、大丈夫です、恥ずかしがらなくても、わたしも恥ずかしいですから、でも二人一緒なら平気ですので、とにべもない。手には紅白のストライプ柄の傘が握られている。こちらは携行許可が下りたようだ。
早めに昼食を済ませ、二学年の教室がある二階へ降りることにする。屋上を離れる間際に、最近付き合い悪ィな、と天太に言われた。確かにそうだが、これも選挙のためだ。その横で伽藍が、まあ適当に頑張れよ、と手を振ってきた。適当に頑張れ、とな。伽藍らしい物言いだ。
二年A組の教室の手前に来たところで、級子はポケットサイズの手帳を取り出し、手早くページを繰った。
「こちらに在籍しているのが安綱叡吉さんですね。公約は〈セキュアーな生徒会を目指す〉だそうです」
「セキュアー?」
「セキュリティーの形容詞・動詞形です」
「ガードマンでもつけるのか?よく判らねえな」
「その辺りも尋ねてみましょう」
徐にドアを開ける。仲のいいグループで机を寄せたり、または独り黙々と弁当を掻き込んだり、どこにでもある昼食時の教室の風景だ。
「あの、すみません」最前列の女性グループに近づき、級子は尋ねかけた。「安綱叡吉さんは、こちらにいらっしゃいますか?」
「安綱なら部室じゃない?」
「部室……PC研究会の部室ですか」
「そう」
「不躾な質問で申し訳ないのですが、安綱さんという方は、普段はどんな方なのですか?」
「どんなって」訊かれた女子は周りと顔を見合わせて、「普通の人だと思うけど。あ、確かパソコンに詳しいんだっけ」
「パソコンですか」
「うん、あんまり話したことないからよく判んないけど」
「割とイケメンだよね」
「そうそう、結構レベルは高い」
「そうですか。ありがとうございました」
教室を出て廊下の壁に立ち止まる。
「き、緊張しました」
胸を押さえて級子はふうと息を吐いた。
「いや全然そんなふうに見えなかった」
「そうでしたか?」
しかし顔を覗き込むと、確かに両の頬が不自然に紅く染まっている。かなり緊張していたようだ。本当に人見知りらしい。俺には割と積極的に接してきたから誰に対してもそういう接し方なのかと思ったが、実際は全然違うらしい。
「なんなら俺が訊こうか?」
「いえ、へ、平気です」
「じゃあさ、取り敢えず俺が挨拶するから、自分で質問したいときだけ話せよ。それなら問題ないだろ」
「は……はい、ありがとうございます」
級子はぺこりと頭を下げた。と、その後ろを通り過ぎようとした何者かに傘の尖端がぶつかり、痛ッと声がした。
俺はその女生徒を見て――級子の頭を平手で叩いた。
「イタッ!」
そして返す刀で級子の後頭部をがっちり掴み、無理矢理押し下げつつ自分も直角になるまで腰を折り曲げた。
「ふっ、布都乃先輩、すいませんでした」
「いいのよ、そんなに謝らなくて。ちょっと腕に当たっただけ」
布都乃先輩は慈母の如き相貌で優しくそう言い、級子の傘に指先を触れた。
「可愛らしい傘ね」
「も、申し訳ありませんでした」
「いいのよ。ぼーっと歩いていたわたしも悪いんだし」
「先輩がここに来るなんて珍しいですね。誰かに用スか?」
「H組のツバメちゃんに話があるの。ナナくん、同じクラスよね。あのコ教室?」
「いえ、多分部室だと思います」
「そう。なら、また後にするわ」一旦脚を進めかけた先輩は、今一度こっちを向いて、「ところでナナくん、貼り紙見たわよ。玄関の」
「うわ、見ちゃったんスか」
「お兄さんに言われたんでしょう。お前もやってみろって」
「まあ、そんなとこですかね」
「あなたが推薦者さん?」
「は、はい」
「これから大変だと思うけど、頑張ってね。わたしも応援してるから」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあね、お二人さん」
優雅な微笑といい振り向いた後の清楚な後ろ姿といい、さすがは校内随一の美女。妖艶な校医と男子の人気を二分するだけのことはある。
先輩が立ち去ってから、俺は手荒な真似して悪かったな、と級子に謝罪した。
「だ、大丈夫です……ところで、今の方はどなたでしょう?とても美しい方でしたけれど」
「三年の布都乃唯香先輩だ。美人だろ?でもそのせいで熱狂的なファンも多くてさ。たまたま今は誰もいなくて助かったが、最悪取り囲まれたりするからな。ちょっとでも粗相をしたときは、とにかく謝り倒すに限るんだ」
「すごい人気なのですね」
「ファンクラブもあるんだぜ。もちろん非公式だけどな。伽藍も入会してるぞ」
「伽藍さんがですか?驚きました。結構物静かで落ち着いた方だと思っていたのですが」
級子はふと真摯な顔つきになって、
「名尚さんも、布都乃先輩のことが好きなのですか?」
「お前の質問すげえストレートだな」
じゃあ正直に答えてやるか。
「嫌いじゃないけど、美人すぎてちょっとひくわ」
「はあ」
「ただ、昔うちの兄貴に世話になったとかで、こんな俺にもたまーに声かけてくれるんだよ。まあ立ち話程度だけどな」
「そうでしたか。では、選挙の際には名尚さんに票を入れてくれるかもしれませんね」
「おお、そうだよな。なんだかやる気が出てきたぞ」明るい口調で俺は言った。「よっしゃ、次行くか。取り敢えず安綱は後回しだな」
「はいっ」
気を取り直して、級子は手帳を開いた。
続くB組、C組と、偵察は不発に終わった。剣道部員の鬼丸が部室でメシを喰うのは判る。だが、教祖とやらは一体どこで喰っているんだろう。てんで見当がつかない。B組の生徒に訊いても知らないという答えしか返ってこないし、クラス内でも腫れ物に触るような扱いであることがありありと判る。
「ここもダメか」
悄然と肩を落としてD組の教室を出る。文藝部員はやはり部室のようだ。こりゃ初めから部室を巡ったほうが早かったか。
「本当にすみません。わたしが言い出したことなのに」
「まあいいさ。次行こうぜ」
E組の教室へ。残念ながらここにも候補者の姿はなかった。ところが、
「推薦人ならあそこにいるけど」
と生徒の一人が指差した先に、ファーストフード店のものらしきハンバーガーを両手に抱え、豪快に喰らう男子生徒がいたのである。机の上に散乱する紙屑の山。付近に座る者は一人もいない。教祖同様、敬遠されているのか?確かにあまり近づきたい相手ではないが、本命がいないのならばこの男に訊くよりほかにない。
「ちょっといいか?」
斜め前に立ち、呼び止める。ハンバーガーの袋から口を離し、男は怪訝そうにこっちを見上げた。見るからに野生児の風貌。唇はハンバーグソースで茶色に塗れている。忙しなく咀嚼する歯の間から食べ滓が幾つか零れ落ちた。