第一話
木造の家の中、三人の女性が楽しそうに会話をしながら布を使ってなにやら作業をしている、それを横目に俺はゆりかごの中で板張りの天井を見上げていた。
そして、俺と同じように両隣に置かれているゆりかごから聞こえてくる赤ん坊の声を耳にしつつ、これまで何度もしてきた自分に起きた出来事についての整理をゆっくりと目を瞑ってもう一度始めることにした。まあ、ようするに、今他にやれることがないので最近よく行っている暇つぶしを始めただけだった。
あの理解できない恐怖体験を味わった後、やけに耳の長い男女を見て気を失った日から三ヶ月ほどたち、ようやく俺は現実逃避をやめて、一応はこの現実を受け止めることにした。
正直、こういう話の出てくる宗教とかには全然詳しくは無いし、普通に生活していて小説やゲームぐらいでしかこんな単語は聞いたことが無いが、どうやら俺は、いわゆる転生というものを体験したらしい。
自分の現状を一応ではあるが認識するのにかかった三ヶ月という期間を長いと取るか短いと取るかは人それぞれだろうが、気が付いたら自分の身体が赤ん坊になっている、なんて事態が何の前フリもなくある日突然自分の身に降りかかってきてその直後に冷静にその状況を受け入れて、これはきっと転生したんだ! なんて考えられる人間は稀だろう。
そして一般人でごく普通の高校生だった俺は当然、とても混乱をした。
気を失ってから、どれ程の時間がたったのかは分からないが、意識を取り戻した俺は気を失う前に見た女性の胸に抱かれていた。
最初は状況を理解できなくて固まり、次に自分の身体に起きた異変、身体が赤ん坊になっていることに気づいて大いに混乱した後、最後に街に突然化け物が現れて友人共々食われるなんてありえない体験を思い出し、ああ、これは夢だな、と俺は結論付けた。
もちろん、その後何日経っても見慣れた自分の部屋で目が覚める、なんてことはなく夢などではなかったことを思い知ったわけだが、あんな荒唐無稽な事件とその後に味わった恐ろしい痛みや、まるで拷問のような苦しみが現実に起きたことだなんてすぐには認められなかったのだ。
そして一週間以上が経ち、いよいよこれが夢では無いと気が付き始めた頃になって、ようやく俺は自分の身に起きたことについて本格的に考え始めた。
といっても必死に頭をひねった結果分かった事は本の少しの事柄しか無く、それにすら何故そうなったのかなんて説明をしてくれる都合の良い存在が居るわけも無く、全てがただの推測となってしまうのだが。
まず、俺はあの時、化け物に食われて死んだのだろう、ということだ、死んだ瞬間のことは分からないが、あんな巨大な化け物に街の大通りごと飲み込むような勢いで食われたのだ、到底自分が生きていられるとは思えなかった。
あの後、腹の中消化されたのか、後から飲み込まれてきた道路の破片にでも潰されたのかもしれない。
俺が化け物の腹の中だと思っていた真っ暗な空間で見た謎の光や、凄まじい力で引っ張りまわされたりしたのは、もしかすると死後の世界だったのかもしれない。
そして死んだ後に俺は転生をした、というのが俺の出した結論だった。
だがそうなると、一緒に飲み込まれたまーちゃんやそー君は生きている可能性は絶望的だろうと言う事、もし転生をしていたとしても俺と同じように前世の記憶を持ったままなのだろうか、仮にそうだとしてもどうやって見つければいいのか皆目見当も付かない。
あの後、化け物が現れた都市部から程近い住宅街に住む俺の家族がどうなったのかも気になる。
みんなの安否が気になるのなら、自分で調べられる位の年齢になるまで成長を待てばいい話なのだが、それを実行するのにはとても大きな障害が立ちはだかっているのだ。
世界の壁というちっぽけな人間にとっては、どうしようもないほどの大きな障害が。
そう、俺が転生をしたのは、剣も魔法もあるファンタジーな異世界だったのだ。
「あらセリアちゃん、おっきしたのね、おはよう」
別に寝ていたわけではなくて、ただ目を瞑り集中してこの三ヶ月間の事を改めて整理していただけなのだが、そう言って植物の蔦で編まれたゆりかごの中に寝かされている俺に笑顔と共に声をかけてきたのは今生の母であるエレンシア・セラ・リエト、親しい人物にはエレアと呼ばれている美人さんのエルフだ。
……俺の目が突然おかしくなった訳ではなく、ファンタジー物の小説やゲームなんかでよく登場する、耳が長くて美しい容姿をしていて魔法や弓を使う長命な種族の、あのエルフだ。
「そういえばそろそろミルクの時間だったわね、うふふ、お腹がすいて起きちゃったのかしら? はいセリアちゃん、ごはんですよ~」
そう言って母さんは明るい緑色のエルフ特有の民族衣装っぽい服を少しずらし、胸をはだけて俺の身体をそこに近づけた。
転生しからすでに数え切れないほど経験した行為だがいまだに気恥ずかしさをほんの少しだが感じてしまう、……本当に気恥ずかしさだけだ。
きれいな女性にこんなことをされれば普通の男だったら興奮したりするだろう、しかし今の俺にはそういう対象として全く見られずに気恥ずかしさしか感じない、この体が彼女と血の繋がった子供だからなのだろうか。
昔、精神は肉体の影響を受けるとか言う話を何かで見た記憶があるしこの体自体以前の自分のものとは似ても似付かないのだ、少なくともその事と関係が全く無いということは無いだろうと俺は思っている。
しかし、精神が体の影響を受けると言うのなら、俺はこれからどうなって行くのだろうかと自分自身の将来に何ともいえない漠然とした不安を抱いてしまう、なぜなら。
俺の今生の名前はセレティア・リア・リエト。
将来に色々な意味で不安を感じているエルフの女の子だ。
……性転換の魔法とかないのだろうか。
弟子と師匠と永い旅
序章
第一話「新たな故郷と穏やかな日々」
「……ん~、朝かぁ……」
木の扉が付いた簡素な窓から差し込む光を閉じた目蓋に感じて俺は布を何枚も重ねて敷いただけの布団から体を起こした、どうやら一緒に寝ていた両親はすでに起きているようだ。前世と比べると随分と鋭敏になった長い耳に、朝食を作っている母さんの立てる音が聞こえてきた。
「あ~眠い……顔、洗ってこよう……」
前世より起きる時間が随分と早いのも原因の一つかもしれないが、どうにも朝は苦手で頭がうまく働いてくれない。
ぼうっとしながらも枕元においてある着替え、緑色の綺麗な刺繍が施された民族衣装のようなワンピースに手を伸ばして、のそのそと着替える、服に頭を通してから袖にも両手を通す、顔にかかった長い金髪を払いながら俺はとりあえず目を覚まそうと、家のすぐ外に置かれている生活用の水を溜めている樽に向かった。
俺が転生してから時間は過ぎ去って行き特に大きな事件も無く五歳になった。
恥ずかしい話だが転生した頃はよく死んだときの事を夢で見てパニックになり真夜中に大泣きをして家族には迷惑をかけていた。しかし、二歳頃から大分心の整理もついてきて徐々に夢を見ることもなくなっていった。
悪夢こそ見なくはなったが正直に言うと完全に吹っ切れてはいない。
今でもふとした事で前世のことを思い出すのはよくあることだ。それに俺自身も前世のことを忘れたくないと思っている。
しかし、だからといって、姿も性別も変わってしまったとはいえ、原因は分からないものの転生をして今生きているのに、どうすることも出来ない過去に囚われ後ろ向きな事を考え続けて今を蔑ろにしたり、お腹を痛めて俺を生み、愛し育ててくれた今生の両親に無駄に心配を掛けたりする訳にもいかないと思ったのだ。
大きな樽に乗せられている蓋代わりの板をどけて、小さな桶に水を汲む、揺らぐ水面に映った前世とは似ても似つかない翡翠の様な色の美しい瞳をなんとなく見つめた後、両手を使って顔を洗う、少し温いが贅沢は言えない。
この集落は畑で取れる野菜や森で取れる木の実そして狩で手に入れた肉を食べるという自給自足の生活をしていてほとんどの服も布から自分たちで作るという前世とは全く違う暮らし方だ。
前世の暮らしに比べると不便なことや苦労も多いが、俺はこの生活を結構気に入っている、なんというか自分が日々生きているという実感があってとても充実しているのだ。
「ふぅ、やっと頭が起きてきた、でも温い水だとあんまり顔を洗った気がしないなぁ。魔法なんてものがあるんだし冷水や温水が出る、なんて魔法の道具、探したらありそうだよな。発展している大きな街ってどんな感じなんだろう」
俺は生まれてからまだ一度も集落の外に出たことはなくて、この世界の街での生活水準がどの程度の物なのかは知らない。
外の事は気にはなるものの、俺はこの集落での暮らしを気に入っているし何よりここには今生の家族もいる、いつか成長してから観光ぐらいは行ってみたいと思うが、物語のような冒険をしたいとは思えなかった。
悲しいことに今となっては過去形になってしまったが俺も男だったし、少しはそういう物語に出てくるような冒険に対する憧れはある、だがこの世界はファンタジー小説に出てくるような世界で、まぎれもない現実だ。
実際にまだ目にしたことはないが、聞いたところ危険な魔獣どころかドラゴンすら実在するという話だ。
前世で謎の巨大な化け物に食われて死んだ身としてはそんな存在に現実に遭遇したいとは思えない、痛い目になど遭いたくはないし今度の人生では両親より先に死ぬなんて親不孝をしたくはないのだ。
と、いろいろと考えはしたが、そんな訳で現在俺は、平穏に生きながら、唐突な死のせいで前世に出来なかった分も、今生の両親には将来しっかりと親孝行をしたいと考えていた。
……でも、孫の顔を見たいとか言われたらどうしよう……。
顔を洗って目を覚ました俺は家の中に戻り、リビングに当たる部屋に入った。俺の住む家、というか集落の家は大抵小さくて部屋もリビング、物置、寝室、台所の4部屋ぐらいしかなくて必然的に家に入るとそこはリビングになる。
「セリア、おはよう、目が覚めたのならエレアを手伝ってやりなさい」
「おはよう、父さん。じゃあ母さんの手伝いしてくるね」
リビングに入った俺に声を掛けてきたのは若々しい見た目に反して渋い声がカッコイイ男、父親のネグティス・リア・クエルだ。
座ったまま俺に母さんの手伝いを言いつけて来たが別に父さんが怠けているわけではない四六時中手伝いを強要されるわけではなくてしっかりと遊ぶ時間も有るのだが、それほど人口の多くないこの集落では子供でも大事な労働力で、親の手伝いをしながら仕事を覚えるというのは大事なことなのだ。
台所に入ると母さんはサラダを盛り付けているところだった。不思議な旋律の鼻歌を歌いながら体を動かすたびに俺と同じ色の金髪がさらさらと揺れている。
とりあえず何を手伝えばいいのか声を掛けようとしたが俺が口を開くより先に母さんはこちらに振り向いた、どうやら俺の足音で気づいていたようだ。
「おはよう母さん、手伝うけど何をすれば良い?」
「おはようセリアちゃん、じゃあ早速だけどね……」
「……ん? 味付けを変えたのか、エレア」
「まあ! 気がついてくれたのね、隠し味を少し変えてみたのだけれど、どうかしら?」
「エレアの愛情の籠った料理がおいしくないわけないだろう」
「うふふ、ネグったら何時も真顔でそんなことを言うんだから恥ずかしいわ!」
あの後俺が手伝い始めてすぐに料理は完成して、今はリビングで家族そろって精霊への祈り、前世でのいただきますの様なものを済ました後に食事をしているところだ。
俺は何時も道理の目の前で繰り広げられる甘ったるいやり取りを眺めつつ、モサモサと野菜を食べていた。仲が良いのは結構だが毎日目の前で見せられ続けるのはきついな、と顔には出さずに心の中で思いながら野菜を咀嚼する、口の中に広がる苦味がこの甘い空間では心地よかった。
どうも転生してから野菜や果物がやたらおいしく感じてしょうがない、前世では肉のほうが好きだったし今も嫌いというわけではないのだが肉と野菜が並んでいれば野菜に手を伸ばしてしまうという有様だ。
両親も野菜や果物が肉よりも好きなように見えるし、これはエルフの味覚が原因なのかもしれないな。
そんなことを頭の中で考えて目の前の光景から逃避をしていると母さんといちゃついていた父さんが俺に声を掛けてきた。
「セリア、一昨日も言ったが今日は午後から弓の訓練をする、昼には家へ帰ってきなさい」
「ん、わかった」
「セリアちゃんも、もう弓の訓練をする齢なのね、弓は狩の道具にも身を守る武器にもなる大事なものだから、がんばるのよ、セリアちゃん。でも怪我はしないようにね」
「はーい」
「エレア、幾らなんでも、最初から難しい事はさせないさ、初めは弓についての勉強でそれから徐々に子供用の弓を使って弦の張り方や構え方なんかを教えていくんだ。今日は怪我をするような事はしない」
「それぐらいわかっているわ、でも弦を張ったり矢を撃ったりする練習を始めたら怪我をしちゃうかもしれないじゃない」
「まったく、お前は心配性だな、大丈夫だ。それに、たとえ多少の怪我をしても魔法ですぐに治せるし、エレアの腕なら後も残らないだろう? ……思い出すな、初めてお前と出会った時、大怪我を負って動けないでいた俺の傷を綺麗に治してくれたのを、あの時のエレアはまるで女神のようだった」
「女神だなんて、うふふ、ネグったら!」
「エレア……!」
「ネグ……!」
俺は父さんと母さんの言葉に返事をした後、またいちゃつき始めてしまった二人から精神的な被害を受ける前に目を逸らし、一昨日父さんに言われたことを思い出していた。
なんでもエルフの子供は五歳ぐらいからそれぞれの親が弓の扱い方を少しずつ教え始めるんだそうだ。弓は狩に使って日々の糧を得たり、集落や畑を魔獣から守ったりするための大事な道具でこの集落だけではなく、何らかの事情がない限り大抵のエルフは腕に個人差があっても大人はみんな使えるらしい。
元々はただの狩の道具だったのが、大昔のエルフの英雄が使っていた武器が弓で、それにあやかって祭事に使うようになり少しずつそれが種族全体に浸透していき、今ではエルフが好んで使う特別な物になったとも言っていた。
前世を含めていままで弓に触れたことは一度もないがエルフの使う弓なんてファンタジーっぽいものに若干テンションが上がりつつも、何時かは俺も集落の大人達のようにうまく扱えるようになれるのだろうか、などと考えながら朝食を終わらせた。
食事を終わらせた後、父さんはすぐ集落の皆で管理をしている畑の見回りに出かけた。
畑は魔獣や野生の動物が寄ってきて集落に被害を与えないようにある程度離れた場所に作られており、畑を守るために交代制で三人一組になり常に畑を見回るようにしている。
父さんは今日は朝から昼までの当番で昼に帰ってきた後昼食を家族で食べてから弓の扱い方を教えてくれる予定になっている。
「それじゃ、いってきまーす」
「怪我をしないようにねー」
「わかってるー」
扉代わりの綺麗な刺繍の施された布を押しのけて出かけようとしたところで、後ろからかけられた心配性な母親の声に俺はそう返しながら家から出た。
少し歩いたところで立ち止まり、太い枝と葉っぱの間に見える青空を仰ぎ見た。
「うん、今日もいい天気だ」
前世の地球ではまずお目にかかれないようなさまざまな植物や、30メートルを超える生命力にあふれた巨木が立ち並ぶ見渡す限りの広大で深い森。
その奥地には、巨木と一体化するような作りの木造の家屋に住み、自給自足の生活を営む人口200人程のエルフが住む集落、フィーティアが存在する。
その集落の中を、鳥のさえずりが響く木々の中、大きな枝の間から差し込む暖かな木漏れ日を全身に浴びながら俺は前世に比べると、何とも頼りなく見える細く小さな白い足でテクテクと歩き集落の中央にある一際大きな大樹を目指していた。
家々が一体化している巨大な木々の間を吊り橋の簡素な通路が複雑に繋いでいて、初めの頃はよく迷ったり通路のある高さに足が竦んだりもしたが、最近では馴れたもので目的地に向かって迷うことなく進むことができるようになってきた。
目的地に向かう途中、すれ違う集落の住人に挨拶をしたり時々一緒に遊ぶ同年代の子供と話したりしながら所々高さの違う場所に作られた足場に梯子やロープを使ってするすると移動してまた歩く。
普通の人間の子供には危険な場所だが、どうやらエルフは人とは種族が違うだけに筋繊維の出来なども違うようで、スレンダーで色白という儚げな見た目とは裏腹にその身体能力は驚くほどに高い、だからこそこんな高い場所にも子供と一緒に平気で住んでいられるのだろう。
そしてしばらく移動してから足場に備え付けられているロープを使って地面に降りた俺はようやく目的地にたどり着いた、集落の中心地、そこだけ他に木が生えておらず森の中にぽっかりと大きく開いた広場に聳え立つ、フィーリスという名の大樹だ。
他の木々も地球のものと比べるとありえない大きさを誇っているがこの木は更に大きくその高さは100メートル近くあるのではないだろうか、見上げるだけで首が痛くなるような高さだった。
「……んー、まだ来てないみたいだな」
どうやら待ち合わせをしていた二人より先に着いてしまったようだ。俺がポツリと思わず零した独り言の通り、周りを見渡しても目的の人影は無く俺とは違う年代の子供が遊んでいるだけだった。
ただボケッと突っ立っているのも何なので俺は大樹の根元に向かって、広場一面に生い茂っている足首ほどの高さの背の低い草を、サクサクと小気味良い音を立てながら歩き出した。
「よっほっと」
たどり着いた大樹の根元で軽く掛け声を上げながら巨大な根をよじ登り、ようやくその大きな幹に触れるほどに近づいた俺は幹に背中を預けてその場に座り込んだ。
「あーきもちいい……」
背中から伝わってくる大樹のひんやりとした何ともいえない冷たさがこの場所に来るまでに通った、まるでアスレチックのような道で軽く火照った身体に心地良くて思わず気の抜けた声を上げてしまった。そしてそのまま緩やかな風に頬を撫でられながら俺は目をゆっくりと瞑った。二人とも遅いなぁ、と考えながら。
「セリア、セーリーアー、おい、セリア! ……ダメだ、こいつ完全に寝てやがる」
大樹の根元、待ち合わせした人物を待っている間につい寝入ってしまったセリアの前には、呆れた顔をしている銀髪のエルフの少年が立っていた。
少年の名前はアラベル・エナ・ベル、親しい者にはアベルと呼ばれている元気な少年だ。
「イストもまだ来てないし、セリアは寝ている……暇だー。にしても、全然起きないな、こいつ」
アラベルは散々声をかけても起きないセリアの顔をじっと見ていたが、何かを考えるように一旦、目を瞑ったあと、その綺麗な碧眼をパッと見開き、ニヤニヤとあまりよろしくない類の笑みをその顔に浮かべた。
「起きないのなら仕方がない。そう、これは仕方がないんだ、起きないお前が悪い! と、言う訳で」
そう言うとアラベルは徐にセリアの前にしゃがみこむとその頬に両手を伸ばした。
「おお、こいつの頬すっげー伸びる! ひどい顔してるな、はははっ!」
アラベルは実に楽しげにセリアの両頬をがっしりと両手で掴むと左右に引っ張り始めた。
左右に伸ばされたセリアの顔は睡眠時の力の入っていない表情と相俟って乙女にあるま じき実に残念な顔を晒してしまっている。
しかしながらその行為に夢中になっていた少年は背後から迫る脅威にまったく気がついてはいなかった。
「あんたは、女の子の顔に、何をしているのかしら?」
アラベルがそんな言葉と共に自分の両耳に何かが触れるのを感じた時にはすでに遅かった。彼の両耳をむんずと掴んだ何者かはまさに今彼がセリアにしている行為と同じように左右に引っ張り始めたのだ。
「ぬぁー、痛い! その声はイストだなっ、耳を引っ張るなちぎれるぅー!」
「先にセリアを離しなさいっ!」
「それは出来んっ、精霊が俺にもっとやれと囁いているんだ!」
「そんなことを言う精霊なんているわけが無いでしょう! あんまりしつこいと千切るわよ!」
「ぎゃあ! やめろー!」
両耳から襲い来る痛みに涙目になりながらも若干おかしなテンションでセリアの頬をむにーっと引っ張り続けているアベル。
そしてそんなアベルの両耳をぎりぎりと引っ張ってやめさせようとしている少女の名前はイストニス・テア・イエル、周りからはイストと呼ばれている真面目で少しばかり頭の固い女の子である。
二人が喧しく騒ぐ目の前で頬を伸ばされながら魘されている少女がこの場所で待ち合わせていた幼馴染達だった。
「う、うーん……ふぁ?」
「あ」
いつの間にか寝てしまっていた様で、騒がしさと痛みを感じて俺が目を覚ますと目の前にいたエルフの少年、アベルと目が合った。
こちらを見てなにやら引きつった顔をするアベルと見詰め合ったままの奇妙な沈黙が痛かった。というか、物理的に痛い、頬が、すごく痛い!
アベルが俺の頬を掴み俺が起きたことにまだ気が付いていないイストがアベルの耳を掴んでいる光景を見て、とりあえず状況を認識した俺はこの状況を生み出したであろう元凶に向かって両腕を素早く伸ばした。
「……ふん!」
「ぬががっ!?」
「あ、おはよう、セリア」
「ん、おはよう、イスト」
俺が両手でアベルの両頬を左右に引っ張って仕返しをしていると、アベルの呻き声に気が付いたイストが起きた俺を見て、アベルの耳を今まで以上に力強く引っ張りながら挨拶をしてきた、俺はイストの与える痛みに気を取られたアベルの両手から逃れ、両手にこめる力を強めつつ挨拶を返した。
「ごめん、待っている間にいつの間にか寝ていた」
「気にしないで、私もさっき来た所だから」
「おまふぇら、ひひかへん、はなへぇー!」
にこやかに俺と会話をするイストと涙目で叫ぶアベル。二人は俺の幼馴染で、親同士が中の良い友人なのもあり赤ん坊の頃からよく母親三人が集まって一緒に俺達の面倒を見ていたのだ。
そんな訳で物心付いたときから一緒に遊んでいた二人とは仲がよくて、他の子供と遊んだりする時でも大抵三人揃っている。
三人で一緒にいると前世の幼馴染、まーちゃんとそー君を思い出して時々不安になることがある。今はこうして平穏な生活を送っているが、いつか、前世のときのように突然それが終わってしまうのではないか、という考えが頭に浮かんでしまうのだ。
恐らくこんなことを考えてしまうのは、前世での体験が少しトラウマの様になっているのだろう。
「セリア、どうかしたの? 眉間に皺が寄っているわよ」
「いや、何でアベルはやり返されるのが分かっているのに何時もこんなことをするのかなって考えてた」
「しかたがないわ、だってアベルだし」
「あぁ……そっか……」
「うぉい! アベルだしって何だよ! 俺が馬鹿みたいな言い方はやめろよな!」
どうやら考え事をしていたのが顔に出ていたらしく、イストが心配して声をかけてくれた。
純粋に心配してくれるのは嬉しかったものの正直に言う訳にも行かないので、言い訳のために咄嗟に考えた話題を出して誤魔化したのだが、イストが返してきた妙に説得力のある答えに俺は思わず納得してしまった。
そして、俺たちに文句を言いつつ、ようやく俺とイストの拘束から抜け出したアベルをなんとなく二人でじっと見つめた。
「……何で二人して可哀想なものを見る様な目で俺を見ているんだよ、おいやめろよ、何で無言なんだ、おい。……そんな目で見るな、心が……抉られる……!」
どさり、と胸を押さえて膝から崩れ落ちたアベルに俺は視線を向けたままこう思った。
ああ、今日も平和だな、と。
ロージュ暦629年、初夏。
集落は平和だった。
お久しぶりです。……本当にお久しぶりです。
自分の事ながら前回の投稿からまさか
こんなにも時間がかかるとは思っていませんでした。
なかなか書きたいことをうまく文章に出来ずに
毎日少しずつ書き続けてようやく二話目が完成いたしました。
文章量とクオリティを維持しなければならないプロの小説家をやっている方々は
本当に凄いのだなと改めて思いました。
こんな遅筆な作者ですが、良ければこれからも見守っていていただけると
とても嬉しいです。
小説に対してのご感想、ご指摘などを書いていただけると、とても助かります。
それでは、読んでいただき、ありがとうございました。