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ティグは友人であるアストの店へと向かいながら、数日前の出来事を思い出していた。妖に襲われたあの日のことを。
あの時。辺りを警戒しながらも、ティグ達は確実に前へと進んでいた。その中で感じる微かな違和感。
何かが、おかしい。
ティグは立ち止まり空を見上げる。木々の隙間から見える空は茜色を帯びていて、街道を逸れてからかなりの時間が経っていることを示していた。
「おい、どうした?」
先を急がなければならないこの時に、立ち止まって空を見ているティグを不審に思ったのだろう。ハインツが声をかけてきた。
「…おかしいと思わないか?」
「何がだよ」
「どうして追いかけてこない?」
「そりゃお前──」
囮が上手くいったからだろう、と言いかけて、止めた。そんなはずがないことはハインツも解っている。あんな付け焼き刃な囮に期待などできない。ティグが商人に言ったように、追いかけてくれたとしてもいずれ気づかれるものだ。それなのに、妖の襲撃は今だ皆無。
確かにおかしかった。
「…考えられる理由は幾つかあるな。俺達を追いかけることを諦めたか、他に獲物が現れたか、誰かが倒したか…それとも」
ハインツは街道へと顔を向け、自らの剣を握り締める。
「もっと大物が現れたか──だ」
同意するようにティグも頷く。
ハインツが言ったことは、そのどれもに可能性があった。だが一つ目と三つ目の可能性は低いだろう。あれほど狡猾に追いかけてきた妖が突然諦めるというのは納得し難いし、それを倒せる人間が運よく現れたとも考えにくい。一番可能性が高いのは二つ目だ。何せこの森には街道が抜けている。他の人間が通り掛かることは十二分に有り得るだろう。逃げた獲物よりも、目の前にいる獲物を襲ったのだとしたら、この状況も頷ける。
というよりも──。
そうであって欲しい、か。
「まぁ…四つ目でないことを願うばかりだな」
それを聞いて、ティグは小さく息を吐いた。
同じことを考えている。やはりハインツも四つ目の可能性を捨て切ってはいない──。
襲ってきた妖が逃げ出す程の大物が現れたのだとしたら。
この静まり返った森自体が、その妖の思惑の中であるかのような錯覚を覚えて背筋が凍った。黙って話を聞いていた商人にいたっては、すでに血の気がなく今にも倒れてしまいそうだ。
と、何かが聞こえた。
「今…何か聞こえなかったか?」
「…声、だな…」
ティグとハインツは顔を見合わせると剣を構えた。聞こえたそれは確かに人のものだったが油断してはいけない。人に化ける妖もいるのだ。
声は人の歩みとは思えない速度でどんどん近づいてくる。
やはり、妖。
その姿が見えた瞬間に斬りかかろうと体勢を変えたハインツは、隣に並ぶティグを見て思わず叫んだ。
「おいっ! 何してるんだ?!」
ティグは剣を──下ろしていた。
「ティグ!!」
再度呼びかける。だがティグの意識はハインツには向かず、妖が来るであろう方向に集中していた。
「この声…」
徐々に鮮明になってくる声は、間違いなく。
「ティグ!! 無事か!?」
馬上から降り懸かる焦りを含んだ声。見上げた先には風に乱れた赤い髪と、こちらを真っ直ぐに見つめる黒い瞳。それから特徴とも言える右目の眼帯。
「アスト…」
現れたのは友人であるアストと、ノアという名の少年だった。
「よかった、間に合ったみたいだな」
「間に合ったって…お前どうしてここに…」
まだ事態が飲み込めないティグ達に、馬を降りたアストは笑う。
「助けに来たに決まってるだろ」
それを聞いてハインツが話に割って入った。
「助けにって、妖はどうしたんだ?」
「それなら、もう終わってるはずだ」
「終わってる? 倒したってことか?」
ハインツは返事を待ったが、アストは答えないままノアを馬から降ろした。代わりに疲れきっている商人を乗せて綱を引く。
「とりあえず街道に戻ろう。そうすれば全部分かる」
納得出来ないながらもアストに促され道を戻る。ティグ達の目が街道を映した頃、空は朱とも金ともとれぬ色に染まっていた。
最初に見えたのは半壊した馬車と二頭の馬だった。妖に殺られたと思っていたが無事だったようだ。
そして気づく。その傍らに立つ人影に。
目を引いたのは背にある大剣と長い髪。
突然、人影に向かってノアが駆け出した。
「ラティア!」
ノアが口にした名前に、傭兵二人が反応する。
「ラティア…?」
「女神の名を持つ女剣士が妖を倒したってのか? しかも一人で? 冗談だろ?」
ふざけた調子で言うハインツだったが、どんな奴なのか好奇心がない訳ではない。それはティグも同様で、二人は足を速めた。その気配に引かれてか、剣士が振り返る。
さらり、と髪が揺れ──。
二人──いや、商人を含めた三人は目を見開いた。
全てが黄昏れ色に染まる中、凜と佇む女の。
その、銀色の瞳。
生まれて初めて見るそれを、ティグは食い入るように見つめた。
造られたように整った顔と無機質な銀の瞳はまるで人形のようで、ティグは言葉に出来ない感覚に囚われる。どこか超然としたものを感じさせるのは、やはり人ではないからなのか。
不吉な存在だと聞いてきた。
呪われた者だと。
忌むべき者だと。
在ってはならない者だと。
だがティグはそんな風には思わなかった。
寧ろ──。
呆然とする三人を余所に、女神のごとき女はアストへ声をかけた。
「生きていたか」
「あぁ。お前のおかげだ」
「妖の気配に気づいた時、偶然ノアが隣にいた。…お前の友人とやらの運が良かっただけだよ」
そんな会話を聞きながら視線を横にずらすと、頭や腕を切断された妖が見えた。それは到底小物とは言えない程の大きさで、ティグは自分の予想が当たっていたことを悟る。
「ラティア、先に帰るの?」
ノアの声につられて、視線を女に戻す。
人形が。
笑った。
「少し気になることがあってな。もうこの辺りに妖はいないから、安心して帰るといい」
不意に宿った人の表情。
その顔が、何故だか忘れられなくて。
あの日から毎日、ティグはアストの店に出向いている。だが、まだ一度も会えてはおらず、出来たことといえは扉越しに礼を伝えたことぐらい。自分に対するラティアの態度が、ノアやアストのそれと違いすぎて無性に悔しかった。
だから、今日こそは。
気合いを入れて店へと向かう。
その様子を偶然見かけたハインツが、苦笑いしていたことをティグは知らない。