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 全寮制でしかも陸の孤島めいた僻地に立つ高校ともなると、エスケープ先は自ずと限られてくる。

 屋上か裏山か、はたまた学生寮へと延びる長い並木道のベンチか。

 依然として暑い日は続いているが、団扇の一本とキンッキンに冷えたスポーツドリンクでもあれば外で過ごせないこともない。

 丘を下って麓のゲーセンとか古本屋で涼むのが一番なんだが、前みたく教師どもに見つかって日がな一日正座させられるのを考えると、どうにも二の足を踏んでしまう。

 ハイリターンには常にハイリスクがつきまとうわけだ。

 利用者がいなければ体育館の用具室で時間を潰せないこともないが、今のこの時間帯は無理だった。

 始業式のせいだ。

 そう、今日は九月一日。

 一年で最も憂鬱な日。

 悪魔の響きを伴う、忌まわしくて呪わしい、夏休み明け初日。

 とてもじゃないが授業に出られるような精神状態じゃない。

 気が塞がりすぎて眩暈がしそうだ。

 嬉々として休み中の出来事を語り合うほかの連中の神経が、さっぱり理解しかねる。

 宇宙人の会話のようだ。

 午前十時。

 打ちっ放しのコンクリートに寝そべるのはいつもの面子。

 校舎南棟の屋上は、貯水タンクや出入り口の設置場所の関係で割合日陰が多く、心地好い涼風さえ吹いてくれれば昼寝にも事欠かない。


「もう始業式終わってんじゃね?」


 むっくり起き上がった天太てんたが、不意にそう言ってろくすっぽ汚れてもいない後頭部を払った。

 その拍子に足に当たった空き缶が甲高い音を立てて転がっていく。


「うるせえぞ」


 寝起きみたいな声で伽藍がらんが不平を洩らす。

 本気で眠っていたようだ。

 言葉尻に怒気がちらついている。


「わりィわりィ」


 天太は慌てて缶を拾い上げた。

 中身が空っぽなのは判っているはずなのに、名残惜しそうに空洞を覗き込んでいる。


「始業式なんてとっくに終わってんだろ。二限始まるまではホームルームじゃねえの」

「そっか、じゃあさ、そろそろ戻ろーぜ」


 こいつが率先して戻りたがるなんて珍しい。

 おおかた次の授業が楽しみなんだろう。


「水泳か?」

「おうとも、スク水女子が俺を待ってんのさへっへっへ」


 と、Yシャツの襟を仰いで風を呼び込み、蘭鋳のように眼を剥いて口の端を持ち上げる。

 判りやすいエロ気質。


「お前なんか両脚つって溺れちまえばいいのに」


 伽藍の悪態にも天太は全く動じない。

 はたと手を打って、


「おおっそれ名案。溺れたら叢雲むらくもセンセーに介抱してもらおっと」


 美人校医の名を挙げ、相も変わらぬ浮かれ顔。

 調子のいい奴だ。

 やれやれと寝返りを打つ伽藍。

 一時限目の終了を示すチャイムが鳴った。

 静かに上体を起こすと、それを待ち構えていた天太に威勢よく腕を叩かれた。


「なっ、早く戻ろーぜ。お前もあんまぼやぼやしてっと小烏こがらすに捕まっちまうって」


 確かに。

 もう休み時間だし、そろそろ見つかるかもしれないと思っていたところだ。


「伽藍、お前はどうすんだ?」


 問いかけると、伽藍は携帯電話を仰ぎ見たまま空いた手を左右に振った。

 眼許は長く伸ばした前髪に覆い隠され、その表情は窺い知れない。


「そっか。んじゃ、俺たちだけで行こーぜ」


 と立ち上がろうとした天太が、ああっと声を上げた。


「やっべ!」

「海パン忘れたんだろ」

「なんで判るんだよ」


 普段通りの寮住まいなら部屋に取りに行けばいいのだが、夏期休業で家に持ち帰っていたので手持ちがないのだろう。


「ぜってえ貸さねえ」


 予め釘を刺した。

 一層顔色を悪くする天太。

 判りやすい男だ。


「マジかよ。頼むって。ちゃんと洗って返すからさぁ」


 そういう問題じゃないっての。


――バシン!


出入り口の方向から、床を叩く強烈な音がした。

 うわっ、もう見つかったか。

 恐る恐る視線を転じる。

 Yシャツの胸許を飾る真紅のリボン。

 濃紺のスカート。

 そしてすらりと伸びた、一本の竹刀。

 それを片手に仁王立ちする女子生徒の、今やすっかり見慣れた佇まいがそこにあった。


「何やってんの、あんたたち。早くしないと次の授業始まるわよ」

「へいへい、わっかりました」


 卑屈そうに頭を下げる天太に、結構な強さで脇を突つかれた。


「な、なんだよおい」

「愛しの彼女のお出ましだぜ」

「なんですって?」


 竹刀を己の肩に乗せたツバメに睨まれ、天太は益々身を竦めた。


「天太、お前な」ここは一つ言っておかないと。「そりゃ鬼丸おにまるの役回りだろ。俺じゃねーよ」

「四の五の言ってないで、さっさと教室に戻りなさいよ」冷厳な光を湛えたその双眸が、ふとこっちを向いて静止する。「それとナナ、あんたはここに残りなさい」

「へ? 俺?」


 困ったように天太を見る。

 薄情な悪友は、指をパタパタ振りながら既に後退りを始めている。

 俺を置いて逃げ帰るつもりか。

 その背後には、いつの間に起きたのか抜き足差し足で脱出しようとする伽藍の姿があった。


「天下の女子剣道部次期部長、小烏様のご指名だぜ。邪魔者は退散退散」

「お、お前らなぁ」

「ごゆっくり」

「おっ先ィー。海パンは伽藍に借りるわ」

「俺持ってきてねーけど」

「何ィ? マジで?」

「購買で買えよ」

「えーっ、もったいねーよォ」


 そんな駄弁がどんどん小さくなり、やがてドアの奥へと消えてしまった。

 竹刀を手にした女子と屋上に二人。

 居心地悪いことこの上ない。

 盟友たちに裏切られた一抹の寂しさもある。

 だが、幼馴染みの誼というやつか、相手の鋭い眼つきはやや穏やかになったようだった。


「ったく始業式にも出ないで、何やってんだか」

「そりゃ違うな。正確に言うと、何もしてない」

「口答えしない!」


 竹刀の先で二の腕を小突かれた。


「イテッ!」


 これが見た目以上に痛い。

 眼つきが和らいだのは単なる気のせいか?


「ほら、行くわよ。そこのゴミも拾って」


 飲みかけのペットボトルを指し示してツバメは言った。


「ゴミじゃねえよ。まだ入ってるの見えてんだろ」

「いちいちうるさい」

「イテテテッ、ぼ、暴力反対」

「しょうがないわね、ここで飲んでって。わたしが後で捨てておくから」


 真のゴミと化したペットボトルを手渡し、半ば追い立てられるようにして階下へ。

 ところが、ツバメは教室とは違う場所に向かうよう命じてきた。

 二時限目は確か移動の必要がない、教室での授業だったはず。


「二限って教室じゃなかったか?」


 タプタプ揺れる腹部をさすりつつ、竹刀とボトルの二刀流となった隣の女流剣士に尋ねた。

 通りがかった下級生の女子が恐縮した様子で頭を下げてくる。

 むろん俺にではない。

 ツバメの部活の後輩だろう。

 何故ならその小娘も竹刀を携えていたからだ。


「そうよ」

「なら、どこに行くんだよ」

「机と椅子を取りに行くのよ」


 机と椅子?


「誰の?」

「あんたのに決まってるでしょ」


 ちょっと待て。


「元々あった俺の席は、じゃあどうなったんだ?」


 ツバメは沈黙で応じた。

 その眼で見て確かめろってわけか?

 物置のような薄暗い部屋から机一式を運び出し、ようやく教室へと向かう。

 廊下を行く一年どもが、含みのある表情で一様にこっちを見ている。

 あからさまに嗤ってる奴までいやがる。

 どうせまた剣道部の女傑にこき使わされる一介の奴隷の図として、連中の眼には映ってるんだろう。

 その通りなので文句も言えない。

 剣道部員に休み時間の竹刀の携帯を認めたこの学校の規則は、紛うかたなき悪法だと思う。


「おいツバメ、これ教室まで俺一人で運ぶのか?」

「当たり前じゃない。そのぐらい一人で持てるでしょ」

「肉体労働は苦手なんだよ」

「だったら訊くけど、最後に頭脳労働したのはいつよ?」

「今脳味噌フル回転中……俺の計算が確かなら、あの角曲がったところで体力の限界が来るんだよな。ちょっと休憩させてくれ」


 そう言い終えるや否や、机に逆さまに乗せた椅子の脚をぴしゃりと打たれた。

 俺はそれ以上喋るのをやめた。


「よぉナナ」


 二学年の区画に入ると、堂々と声をかけてくる奴まで現れた。


「今度はなんの罰だ? 食い逃げか? それとも覗きか?」

「…………」

「落とすなよお前。床に置いたら横の人に怒られっぞ」


 隣を一瞥するが、別段言い返す様子もない。

 取り澄ました顔で平然と長い髪を靡かせ歩いている。

 この八方美人め。

 心ない連中の冷やかしにも堪え忍び、教室のドアが見えてくる頃には、息のほうもかなり上がっていた。


「全然体力の限界じゃないじゃん。あんたの計算も当てにならないわね」

「あのなぁ」


 扉を開けてもらい、二年H組の教室に入る。

 まだ二限の授業が始まっていないので、うるさいのなんの。

 後ろの席の何人かがこっちに気づいて手を上げた。


「来た来た。おっす」

「おお」

「また重役出勤か」

「まあな」

「でも今日はえらく早いじゃんか。まだ昼前だぞ」

「そうか、じゃあ出直すわ」

「コラ」


 竹刀の柄で後頭部をグリグリやられ、思わず悲鳴を上げたが、その呻きもギャラリーの爆笑に掻き消される。

 笑いすぎだ。

 見世物じゃないんだぞ。


「ん?」


 俺は自分の席があるはずの、窓際の一番後ろに眼をくれ、そして眉を顰めた。

 ツバメの言葉に反し、俺の机はちゃんと置いてあった。

 だが数人の人集りに紛れていて、座席の状況がよく判らない。

 クラスメイトの誰かが座っているようだが……。

持ってきた机一式を近くに置き、背後のツバメを振り返った。


「誰だあれ」

「転校生よ」

「転校生?」


 ツバメは呆れがちに溜め息を吐いて、


「あんたがサボったこないだの登校日のときに、先生が言ってたのよ。休み明けに一人転入してくるって」


 いや、サボったんじゃなくて忘れていただけだ。

 ただ、今訂正するのは焼け石に水なので、誤解を解くのは後回し。

 オオカミ少年の悲哀が、俺にはいやというほど身に沁みる。


「ナナ!」


 その転校生とやらを取り巻いていた一人が、俺を見て頓狂な声を放った。


「しかも机持ってきてんじゃん!」

「さっすがツバメちゃん、ナイスフォロー」


 取巻きの輪が崩れかけたところへ、俺の椅子に座っていた人影が素早く身を乗り出してきた。


「す、すみません」


 それは少女のあどけなさを相貌に残した、背の低い女子生徒だった。


「あの……本当にすみません。勝手に座ってしまって。席が足りなかったもので」

「あなたが謝ることないよ」


 女子の一人が庇うように少女の背にそっと手をやった。


「そうそう、大体こいつが来ないのが悪いんだし」


 後ろから追い討ちをかけるツバメ。

 ムカつくが事実だ。

 とはいえ、こんな程度の挟撃に怯む俺じゃない。


「別に俺が謝れって頼んだわけじゃねーし。そっちが勝手に頭下げてんだ。それがなんで俺が悪いってことにな、なゆんやよ、お、おいほや、や、やめよよ」


 柄の先で頬を抉られ、俺は喋ることすらままならない。

 俄に沸き上がる笑いの渦は、教師が入ってきたとき特有のあの空々しい感じの前に敢えなく霧消した。

 慌てて各々の座席に戻っていく中、あの忌々しい剣道女だけは去り際のあっかんべーを忘れなかった。

 ともかくだ、こうやって机と椅子を持ってきてやったんだ。

 転入生にはこっちに座ってもらわないと。

立ち尽くす少女の横で椅子を下ろし、座席の定位置を微調整していると、壇上の国語教師に名を呼ばれた。


「なんスか」

「お前だけ席替えか?」

「いえ、このコの席です」

「お前がそこに座れ」初老の男性教師は、口角に溜まった沫を飛ばす勢いで声を大きくした。「ちょっと眼を離すと、すぐに居眠りするからなお前は。横の子が転入生だろう? 窓際の席はその子に譲って、居眠りしないように見張っててもらえ」

「えーっ、でもこの席、埃っぽいんスけど」

「バカモン」


 怒号が飛んだ。

 最前列の反応からすると、相当量の唾液も飛来したらしい。

 可哀想に。


「その埃だらけの席にその子を座らせるつもりか? お前な、彼女の転入試験の成績聞いたら、そんな態度取れなくなるぞ」


 ざわつき始める教室内。

 その一番隅の席で、話題の転入生は恥じらうようにじっと俯いている。

 短い髪のせいで形の良い頭部の輪郭がはっきり判り、白磁のような項が窓外の空色に映えて見えた。


「剣術の腕も一流だそうだから、剣道部の者は今のうちに眼をつけておけよ」


 中央の座席に着いているツバメの首が、ギュンッと左を向いた。

 爛々と輝くその瞳は、まさしく苦楽を共にする仲間を見出したときのそれだ。

 クラスの注目を一身に浴び、転入生は実に居心地が悪そうだった。

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