はじまりは、いつも雨02
店の中に入ると、ふわり、と油の香りがした。
鼻に残るような重く強い匂いではない。
軽くて優しい香りだ。
店は小さく、作りはシンプル。
L字型のカウンターの内側には、畳三枚程度の調理スペースがある。
カウンターに並んだ椅子は全部で7席。
入り口を入ってすぐ、横並びに5席。
左手奥のコーナー部分に2席。
そこには先客の2人が座っており、こちらを見ている。
「いらっしゃいませ」
調理スペースでグラスを洗っている若い男性が、人好きのする笑顔で声をかけてきた。
歳は20代中頃だろうか。
こちらが声を出さずに会釈すると「お好きな席にどうぞ」と、手のひらでカウンターを指し示した。
右端の席に座れば、店員の目の前に座ることになる。
左端に座れば、先客のすぐ隣に座ることになる。
一瞬だけ迷った結果、5席並んだカウンターの真ん中に座った。
「ごめんな、お兄さん。無理矢理入れたみたいになってしもうて。ほんまオオヤマさんは強引やわぁ。」
一番奥の席に座る痩身の男性が、声をかけてきた。
先程、健吾を招き入れた男性の隣に座っている。
「いやいや、店の前で迷ってたから言うたやん。怖くないよ〜、入らにくないよ〜、て。」
健吾を招き入れた男性が、見事に育ったビール腹を震わせながら答えた。
オオヤマさん、というらしい。
「ありがとうございます。
正直、入るか迷てたから助かりました。」
健吾の言葉に嘘は無い。
オオヤマに声を掛けられなければ、考えすぎて入店を『保留』にしてしまっただろう。
そうなれば、今度は雨の中で店探しをしなければならない。
オオヤマの言葉に流された結果、夕食にありつけたのだ。
「お!嬉しいなぁ!そんなん言うてくれんねや。ウチの若いのにも聞かせたいわ。」
「気ぃ遣わんといてや、お兄さん。オオヤマさんは、何も考えんと声かけただけやから。」
「ははっ!まぁイツキくんの言う通りやけどな。」
奥の席にいる痩身の男性は、イツキというらしい。
「いや、ありがたかったんはホンマですから。」
もう一度、感謝を伝えておく。
正直、そこまで感謝しているワケではない。
だがこういう時は、相手に「健吾はいいヒトだ」と思ってもらうことが重要だ。
万が一、仕事関係で繋がってしまったら・・・と考えてしまう。
色々こじらせた男の、悲しい習性だった。
「どうぞ、おしぼりです。」
声がした方を振り向くと、グラスを洗っていた男性店員が、おしぼりを差し出していた。
「あ、どうも。」
「お飲み物は、何になさいますか?」
「え〜と・・・」
「あ、メニューはお席に置いてあるコチラです。」
男性店員がカウンターからメニュー表を取り、こちらに見せてくれた。
ビール、瓶ビール、ハイボール、日本酒、レモンサワー、ウーロン茶・・・。
居酒屋チェーンにある飲み物は、ひと通り揃っているようだ。
「瓶ビールを。」
「ありがとうございます。お食事はコースが2種類あるんですが、どちらにしますか?」
「2種類?」
「はい、こちらです。」
そう言って店員がメニュー表をめくると、筆文字で書かれた食事メニューが出てきた。
・おまかせコース 3,000円
〜先付け2品、天ぷら12品〜
・揚げたてコース 2,000円
〜先付け2品、天ぷら8品〜
・その他、一品からお揚げ致します。
「・・・揚げたてコースで。」
少し迷った後、安い方のコースを選択した。
初めて入る店だ。
高いものを食べて損した、とはなりたく無い。
瓶ビールにしたのだって、飲む量を調整しやすいからだ。
『必要以上の冒険はしない』
初めて入る店では、それが大事なのだ。
「ありがとうございます。」
そう言うと男性店員は、調理スペースに戻った。