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04
二日後、ラティアは店の裏手にある浜辺にいた。
太陽がまだ真上に到達していない時刻。海を渡って来る僅かに冷たい風が、ラティアの長い髪を揺らす。
潮風を受けながら、ラティアは自分を呼び出した相手のことを考えていた。
(諦めの悪い奴だ…)
ラティアの前にその相手──ティグはいない。
何やら準備があるらしく、まだ来ていないのだ。
今浜辺にいるのは、ラティアと、少し待っていてくれというティグの伝言を伝えに来たハインツと、ノアと、アストの四人。
ラティアはアストに目をやった。
(…断ってもよかったはずなんだがな…)
そう。そもそも一昨日の時点で、手合わせの申し出など断ればよかったのだ。
そうすれば、今日ここにいることもなかっただろう。
だいたい一昨日のティグの様子からして、ティグが手合わせを言い出したのではないことは明らかだった。つまり、アストの一存ということだ。
(何を考えているんだか…)
そう思って、ラティアは少し笑った。
(違う、な)
そうだ。
違う。
アストが何を考えていようが、誰か言い出したことだろうが、そんなことはどうでもいい。問題は、何故断らなかったのかということだ。
(…考えるまでもないか)
ラティアはまた笑う。
その答えが、あまりに簡単だったから。
否、簡単というより。
始めから解っている。
アストには、恩があるからだ。だから何かを頼まれると断ることができない。といっても、ラティアが本当に嫌がるようなことは言い出したりしないから、ラティア自身、重荷とは思っていなかった。
ふ、と視線を感じ顔を向けると、アストの隣で目を輝かせているノアに気づく。
これも、今日の手合わせを断ることができなかった理由の一つだ。
たかだか手合わせ程度のことを、あんなにも楽しみにしている。あの期待に満ちた瞳を、曇らせるのは気が引けた。
(やれやれ…)
誰にも気づかれないように小さくため息をついた時、店の扉が開いた。
「悪い、待たせたな」
そう言って石段を下りてくるティグの姿を、ラティアは無表情に見つめる。
ティグは鎧を纏っていた。全身を覆うそれは、使い込まれているのか傷が多い。けれどその分、ティグの身体にしっくりと馴染んでいるように見える。
「本気、ということか?」
ラティアの問い掛けに、ティグは首を横に振った。
「一昨日だって本気だったさ。ただ、この方が少し無理がきくんだ」
言いながら、ティグは鎧同様 使い込まれているであろう大振りな剣を引き抜く。
「いくぜ」
言葉と同時に放たれる突き。
ラティアは眼前に迫る刃を、驚きもせず右に払った。
当然ティグの体は横に流れる。だがそれを予想していたかのようにティグは踏み止まり、ラティアの剣を躱す為に素早くしゃがみ込んだ。そして、間髪入れずに切り上げる。
僅かに。
後ろに身を引いたラティアの髪が切れた。
「!」
ラティアは引いた体を反転させ、ティグの後ろに回り込む。頭上で一撃。続く左右からの一撃。
少し鎧に当たりはしたが、ティグはその全てを受け止めた。
「!!」
一昨日との動きの違いに、ラティアは驚く。
「まるで別人だな。どういうわけだ?」
「あれだけ打ち込まれたんだ。攻撃の流れくらいはわかるようになる。昨日一日で、それを身体に叩き込んだ」
その返答に、ラティアは耳を疑った。
ティグは事もなげに言ったが、それは言うほど簡単なことではない。
攻撃の流れは、確かに覚えることができるだろう。人の行動には癖があり、それを完全に無くすことは意識しても難しいからだ。けれどそれをするには相応の時間がいる。いくら打ち込まれたとはいえ、一日手合わせしたくらいでできる類いのものではない。
なのにティグは完璧ではないにしろ、反応できている。
ラティアは素直に驚嘆した。
努力だけでは決して得ることのできないもの。
才能。
センス。
呼び方は様々だが、ティグにはそれがある。
だが──。
まだ、なのだろう。
まだ足りていない。
だから鎧が──足りていない部分を補う為のモノが必要なのだ。
「追いつけなかった動きに対応する為の鎧というわけか…だが、それでは身体に響くぞ」
ティグはラティアの剣を鎧で受けることも辞していない。例えそれが、危険を孕んだ行為だとしても。
鎧で受け止めれられた斬撃は打撃へと変換される。それは時として、斬られるより重傷に成りえた。
ティグも解っているはずだ。なのに何故そこまでるすのか。まったく理解できない。
そんなラティアにティグは言い切る。
「全部、剣で受けきってみせるさ」
「…ならいいがな…」
激しく繰り返される打ち合いを、ノアはぽかんと口を開けて見ていた。
「すごい…」
何とか口から出たのはその一言だけで。
それを聞いたハインツは豪快に笑った。
「あいつもやっと目が醒めたみたいだな」
「目が醒める?」
「仕事の時の顔になったってことだ」
「仕事って、傭兵の?」
「あぁ、そうだ。いつもは軽そうな奴かもしれないが、あいつは傭兵の間じゃ有名なんだぜ」
ノアは驚いてティグを見る。
別に弱そうだと思っていたわけではないが、そんなに強いとは思っていなかった。
今のティグは、確かに凛々しくかっこ良い。けれどどうしても普段の明るく軽快な印象が拭えないノアは、アストに問い掛けた。
「おじさん、おにーちゃんってそんなに強いの?」
「あぁ、強いぞ。そろそろ二つ名もつくかもな」
同年代のティグがおにーちゃんで、何故自分がおじさんなのか。
そう思いはしたが、アストは敢えて聞こえなかったことにした。
「二つ名って何?」
首を傾げたノアに、ハインツが答える。
「二つ名ってのはあだ名みたいなもんだ。俺達傭兵の中じゃ、二つ名を持つことが強さの証とされてる」
「じゃあ、おにーちゃんは一番強いの?!」
その言葉に、ハインツは大きく笑った。
おかしなことを言ったつもりはないのだが。
「残念だがそれは違うな。あいつは確かに強いが、他の二つ名を持つ奴らに比べたらまだまだひよっこだ」
ノアは呆然とした。
妖を一撃で倒すようなラティアと打ち合っているティグがひよっこなら、その二つ名を持つ傭兵とやらは一体どれ程の強さなのだろう。ラティアにだって、簡単に勝てるかもしれない。
だがその考えは、あっさりと否定された。
「あの女神様に簡単に勝てる奴なんていねーよ」
どうやらハインツは、ラティアのことを女神様と呼ぶことに決めたようだ。
「え、でも…」
「ティグが何とか打ち合えてるのは、女神様が本気を出しちゃいねーからだ」
(…やっぱりラティアは強いんだ…)
ハインツが言い切ったことが嬉しくて、ノアの頬が緩む。まるで自分が褒められたような気持ちになった。
そんなノアの横で、ぽつりと呟やかれる言葉。
「だが…『赤獅子』なら──」
少しだけ──本当に少しだけ、普段と違う声色を感じで、ノアは思わず声の主であるハインツをじっと見つめた。
ノアの視線にすぐに気づいたハインツは、どうした、とでも言いたげに破顔する。
そのいつもの笑顔に、先程感じた違和感はするりと消えて。
だからノアも、何事もなかったように問いかけた。
「『赤獅子』って?」
ハインツは何故だか意気揚々と語り出す。『赤獅子』と呼ばれた男のことを。
『赤獅子』──。
それは最強と謳われた傭兵の二つ名だ。たった一人で何百人もの兵士を切り伏せたとも、人間には到底敵わないような巨大な妖を倒したとも言われている。あまりに人間離れした強さに、妖の血が流れていると言う者すらいるほどだった。
知れ渡る二つ名に反して、顔も名前も知る者が少なく、そのことが男をまるで伝説のような存在にしていた。
「そんなに強い人いるんだ…」
呟いて、思う。
自分もそんな風になれるだろうか。
「ま、妖の血がどうとかは、強さにひがんだ奴が言い出したことだと思うがな」
「どうして『赤獅子』って呼ばれてるの?」
「さぁなー。赤い剣を使ってるだとか、赤髪だとか、返り血を浴びた姿だとか言われてるが…あんた知ってるか? 傭兵だったんだろ?」
突然問われたアストだったが、応えた声は平静だった。
「いや、知らないな」
それだけ言って、アストは二人に背を向ける。
「俺は店に戻る。客が来たら困るからな」
帰っていくアストの赤い髪が風に揺れた。
「ハインツさん! アストおじさんって傭兵だったの?!」
驚いた様子のノアに、ハインツは首を傾げる。
「なんだ、知らなかったのか? ティグが言ってたぜ?」
「全然知らなかった!! 強いのかな!?」
「どうだかな。それはティグにでも…あぁ、強いといやぁ『赤獅子』と同じくらい強い奴がもう一人いるぞ」
そいつも、女神様に勝てるかもな、とハインツはティグとラティアに目をやった。
「どんな人?」
「白銀の大剣を携えた男で、確か二つ名は…『白狼』――」
そこでハインツの言葉が止まった。
どうしたのかと、ノアもハインツを見上げていた顔を正面に向ける。
「あ!」
見えたのは切り払われた、主の手から離れた剣。そしてそれが、ゆっくりと弧を描き砂地に突き刺さる様。
ティグもラティアも目を見開いている。
戦う術を失ったのは――ラティアだった。
「ラティア…?」
ティグは何が起きたのか解っていないようだ。勝者とは思えない顔をラティアに向けている。
「どうした? お前の勝ちだ。もう少し嬉しそうにしたらどうだ」
飄々と言い、ティグの脇をすり抜けたラティアは深々と刺さっている剣を抜く。
その後姿を見つめながら気づいた。ラティアの様子がおかしいことに。
はっきりとは判らない。だがどこかが違う。
さっき、剣を払った瞬間、ラティアの意識はここになかった。だからこそ、剣を払うことができたのだ。
あの一瞬に何を視て、何を聴いたのか。
そして今、何を思うのか。
聞いても答えてはくれないのだろう。
「ラティア」
呼ばれて、ラティアは半身だけ振り返る。
「また手合わせしてくれないか?」
「しつこい奴だな。もう十分だろう?」
「今日や明日の話じゃない。俺はもうすぐ仕事でここを離れることになるし、お前も旅に出るんだろ?」
「……」
「次にお前に会うまでに、俺はもっと強くなってみせる。それこそ、お前が本気を出すぐらいに」
「大層な目標だな…」
冷たく言うラティアに、ティグは剣を向けた。
「この剣に誓う。必ず、強くなると」
空色の瞳に宿る、強い意志。
「…いいだろう」
ラティアはティグの剣に、手にある剣を交差させた。
「次に会うのはいつになるか分からないが、それまでに強くなってみせろ。その時は、私も大剣で相手をしてやるよ――ティグ」
そう言ったラティアの顔は、光を受けて煌く海を背にしているせいか少し影になっていはいたが、確かに笑っていて。
(この顔…)
ティグはやっと、本当に望むものを見ることができた。
感傷に浸りかけたティグだったが、太い声がそれを邪魔した。
「おぉ? 何だかいい雰囲気になってんじゃねーか?」
見るとハインツがにやつきながら近づいて来ていた。それ以上言わせないとでも思ったのか、ティグは咄嗟に店に向かって歩き出した。
「なんだよ、もう帰んのか?」
「お前もそろそろ出る準備した方がいいぞ」
「俺はお前に付き合ってやったんだろーがよ」
「頼んでない」
「伝言頼んだのはどこのどいつだ?!」
ラティアを置き去りにして言い合う二人。そんな二人にラティアは以前から気になっていたことを問いかけた。
「…お前達は、何故私を恐れないんだ?」
誰も彼もが銀色の瞳を恐れる。なのにどうしてティグ達は普通に接してくるのか。その理由を知りたかった。
「何故って…なぁ?」
ハインツはティグを見る。
ティグの答えは意外なものだった。
「お前を恐れる理由がないからだ」
「理由が、ない?」
そんなもの。
この瞳だけで十分ではないのか。
そう言おうとしたラティアを、ティグは強い口調で遮った。
「確かに銀眼は人と妖の混血の証だ。お前にも妖の血が流れてるんだろう。だからそれを怖がる奴らの気持ちも分からなくはない。でも俺は起こったことを信じる性質なんだ。お前は俺達を助けてくれた。俺には、それだけが真実だ」
「…傭兵とは思えない、甘い考えだな。それが、人に近づく為の偽りだったらどうするんだ?」
「人を襲う為にってことか? はは、ありえねー」
「どうして言い切れる?」
「勘みたいなもんだ。あとは、そうだな…アストがお前を認めてるからだ」
「アストが?」
「あいつの人を見る目は確かだからな」
「……」
「お前は人を襲ったりしない。賭けてもいいぜ?」
そう言い切り、ティグは笑う。
「ま、女神様くらいのべっぴんになら、俺は襲われてもいいけどな!」
「誰がおっさんなんか襲うかよ」
「お前とそんなに変わんねーよ!!」
また言い合いを始めた二人は騒ぎながら石段を上っていく。それを無言で見ていると、ノアが駆け寄って来た。
「ラティア!」
「何だ?」
「僕も、怖くないよ。だってラティアは強くて綺麗で…優しいから」
真っ直ぐな瞳。そこには何の偽りも無いように思えた。
と、アストのノアを呼ぶ声が聞こえた。
「はーい!」
返事をしながら駆けて行くその小さな姿を見送りながらラティアは呟く。
「…優しい…か…」
浜辺に一人残ったラティアの声は。
「私に、一番似合わない言葉だな…」
漣の中に紛れて消えた。