-03-
バタバタと階段を駆け降りてくる音に、アストは何事かと顔を向けた。
足音はアストの前を駆け抜ける。
そのまま出口へと向かうそれを、驚きながらも呼び止めた。
「どこ行くんだ!?」
足音の主──ノアはくるりと振り返ると、悪戯っ子のように笑った。
「内緒!」
「あ、おいっ、ノア!!」
店を出ていくノアを、今度は呼び止めることは出来なかった。
「なんなんだ…」
「全てを話してくれないことが寂しいか?」
いつの間にか隣にいたラティアの問いに、アストは視線を落とす。
「…寂しい、か…。そうだな…意外と寂しいもんだな…」
その声にも、瞳にも、いつもの明るさはない。
「なるほど、確かにノアの言う通りだな」
それを聞いてアストは首を傾げた。
「自覚なし、か…。お前に元気がないと、ノアが心配しているぞ」
「ノアが?」
「あぁ」
アストは困ったように笑い、やはり元気のない声で呟く。
「相変わらず、聡い奴だな…」
ノアは昔から心の機微というものに敏感で、アストは度々驚かされていた。アストが分かりやすい性格だということを差し引いても、だ。
「…ノアとはどういう関係なんだ?」
「お前と似たようなもんさ。全くの他人だ」
アストは懐かしそうに目を細めて続ける。
「一年…いや二年くらい前かな。大雨で誰も客の来ない日、外で物音がしてな…何の気無しに見てみたら、店の前にあいつが倒れてたんだ」
辺りに人影は一つもない。だから最初は迷子だと思った。けれど抱き上げてみて、アストは違和感を抱く。
気を失っている少年はやけに軽く、その上、着の身着のままにも見えたからだ。
まるで飲まず食わずで旅をしてきたような――。
訝しみはしたが、アストはとりあえず家へと運んだ。目が覚めてから聞けばいいか、と。
けれど、そう簡単にはいかなかった。
「次の日、目を覚ましたあいつは俺にこう言った」
──ここはどこ?
気がついたら見知らぬ家の中にいたのだから、そう聞くのも無理はない。アストは怯えさせないように、なるべく優しい口調で問いかけた。
──ここは俺の家だ。お前の家はどこだ? 送ってやるよ。
緑の瞳の少年は、まっすぐにアストを見つめる。
──…分からない…。
「分からない?」
「あぁ。あいつは自分の名前も、どこから来たのかも、どうしてウーリアにいるのかも、全部分からないと言った」
「…記憶喪失か…」
「その原因も、もちろん分からないがな」
行く当ても、帰る場所もない子供。
アストは結局、そのまま家に住まわせることにした。
「医者に預けてもよかったんだが…なんだか放っておけなくてな。まぁ、それがあいつにとって良かったのかは分からないが…」
「良かったさ」
カウンターに腰掛けたラティアは、アストの顔を見ないまま続ける。
「お前のおかげで、ノアには居場所がある。それは支えになるはずだ。…いつか記憶が戻って、ここを離れることになったとしても、お前と過ごした日々は消えずに残るだろう。大切な──思い出としてな」
ラティアの言葉から気遣いのようなものを感じて、アストは少し笑った。
「えらく優しいな。どういう風の吹き回しだ?」
「なに、私のせいでノアを不安にさせるのが心苦しいだけだ」
「お前のせい?」
聞き返すアストを、ラティアは一瞥する。
「惚けても無駄だよ。どうせ、私に何をしてやればいいのか悩んででもいるんだろう」
「そんなことは──」
「アスト」
言いかけた言葉を止められて、アストはラティアを見た。
光が透けて、白にも見える薄い金色の髪は、昔と何も変わっていない。けれどその背中は、自分より小さいとはいえ、ずいぶんと大きくなっていて。
少し──本当に少しだけ、寂しくも思えた。
(初めて会った時から、何年経つっけな…)
もうあの頃のように、自分は必要無いのかもしれないという思いが頭の隅に浮かぶ。
「必要だよ」
心の中を見透かされたような言葉に、アストは目を見開いた。
ラティアは そんなアストに笑みを向ける。
「お前以外に、私の防具を預けるつもりはないんでな」
それは遠回しな物言いだったが、確かにアストに届いた。
いや、本当に言葉通りの意味しかなかったのだとしても。
これからも、約束を守ろうと思ってくれているということだけでアストは満足だった。
どれほど願っても、あいつ以上にはなれない。
辛い思い出を、忘れさせてやることもできない。
それでも。
ほんの少しでも してやれることがあるのなら。
「…ありがとうな」
「礼なら、ノアに言うんだな」
そうするよ、とアストはいつものように笑った。
穏やかな静寂が二人を包む。
遠く聞こえる波の音と、表通りの喧噪。まどろむように流れる時の中、先に口を開いたのはラティアだった。
「ノアという名前は、お前がつけたのか?」
「あぁ。でも俺が考えたわけじゃない」
「どういうことだ?」
「あいつの持っていたペンダントに、文字みたいなものが掘ってあったんだが…あいつがそれを見て、『ノア』と言ったんだ」
──お前、これが読めるのか?
アストの持つペンダントが、ノアの前で揺れる。
ノアは静かに首を振った。
──ううん…何となく…そう思ったんだ。
『ノア』という言葉が、見たこともない文字の読み方なのか、それとも他の何かを指すのかは判らなかった。だが、目の前にいる記憶を失くした少年に関わりのある言葉のように思えて。
「あいつの記憶が戻るきっかけになるかもしれないと思ってな。名前にしたんだ」
「見たこともない文字か…不思議な子供だな…」
記憶を失っている悲愴感など微塵も感じさせず、明るく元気で、それでいて人の心に敏感で。
そして、何より。
「……ノアは何故私を恐れないんだ? 教えていないのか?」
金属のように冷たく、感情を宿さない不気味な銀色の瞳。
人と妖の混血──どちらにも属せない異端の証。
誰もが知り、恐れるその意味をアストが教えていないなら、ノアの態度には説明がつく。知らないモノを、恐れることなどできはしない。
だがアストは否定した。
「ちゃんと教えたさ」
「だったら何故…」
「それから、人を外見で判断するなとも教えた」
噂や、人の言葉に耳を傾けるのは構わない。けれど最後は、自分の目で、頭で、心で判断しろ。
アストは日頃から そう言ってきた。
「あいつは、お前を恐れる相手じゃないと判断したんだろう。俺や…あいつのようにな」
「……」
「嘘だと思うなら、聞いてみればいい」
「…そうだな」
そう言うと、ラティアはカウンターから離れた。そのまま二階へ行ってしまったので部屋に戻ったのかと思ったが、違ったようだ。
ラティアはすぐに下りてきた。
手に大剣を携えて。
「どうしたんだ?」
「ノアに理由を聞く為に、助けに行こうと思ってな」
「助け?」
扉の鈴が、チリンと鳴る。
「──妖だ」