10 灯火2
確かに少年の視界には、闇だけが広がっているはずだった。しかし見つめるその先で、闇の向こうがわずかに明るんだように見えた。
思わず少年は身を乗り出す。
あれは、なんだろう。
ぼんやりと光って見えるそこを見つめながら、気のせいかと目をこすった。
しかしそれは確かに、ぽうっと、滲むように淡く暗闇の向こうに灯っていた。
船の明かりかとも思ったが、船の明かりはもっとはっきりしている。あんな淡い光りかたは見たことがない。
もしかして。
少年は立ち上がった。
灯火だ!
よろこびが込み上げる。
これで、巽を探しに行ける!
光はわずかに近づいてきているように思えた。
少年はたまらず前に進んだ。
ざん……、ざん……
打ち寄せる波が、少年の足下をぬらした。
それを気にもとめず、海の中へと更に足を進める。
ぱしゃん、ぱしゃん……
打ち寄せる波が少年の膝までぬらすが、気にならなかった。だんだんと光は大きくなっている。確かにその光は近づいてきていた。
あまりにも不思議なその光景を、少年はまったく不思議とも恐いとも感じなかった。
それどころか、少年にはそれがごく当たり前の出来事のような感じられたし、なによりその光はとても温かなもののように思えたのだ。
だんだんと灯火は近づいてくる。
はやく、はやく……っ
少年は急く気持ちを抑えながら、だんだんと近づいてきている灯火が来るのを見つめる。
はやく、はやくっ
巽を探しに行こう、巽を見つけて、一緒にうちへ帰ろう。
はやく、はやく……。
少年は、心臓を高鳴らせ、灯火が来るのを待った。
それが、だいぶ近づいてきたとき、少年はあることに気付いた。淡く滲むように光るその灯火が、人の形をしているように見えるのだ。
近づいて来るに従って、その形ははっきりとしてくる。
そして少年は、すぐそこにまできた灯火を見て、茫然とした。
「………たつみ………」
目の前までやってきた灯火に向かって、少年は呟いた。
灯火と思っていたのは、自分が探しに行こうとしていた、親友の姿をしていた。
「よう」
わずかに微笑みを浮かべ、親友の形をした灯火が言った。
闇に埋もれているのに、その姿は、光のもとにいるかのように、はっきりと見えた。
けれど微笑みを浮かべた親友の姿に、少年は確信する。目の前にいるのは、間違いなく自分が探していた親友なのだと。
「巽!」
少年は歓喜の声を上げた。そして、胸に抱えていた後悔がこらえきれずにこぼれた
「ごめんな、あの時、俺が行けば良かったのに。巽をこんな目に遭わせてごめんな」
うれしくて、でも、申し訳なくて、ずっと言いたかった言葉があふれ出す。
親友はわずかに微笑みを浮かべたまま、少年を見ていた。
「戻ってこれたんだな、良かった……」
そう言うと少年は唇をかみしめた。その体が、小刻みに震える。
戻ってきた親友を前に、少年の心には、喜びとも後悔とも違う感情がこみ上げてきたのだ。微笑んでいる親友の姿に、少年は自分に対して失望していた。
巽を探しに行きたかった。
ずっと彼が帰ってくるのを待っていた。
言いたいことがあるような気がするのに、少年は、ただ自分が情けなくてたまらなかった。
「……ごめんな、俺、お前を捜そうと思っていたのに……」
震える声で少年は呟いた。
自分はなんの役にも立たなかった。
約束を果たしたかった。灯火を灯して、探しに行きたかった。誰があきらめても、自分だけはあきらめないと、絶対、巽を捜し出してみせると……。
なのに。
少年は、穏やかに微笑んでいる親友を見た。
親友は自力でここまで帰ってきた。
なんの力にもなることが出来なかった。親友が大変な思いをしていたのに、自分はなんの役にも立てなかった。
「俺、灯火を、灯せなかった……。おまえを探しに行けなかった」
親友と言っておきながら、何もしてやれなかった自分が、どうしようもなく情けない。力になってやりたかったのに、何の役にも立てなかった自分が。
「ごめん、巽」
俺は灯火灯すことができなかった。
泣きそうになりながら、少年は笑った。
「そうだよな、お前、しっかりしてるもんな。俺なんかが探しに行かなくったって、帰ってこれるよな……。俺、ひとつも、お前にしてやれなかった。おまえに助けてもらってばっかりだったのに……こんな時ぐらい、おまえの力になりたかったのに……なのに、お前のために何にもしてやれなくって、ごめんな……」
「……バーカ」
呟いたその言葉に返ってきたのは、親友の笑いを含んだような声だった。
その声に、少年は今にも泣きだしそうな顔を上げた。
視線が合う。
親友は確かに前にいて、微笑んでいる。
「灯火は、ちゃんと、灯っていたよ」
親友は、噛み締めるように、一言一言を大切にしているかのように、少年に向けて言った。
「うそつけ! 俺、ずっと、待ってたんだ。お前探しに行こうと思って、ずっと! なのに、灯もらなくて、俺……」
少年の見つめる先で、親友はまぶしそうに目を細めて笑ったままだ。
「ちゃんと灯っていた。まぶしいぐらいだった。それを目指して、俺はここに帰ってこれた」
親友はいっそう笑みを深くする。
「………灯火は、お前だったよ」
その言葉に、少年は瞠目する。親友は嬉しそうな笑みをたたえて、自分を見ている。
ふいに、全ての意味を理解した。
少年は唇をかみしめた。胸が締め付けられるようだった。
グッとのどに熱い固まりが込み上げてくる。
握りしめたこぶしが震えた。
灯ったのだ。想いは、伝わっていたのだ。
まぶたが熱くなった。
『その人を思っていれば、ちゃぁんと灯る』
からかうように言った祖母の言葉の意味がようやく分かる。
闇夜の海に灯るあかりとは、その人を思う、心のあかり。
『俺は、巽のことがすっげぇ好きだからな、絶対灯してみせるぜ!』
そう、意気込んで約束したあの日。
約束を、果たすことができたのだ。
「……たつみぃ……」
親友は、すぐ側にいる。
嬉しくて、悲しくて、切なくて、少年は、声を上げて泣いた。
俺、お前の役に立てたか?
俺、胸はって、お前の親友だって、言ってもいいか?
泣いている少年の前で、親友が、うつむき加減に独り言のように呟きはじめた。
「……ずっと、お前の声が、聞こえていた。いつも泣きそうな声で、俺の名前を呼んでいたな……。他のみんなの声も聞こえていた。お父さんの声、お母さんの声、柏木とか友達の声」
少年は涙を拭い、しゃくりをあげながら親友の言葉に耳を傾けた。
「……でも、聞こえてくる声は、ただ俺の周りに反響するだけだった。帰りたくても、どっちへ行けばいいのかわからなかった。月の光が、まぶしすぎて、灯してくれるあかりが、見えなかった」
悲しそうに呟かれる言葉。親友の表情はわずかにかげっていた。
「恐かった。もう、このまま海から戻ることはできないと思った」
弱々しくつぶやき、親友が一瞬、唇を噛んだ。
「……でも、信じてた」
うつむいたまま今にも泣きそうな顔で親友が微笑む。
「……約束、したよな。だから、絶対、お前が来てくれるって、信じてたよ。新月になれば、帰れるって、信じてた」
言葉をきり、親友は顔を上げた。そしてまっすぐに少年を見つめる。
心から嬉しそうな笑顔を浮かべて。
「やっぱり、お前、ちゃんと来てくれた。忘れっぽいくせに、ちゃんと、探しに来てくれた」
ささやくようなその言葉が少年に届く。
「……ありがとうな」
親友がそう言って微笑んだ。
少年は何度も何度も頭を横に振った。
うれしかった。思いが届いたことが。親友の力になれたことが。
俺、お前に迷惑かけてばっかりだったよな、なのに、俺のこと、信用してくれてたんだな。
そんなことが、たまらなくうれしかった。
涙で声が出なかった。何を言えばいいのかわからなかった。
ただ、わかったっていたのは、親友が目の前にいるということ。
「たつみぃ……」
少年は目の前の親友を抱きしめた。