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少年は走っていた。両手にある荷物を落とさないようにしっかりと抱え込みながら必死に。息は切れ、心臓は張り裂けそうなほど脈打っている。もう限界だと体が悲鳴を上げていることは百も承知していたが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。最早気力だけで走っている少年の頭には、たった一つの思いしかない。
もっと、速く――。
少年は駆け抜ける。慣れ親しんだ街の中を。
街の名はウーリア。大陸の南東に位置し、気候は温暖。そして海に面していることから船の行き来が多く、昔から交易の要所として栄えていた。
潮風が少年の頬を撫でる。
少し冷たいその風は、少年の火照った体を僅かに冷ましはしたが、滝のように流れる汗を引かせるまでには至らなかった。だがそれでも、走り続ける少年にとっては心地いいものに違いない――はずなのだが、少年は煩わしそうに顔をしかめた。
風で煽られる度に、汗で濡れた顔に髪がへばりついて鬱陶しいのだ。
少年がそれを払う手間すら惜しむほどに急いでいるには、もちろん理由がある。
約束の時間を告げる鐘。
それは、もうずいぶん前に鳴ってしまっていた。
大通りが近づくにつれて人の数が増え始めた。普段の少年なら無理に先に進もうとはせず、この賑やかな雰囲気を楽しみさえするのだが、今日ばかりはそうもいかない。だから行く手を遮る障害物――人々に大声で自分の存在を示す。
「すいませーん! 通して下さーい!!」
幸い人々はすんなりと道を開けてくれ、少年は難無く走り抜けることができた。
速度を緩めずに、大通りへと出る角を曲がる。
目の前に、壁があった。
「うわっ!!」
全身に走る衝撃。視界の中の景色が飛ぶ。
気がつくと、地面に転がっていた。
「いたたたた…」
起き上がり、ぶつかった壁に目をやる。それは。
「あ…」
それは壁ではなく、人間だった。
人間――少年より倍以上大きい男が、前のめりに倒れ込んでいた。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫ですか!?」
少年が慌てて声をかけると、男はゆっくりと立ち上がった。途端に男の近くで笑い声があがる。それは少年の前に立っている厳つい男の仲間から発せられたようだ。子どもにぶつかられた程度で倒れた男のことを笑っているらしかった。
当の本人はというと、殺気立った目で少年を睨んでいる。
その怒りが単にぶつかられたことによるものなのか、笑われたことによるものなのか、あるいはその両方なのか、少年に分かるはずもない。
「あの、ごめんなさ…じゃなくて…すみませんでした…」
男の怒りがそれで収まることを切に願いながら謝る。
「…てめぇ…覚悟はいいな…?」
「え…?」
覚悟とは、なんだ。
一体何を覚悟しろと言うのか。
少年が答える前に、男は少年に向けて太い腕を振り上げた。
結局、少年の覚悟など男にはどうでもいいのだ。その言葉で少年の恐怖を煽っているに過ぎない。
男の拳が自分に向かってきた瞬間、少年はとっさに目をつぶった。
だが目をつぶったのは少年だけではなかった。
男と少年を中心に、いつの間にか出来上がっていた人垣。それを形成し、ただ事の成り行きを遠巻きに見ていた人々の大半も、少年と同じように目をつぶり、さらに顔を背けた。理不尽な暴力の犠牲になる、哀れな少年の行く末を見るに耐えないとでもいうかのように。
けれど皆、心の奥底では解っている。
本当に見たくないモノは少年ではなく、少年を助けようともしない自分自身だということを。
突如、静かだった人々が、ざわりと揺れた。
「……?」
いつまで経っても襲ってこない痛みと、周りがざわめく理由が気になって、少年は恐る恐る目を開いた。
「!!」
吸い込まれそうなほどに美しい、深い緑の瞳に飛び込んできたのは、見知らぬ人物の後姿。マントを羽織り、フードを被っているので性別は判らない。けれど男の拳を止めている手が華奢で、少年は驚く。
「子どもにぶつかられたぐらいで手を上げるとは、ずいぶんと心の狭い男だな」
透き通った声だった。それでいて、どこか威厳のある――女の声。
男は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐさま顔を朱に染めた。
「てめぇ!!」
怒りのままに、再度拳を振り上げる。
「……」
無言のまま、女は消えた――と、少年は思った。男もそう思ったのだろう。驚きの声を上げる。
「なっ?!」
「ここだよ」
女の、声。
声の主は、男の真後ろにいた。
言葉を失う男。いや、男だけではない。その場にいた全員が言葉を失っていた。
「この…!」
男は慌ててそちらに体を向け、再び女に拳を振るう。だが何度やっても、女に掠ることすらできない。
「もう止めておけ。何度やっても無駄だ」
男に少しでも冷静さが残っていれば――消えた、と思うほどの動きをする相手に勝てるはずがないと理解できれば、この時拳を納めることが出来たかもしれない。
けれどそれは、男の中から消し飛んでいた。
不意だったとはいえ子どもにぶつかられたことで倒れ、仲間に笑われ、さらには女に軽くあしらわれている。男にあるのは羞恥からくる怒りだけだ。
と、男の目に何かが映った。
自分の足元に落ちている、一本の剣。
男は嫌な笑みを浮かべながらそれを拾い、躊躇うことなく鞘から引き抜いた。大振りな刀身がぎらりと輝く。
それを見て、少年は声を上げた。その剣は、先程まで自分が大切に抱えていた物だったからだ。ぶつかった拍子に落としてしまったに違いない。
男はじりじりと女との距離を詰める。少年が気づいた時、女は少年を庇うように立っていた。
「え…あ…」
女の背中越しに見える、男の歪んだ表情。
「てめぇが逃げればそのガキが死ぬ! これで…終わりだぁ!!」
渾身の力で振り下ろされる刃。
けれどそれは、女にも少年にも届きはしなかった。男の手にあったはずの剣は、女の手に――。
「!!!」
「やれやれ…こんな物まで振り回すとはな…。痛い目をみないと解らないようだ」
女がそう言ったのと同時に、男の右肩が外れた。
「ぐがっ」
続いて、左肩。
「ぐわあぁぁ!!」
両方の肩を外され、男は地面に膝をつく。それを見て、今まで傍観者だった男の仲間達が動き出した。
「おい、大丈夫か!?」
「てめぇ! 何しやがる!!」
威嚇を始めた男達だったが、女はそれを物ともせず、薄く笑いながら言う。
「骨を折られなかっただけよかったじゃないか」
「なんだと!? てめぇ、調子に乗ってんじゃ…」
いきり立つ男の首に、女は剣を突きつける。
「!」
「拳を剣に変えようとも、人数を増やそうとも、私には勝てないよ。…解るだろう?」
まったく迫力のない口調だった。むしろ軽いとも思えるほどだったのに、男は数歩、後ずさった。
「ま、まじかよ…こいつ…嘘だろ…」
驚愕と恐怖とが入り混じった顔で呟く男に、仲間達がどうしたんだ、と問いかける。
「おい! 誰かそいつを支えてやれ! 行くぞ!!」
返ってきたのは予想外の言葉。
当然仲間たちは戸惑ったが、男は有無を言わさず彼らを急き立て、そのまま人垣の向こうへと行ってしまった。
途端に人垣が崩れ始める。男達が去ったことで、人々の興味が尽きたのだろう。
だが、それでも幾人かは足を止めていた。その理由は一人で男達を退かせた女に興味が移ったに他ならない。
女は人々の驚嘆と好奇の目を一身に受けているというのに、全く意に介する様子もなく、落ちている鞘を拾った。
剣を納め、少年に投げ渡す。
「今度からは気をつけることだ」
「あ…ありがとう…ございます…」
圧倒されつつも少年は頭を下げたが、頭を上げると、女は既に雑踏の中に消えていた。礼は伝わらなかったかもしれない。
行き交う人々の中で少年は暫し呆然と立ち尽くす。そして、我に返った。
自分は何故、人とぶつかる程急いでいたのか。
「た、大変だ! 早く帰らなくちゃ!!」
少年は再び走り出した。