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神曲(12)  作者: 名倉マミ
1/1

第十二章(全十二章)

なぜ 巡り逢うのかを わたしたちは 何も知らない

いつ 巡り逢うのかを わたしたちは いつも知らない

:中島みゆき『糸』

《二〇二一年 東京》


 崙山大学文学部文学科西洋文学専攻、いや、今は組織改編され、文学部欧米言語文化学科と改められたそうだが、そこの准教授で京都大学文学博士号を持っている溝黒正(みぞくろまさし)の本が話題らしい。タイトルは「Dunkle(ドゥンケル) Tour(トゥーア)」、ドイツ語で「Dark(ダーク) Tour(ツアー)」という意味だ。「暗黒の旅」である。

 中学高校の時から興味を持ち、柴崎先生の下で積み重ねてきたナチスドイツ研究の集大成として上梓したのだろう。アドルフ・ヒトラーの生誕地ブラウナウ・アム・インから、青春時代を過ごしたリンツ、ウィーンを巡り、政治家としてのキャリアをスタートさせたミュンヘン、栄華を極めやがて破滅を迎えたベルリン、そしてアウシュヴィッツを目指す風変わりな紀行文になっているらしい。

 わたしと似たようなことを考えてるのね。でも何といっても大学准教授だから、読者に恵まれていて、印税まで入ってきて羨ましい。ドイツ語ができないし英語も得意じゃないという所に目を瞑っても、わたしが同じような本を書いたって見向きもされないだろう。

 わたしもその本を読みたいところだが、作者が溝黒って所がな。溝黒の本でなければ読むんだけど。

 アドルフ・ヒトラー。わたしはあいつに逆らって、あいつを殺そうとして、恐らく妻子を遺して処刑されたんだから拘りがあるのは当たり前だよね。今も溝黒に拘って検索せずにはいられないようにさ。

 シャルギエル´が、少佐がどんな死に方をしたか、わたしは何となくわかっていた。「静寂の海」は七月二十日事件、ワルキューレ作戦に着想を得て書いたものだし、小説はシャルギエルが後ろ向きの銃殺刑で死を遂げる結末だったから。

 それでも、どうしても少佐のことをもっと知りたくて、誰かに観てもらうんじゃなくて自分自身が少佐の心と一つになりたくて、わたしは遥々岐阜の龍堂寺功の自宅兼オフィスを訪れたのだ。

 「実際ね、ポジティブにせよネガティブにせよ、拘りがあるとも限らないんですよ」

 セッションが終わって色々と話してくれた時に、龍堂寺が言っていた。

 「例えば、若菜さんはネパールには全く関心がなかったし、それ故ネパール語を学んだこともなかった。前世の興味や関心、関連がそのまま受け継がれる場合もあれば、全く受け継がれない場合もあります」

 「確かにわたしも、前世ドイツ人やったのにビール全然飲めへん。他のお酒は何でも飲めるのに、ビールだけはどこが美味しいのかわからへん」

 わたしが顔を顰めると、龍堂寺は鷹揚に笑った。

 「また、同じ家系など立て続けに近場に生まれるパターンもあれば、若菜さんやあなたのように、遠い外国から突然日本に生まれてくるようなパターンもある。若菜さんはラタダジュールの前の過去生も日本だったけれどね。不思議なのは、前世で出会ったことのある人たちがまた今世でも出会うことが多いということなんですよ。私も何度か、『先生、お懐かしゅうございます。古代エジプトで先生が神官だった時に教えを受けた何々です』とかそんなのを経験しましたし、親子や夫婦でセッションに来られる方なんかだとやっぱり前世でも出会ってたりするんですね。関係性は色々ながらね。どうしてそうなるのかはわからない」

 「一つ言えることは、生まれ変わりって全くランダムに起こっているんじゃなくて、何か法則性があるってことなんじゃないでしょうか」

 わたしは一つの仮説を立ててみた。

 「その通りだと思うね。それを人は『カルマ』と呼んでいるのかもしれないが、『良いことをした人には良い報いが、悪いことをした人には悪い報いがある』なんて単純なものではないだろうね」

 「何にせよ、わたしたちは無意味に生まれ変わっているんじゃなくて、何か意味があって生まれ変わっているような気がします。それはどういうことかというと、わたしたちは無意味に生きてるんじゃないし、無意味に死ぬんでもないってことです」

 と言うと、龍堂寺は我が意を得たりというように大きく頷いた。

 「龍堂寺先生の研究はそういう意味で、人類にとってとても価値のあるものだと思います」

 わたしは感謝も込めて、心からそう言った。

 それから数ヶ月後、今年になってからのこと。藤枝彩から数年ぶりにメールがあった。溝黒正のその後をわたしに教えてくれた人だ。

 「溝黒さんが最近続々と単著を出していて、中でも『ドゥンケルトゥーア』が話題になっていて、ミクさんはきっとおもしろくないだろうと思います。ミクさんは溝黒さんの本なんて手に取るのも嫌だし、溝黒さんの名前や写真を見るのも嫌だろうと思います。わたしは『ドゥンケルトゥーア』含め何冊か読みましたが、あまり感銘は受けませんでした。昔から、溝黒さんの書くものは日本語のものもドイツ語のものも、そんなに好きではありません」

 わたしを慰めるためか、そんなことが書いてあった。わたしは彩にヒトラーとナチスドイツへの興味のことや「静寂の海」のこと、前世の探求のことは話していなかった。誰にでも話せるような内容ではなかったし、彩がそうとは言わないが、「ナチスドイツの将校だったの?前世でユダヤ人を殺したから、業が深いから不幸な目に遭うんだ」とかとんでもないことを言って茶化してくる人もいたから。

 ドイツ語のものは知らないが、溝黒の書いた日本語の文章ならわたしも全く好きではなかった。知識量の豊富さには驚くけれど、「私は出会う人間の九割を軽蔑している」とか、「他人のコンプレックスを見つけると嬉しくなる」とか、「弱い者たちが群れて傷を舐めあうなんてナンセンスだ」といった論調には全く共感しなかったし、新約聖書のマタイ福音書十章三十四から三十六節を引用した意味不明の散文詩のようなものには恐怖すら感じた。

 「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる」

 不気味さを別にすれば、当時はイエス・キリストがそんなことを言っているのが不思議、溝黒が聖書をよく知っているのも不思議なだけだったが、後には、人と人とを仲違いさせる剣のような存在は自分でしょ、と腹立たしく思うようになった。

 それからまた数ヶ月ぶりに、藤枝彩からこんなメールが来た。

 「溝黒さんはドゥンケルトゥーアを終えてあの本を上梓してから、どうも心身が不調みたいで、大学を休職しているみたいです。よかったら崙山大学のサイトを見てみて下さい。溝黒さんの名前がなくて、代理の非常勤講師が雇われていますから。実際には同僚や学生とのトラブルのせいだという噂もあります。あの人はあの性格ですから」

 見てみたら、確かにそうみたいだった。

 このまま帰ってこなければいいのに、と思った。

 でも結局、柴崎教授とかいう人が庇うんだろうな、とも思った。



《一九四五年 四月 ベルリン》


 月末、すみれ色の目をした娘は暗澹たる思いを抱えながら、ローゼンシュテルン家に向かって街路を急いでいた。

 去年七月、一家の主人が行方を晦ませて俄に女主人となったエルスベットは、今月初め、メイドのゴットフリーデ・オズヴァルトに暇を取らせた。

 「わたしたち三人は何とかやっていきます。助けてくれる人もいます。恐らくもうすぐソ連軍が攻めこんできて、今月か来月辺りには戦争は終わるでしょう。危ないからご両親と家に閉じ籠っていなさい。できるだけ外に出ないようにするのよ。戦争が終わったらまたうちに上がって、主人の好きだったオレンジのガーベラを飾ってちょうだい。ピアノも弾いてちょうだい」

 そう言って、彼女はゴットフリーデを抱きしめ、家から送り出した。

 「うちの主人も、あなたのお兄さんも生きて帰ってこれるといいわね」

 泣き笑いのような表情でそう言った。ゴットフリーデの兄が戦死したという報せはまだ届いていなかったので、希望的観測を含めても恐らく生きてはいるだろうが、オスカー・ミヒャエルの場合は当局からも、無論本人からも何の消息もないことが何を意味しているのかすら不明だった。

 旦那様、ご無事でいらっしゃいますように。ゴットフリーデは祈りながら、急造バリケードの街を歩いた。あんなに来てはいけないと言われたのに、どうしてもエルスベットに、パウラに、クリスティアンに会いたくて、元気な顔を見たくて仕方なかった。

 突然、近くの地面で砲弾が炸裂した。それが間近に迫った赤軍戦車から放たれたものだと気づく間もなく、破片がゴットフリーデの胸を貫通した。彼女は路上に倒れて絶命した。



《二〇二二年 京都》


 そういえばあれも七月だった。参議院選挙戦のさなか、万感の思いを込めた弾丸があの男の胸を貫いた。

 わたしは京都の実家に帰り、TVで安倍晋三射殺事件のニュースを観ていた。

 実家といっても、もう曾祖父母の代から暮らした十朱の家ではない。あの家は取り壊して、アパレルを定年退職した母・真雪は叔母の千歳夫婦が新築した家に同居していた。この頃には叔母も定年退職していて、六歳年下の夫はまだ勤続中だった。娘のいくみも立派に成人し、美大を出てWEB漫画雑誌の編集の仕事をしていた。

 菜摘伯母の娘の恵美と須美はとうに結婚し、遠方に住んでいた。夫に先立たれ、子供もいなかった祖母ユキヱの妹・すづ栄の面倒を姪に当たる菜摘・真雪・千歳の三姉妹で見ていたが、この年の四月にすづ栄も亡くなった。九十一歳、亡夫と共に児童福祉・障害児福祉に捧げた人生だった。遺影はピンク色の額に収められ、曾祖母の栄子そっくりに、うちの仏間で微笑んでいる。猫好きの大叔母が飼っていた二匹のかわいい兄弟を今でもうちで飼っている。

 安倍を撃った男の動機を解明していく中で、TVで「統一教会」という言葉を聞かない日はなくなった。

 「宗教二世」という言葉もちらほら耳にするようになった。でも、わたしはこの言葉はおかしいと思う。大抵の人には生まれ育った家の宗派というものがあり、何かの宗教の〇世であるはずだ。親が新興カルト宗教にのめりこみ、虐待を受けたとか経済的に破綻したとかいう経験の持ち主は「カルト二世」と呼ぶべきで、一部ではきちんとその呼称も使われている。「宗教二世」という呼び方は伝統宗教も新興カルト宗教も同じにして、宗教自体が悪いものであるかのような印象を与えてしまう。

 しかし、何を以て「カルト」と呼ぶかは難しい。もしかして、最初から「カルト組織」というものがあるのではなくて、「カルト」とは個人と組織、個人とコミュニティとの不健全な関わりのことをいうのではないだろうか。

 わたしはベッドにゴロゴロしながら考える。この家にはわたしの部屋もある。

 昨年二〇二一年、オレンジユニオンは四十代の女性委員長と二十代の男性書記長との間で根本的な意見の対立が生じ、分派抗争となった。わたしはどちらにも与したくなく、また、ついこの間まで共に使用者と闘った仲間たちが事務所や法廷、ツイッターや5ちゃんねるで日夜罵りあうのを見るに堪えず、今年四月、井内にも誰にも挨拶せずに辞表を郵送した。五月、ツイッターやブログのアカウントを、自分が作ったものは全て削除し、亜紗子や金田やルーテル新宿教会に強く心を残しながらも、文京区のマンションを引き払った。何よりもわたしを打ちのめしたのは、組織の分裂に到るまで、メンタルケアサポーター、オルガナイザー(調整役)として何の役割も果たせなかったことだった。

 もう東京はしばらくいいので、いずれ大阪辺りで一人住まいを再開する計画を母にも叔母にも話してあるが、今はとりあえずこうして実家にご厄介になっている。

 家にいても気が滅入るのでコンビニでも行こうと廊下を歩いていると、リビングから叔母の声がした。

 「ミクに見せたらあかん!また具合悪なる!」

 「ちぃちゃん、何言うてるん?」

 わたしはドアを開けて顔を覗かせた。母と叔母が急いでTVのチャンネルを変えたところだった。

 二人は顔を見合わせたが、わたしの表情を見てごまかしきれないと思ったのか、母が先に言った。

 「今、TVに溝黒正が出とった。統一教会の、宗教二世の問題で」

 母がその名を発音するのは結構久方ぶりだった気がする。

 「崙山大学准教授やって・・・・ミク、知ってたん?」

 叔母が尋ねた。母と亡くなった祖母は溝黒が崙山大学の教員になったことは知っていたが、叔母は知らないはずだった。それよりもわたしは叔母が溝黒の名前を覚えていたことに驚き、わたしを気遣ってくれたことが少し嬉しかった。

 「ぶっさいくな子やな。並みの不細工通り越して、気持ち悪いくらいやわ。一回見たことあるけど、あんな不細工やっけ?あんな不細工な奴にミクがいじめられたなんて、腹立つわ」

 母が憎々しげに罵った。大学一回生の時、溝黒は竜平の紹介で京都市のデパートの石鹸売り場で包装・運搬のアルバイトをしており、ちょうどそのデパートに勤めていた母が遭遇したことがあったのだ。わたしから話を聞いて知っていて、名札を見て声をかけた母はその時、「娘にいい友だちができた」と思ってニコニコ笑顔で挨拶し、勤務態度を褒めた。その時の溝黒はその年頃の青年らしくとてもシャイで、「見た目はあんまりよくないけどいい子そうだ」という印象を持ったという。

 わたしはリモコンを取った。

 「どこのチャンネル?観るわ」

 母と叔母は再び顔を見合わせた。

 「知ってる。親がなんかの宗教信じてて、子供の時、虐待されたんやろ?その話してるんやろ?」

 冷静に言いながら、ちょっと緊張しつつチャンネルを回した。ちょうど溝黒が発言しており、彼の顔がアップになっていた。年齢のせいか、昔よりちょっと太っていた。コンタクトかレーシックにしたのか、あのトレードマークの眼鏡は掛けていなかった。そのせいでちょっと目がぱっちりして見え、天然パーマとも相俟って、母が奄美大島出身という本人の話を思い出させた。言われてみれば確かに南方系の容貌だ。

 画面越しではあるが、動いて、話しているところを見るのは実に二十三年ぶりだ。相変わらず標準語を喋っているが、学識経験者として公共の電波で話すのだから寧ろその方が自然だろう。

 「幼稚園や小学校低学年の頃、何かちょっとした失敗や反抗をする度に、風呂場に連れて行かれ、ホースでお尻を何十回も叩かれました。気絶するくらい叩かれました。母が信じていたキリスト教系の新興宗教は『子供は鞭で躾けないといけない』という教えだったからです。ぼくも入信させられ、よく一緒に会館に連れて行かれました。子供を叩けば叩くほど、教団の中では褒められ、評判がよくなったようです。会館でも、よく同じ年頃の子供が粗相をしては『教育室』という別室に連れて行かれ、泣き声が聞こえていましたし、ぼくも連れて行かれたことがあります。母は遠方の出身で、地域に友だちもいなく、また夫――ぼくの父ですが――とも関係がうまくいっていなくて、それでどんどんその宗教にのめりこんでいったんだと思います。

 でも、ぼくは傷つきました。小学校何年の時だったか、母の日にカーネーションを贈ろうとお小遣いをはたいて買って帰ったことがあります。母が喜んでくれると思ったのですが、母はその花を見るなり逆上して、『正、おまえは悪魔に魂を売ったのか!』と叫んで、ぼくに掴みかかってきました。母が信じていた宗教では、クリスマスなども含めて、そういったお祝いごと、行事はみんな罪深いものとされていたからです。ぼくも弟も妹も誕生日を祝ってもらったこともありませんし、他の子たちと同じように楽しいイベントやパーティ、神社のお祭りに参加できないのも、また、『人と勝ち負けを争うことは罪深い』と言われ、体育の授業に参加できないのも本当に悲しかったです。通知表はほとんど5だったのに、体育だけ1でした。

 でも、いくらいい成績を取っても、その宗教では『神の僕である人間には知識や学問など無用だ、寧ろ救いの妨げになる、悪魔の罠である』という教えなので、母には褒めてもらったことはありませんでした。ぼくは、頑張って勉強して、沢山の本を読んで、がむしゃらにいろんなことを知ろうとしました。母の信じていた宗教への反発と、母のようになりたくなかったからです。大学一年の時に家を出て、やっと救われました。無知ほど恐ろしいものはないとぼくは思っています」

 統一教会、カルト二世の話題はそれで終わり、溝黒の出番はそこまでだった。

 いつも鳥か何かのように喋っている母も、叔母も、珍しく黙っていた。

 「コンビニ行ってくる」

 わたしはわざと明るく言って、TVを点けたまま居間を出た。



《一九四五年 五月 ベルリン》


 「ステラン・ゾーファーブルク親衛隊中佐?下車願います」

 ベルリン市街から出て行く道路を封鎖した検問のソ連兵が覗きこむ。

 単身、車を運転していた男は拒みかけたが、思い直してドアを開け、地面に降り、向き直った。銃を構えた兵士らが彼を取り囲んだ。

 「あっ、いかん!」

 誰かが叫んだが、男は奥歯に仕込んでいたシアン化物を噛み砕いた後だった。

 焦土と化したベルリン、負け戦の都は、いつぞや誰ぞやにバルドルと激賞された美男子に似合いの死に場所だったかもしれない。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一三一〇年》


 「それで、燐火党はどうなったの?」

 少女が尋ねる。髪を愛らしく結ったピンクのリボンが春風に揺れる。

 「無謀な戦争で滅びたのさ。ザイサーもイルシェナーも自殺した。ザイサーは飼い犬に毒を飲ませて自分はピストルで、イルシェナーは自ら毒を呷ってな。たった九ヶ月後のことだ」

 老人が答える。のどかな小鳥の囀りが聞こえる。

 「おじいちゃん、お花摘みに行ってくるね。シャルギエル様、ユーノ様のお墓にお捧げするの。うちのご先祖のルナ様にも」

 少女が立ち上がる。老人は目を細めて手を振る。

 「ああ、行っといで」

 少女が歌いながらスキップして行く。老人は微笑みながら見送る。

 うららかな日差しは百年前も今も変わらず、暖かく彼らを照らす。


                            「静寂の海」完



《二〇二四年 大阪》


 子供の頃、母の日にカーネーションを贈ったら悪魔呼ばわりされて暴力を振るわれたなんて、わたしは全然知らなかった。

 なぜ、それをわたしに話してくれなかったんだろう。藤枝彩や恐らく今田亜紀子には話しても、わたしには話したくなかったんだろう。話してくれたところで、当時のわたしに溝黒の思いや経験を受けとめきれるだけの器量があったとも思えない。

 でも、それでも「もしも話してくれてたらどうだっただろうな」と思わずにはいられない。

 わたしはその頃、溝黒の故郷・大阪市住之江区に近い西成区で一人住まいして、近所の精神科デイケアで相談援助の仕事をしていた。事務局には精神保健福祉関連の講演会などイベントのチラシが置かれているのだが、その中に見覚えのある名前を見つけた。

 「宗教二世 ピアサポーターの集い ファシリテーター:崙山大学准教授 溝黒正」

 わたしは溝黒が一年数ヶ月の休職の間、自分の人生を見つめ直し、カルト二世としての被虐待体験を言葉にして語り出す努力を始めたことを知った。カルト二世に関する記事を書き、同じ経験をした当事者どうしが思いを分かちあうピアサポートグループを立ち上げた。そうしている内に、うまい具合にと言ったら変だけど、安倍晋三射殺事件が起こり、統一教会やカルト二世問題が話題になったことで溝黒の記事や活動は一挙に注目を集めた。復職と同時にこれまでの記事や活動をまとめたカルト二世の本を出してまた売れているようだ。悪い噂も消えてなくなるだろう。

 その本で金儲けをしようとしているとはわたしは思わない。彼はこの年齢になって、これだけの社会的地位を得てやっと、自分の受けた被害を客観視して、自分が組織したピアサポートの力を借りて乗り越えようとしているんだ。

 小説や詩やエッセイにして、文芸サークルの機関誌「下鴨文学」に載せて、みんなに読んでもらう、なんて、あの頃はとてもできなかったんだ。それとも、もしかしてあのマタイ福音書を引用した詩がそうだったのだろうか。

 つくづく、悪運の強い奴だとも思う。正直、溝黒がカルト二世をネタに注目を浴びてると聞いてもわたしは全く嬉しくはなく、寧ろ「今更被害者面されても」という気持ちが強かった。溝黒が子供の時に母親が変な宗教にのめりこんで、撲たれたり、色々怖い思いや悲しい思いをさせられたりしたからって、なんでわたしがその八つ当たりをされないといけなかったんだろうか。「天網恢恢疎にして漏らさず」っていうのは嘘なのか。なんで溝黒には罰が当たらないんだろうか。

 八つ当たりするくらいなら、「俺はこんな辛い思いをしたんだ」って打ち明けてくれればよかったのに。大きな声で泣けばよかったのに。本当にそう思う。

 ふと、藤枝彩が昔送ってくれたシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い出した。

 「苦しむ者は聞かれない。聞くのは、同じ苦しみを経験した者だけだ」

 もしかしたら、溝黒も「同じ苦しみを経験した者」に「聞かれ」る必要があるのかもしれないと思った。それは同時に、わたしにとっての藤枝彩がそうであったように、溝黒自身が「同じ苦しみを経験した者」として、「苦しむ者」を「聞く」者でもあるということだ。

 わたしのクライエントにも時々、凄絶なカルト虐待の経験を語る人があるが、自分自身が被害当事者ではなく、想像を絶する世界であるが故に、どんな言葉をかければいいのか途方に暮れることがあった。クライエントの中にはわたしに失望して去って行った人、「宗教二世でないあなたにはわからない」と書いた手紙を寄越した人もいた。

 わたしは初めて、溝黒正の本をアマゾンで買った。最新刊「宗教二世のピアサポート」だ。

 素晴らしい内容だった。もう一冊買って、職場にも寄贈した。

 ある日、わたしは一本の電話をかけた。

 「はい。崙山大学です」

 「溝黒正准教授の研究室に繋いで下さい」

 コール一回で、あのちょっと不愛想な銅鑼声が応じた。

 「もしもし」

 「溝黒くん?」

 「先生」と呼ばれ慣れているはずの男に、わたしは敢て「くん」付けで呼びかけた。あの頃のように。

 「わたしの声、覚えてる?」

 とわたしは尋ねた。

 息を呑むようにして、彼は答えた。

 「十朱ミクさん、か」

 初めて会った時、「新入生名簿を見た時、『片仮名の名前の奴がいる』と西文の仲間と騒いだけど、君だったのか」と言ったことも覚えているのだろうか。

 わたしは深呼吸した。

 「溝黒くんの宗教二世の――カルト二世のTVやら、本、見たよ」

 そこで言葉を切った。その時の溝黒の沈黙の長さをわたしは一生忘れることができないだろう。三十秒、いや一分近く黙っていたんじゃないか。電話を切りもしないで。

 「ご用件は?」

 硬い声で、彼は言った。

 もう一度深呼吸して、わたしは言った。

 「よかった。すごいよかった。涙が出た。カルト二世のピア活動、頑張って。応援してる」

 溝黒もまた、一呼吸置いた。電話の向こうの空気がぐっと和らぐのを感じた。

 「ありがとう。頑張るわ」

 と彼は関西弁で言った。

 わたしは電話を切った。

 その日ぐらいを境に、左の鎖骨のやや下に生まれつきある小さな丸い赤痣がなぜかどんどん薄くなり始め、ものの一ヶ月ほどで跡形もなく消えてしまった。不思議なこともあるものだ。

 べつに溝黒の「ドゥンケルトゥーア」の真似をしているわけではないが、近い将来ドイツに、中でもベルリンに一人旅してみたいと、より強く、思うようにもなった。



《二〇二五年 ベルリン》


 雪の天使(シャルギエル)が降ってきそうな夏空だ。

 夏なのに雪というのも乙なものだと思いながら、橋の欄干に寄りかかって辺りを見回す。ものすごく年取った老女が車椅子に乗って、ひ孫か、もしかしたらやしゃごかもしれない幼女と、介助者らしい壮年の女性と一緒に木陰で一休みしている。

 どこからか、聞き覚えのあるメロディが流れてくる。

 わたしは左手の甲で鼻を擦り上げた。老女と目が合った。彼女のやさしそうな空色の目に、何か懐かしいものを感じて微笑んだ。彼女も微笑みを返してくれた。



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