第一話(五)
――その夜。
街の一角にある小料理屋『昴』は、午後八時半過ぎには客足もだいぶ控えめになっていた。いるのは近所に住んでいる常連の老人がひとりふたりといったところだ。平日の住宅地にある小料理屋ということもあり、こんなものである。店のつくりもつつましく、カウンター席を中心にテーブル席ふたつ、あとは個室がひとつという、どちらかと言うと自宅のように気楽に過ごせる空間を、というのが大将の考え方であるらしい。事実、従業員も大将と女将でもある奥さん、それにバイトのみのり程度で回せるくらいの家族経営だ。
そんな小さい店でもやっていけるのは、大将の広い人脈と家族で食べられるようなメニューの数々、そして優しい味がご近所をはじめ少し遠方からのファンがいるくらいに人気があるためだろう。
ただ、並んでまで食べてもらうのも申し訳ないということで、予約優先だったり閉店時間が早めだったりするのだが。このあたりも大将である昴の考えが大きいらしい。
「なにしろ昔から、昴さんは優しい人なのよ」
この店の女将で昴の奥さんでもある雪乃はいつもそんなふうにくすくす笑う。実は書道の世界でそれなりに名前が知られているらしい雪乃は自分の書でも稼ぎを得ているらしく、それもこの家の収入源らしいがそれを自慢げにするわけでもない、人柄の良いおっとりとした人だった。みのりは人も減った店内で賄いをもらって食べながら、雪乃とたわいない会話をする。こういうアットホームな雰囲気もみのりがこの店を気に入っている理由だった。
「なにしろみのりちゃんがよく食べてくれるから、うちの子もそれを見習うようにしっかり食べてくれるし、それに子どもたちの宿題を見てくれたりもするし、本当にうちは大助かりなのよ」
いつも雪乃はそう言いながら、みのりに賄いをくれるのだ。大将の昴と雪乃の子どもの弦は今小学校の低学年で、小料理屋の仕込みやらが何かと忙しい夫妻のかわりに余裕あるときはみのりが何かと世話を焼いていた。おかげで弦はすっかりみのりをおねえちゃんと慕ってくれている。
「いえ、たくさん賄いをいただいてますし、そのくらいはお礼をしないと」
みのりがむしろ申し訳ないと言わんばかりに頭を下げると、雪乃はいつも悪いわねえ、と言ってもう一品追加してくれたりする。
「でも、あんまり遅くなると親御さんも心配するでしょう?」
雪乃の少し小首をかしげながらの問いかけは、少しだけみのりの顔に戸惑いの交じった笑みを浮かべさせてしまう。
「今日は父も遅いので」
そう言葉を返せば、雪乃はああ、と小さく呟いてから少し申し訳なさそうな表情で頬に手を添えた。
みのりは父子家庭だ。母はごく幼い頃に亡くなっており、みのりはその旨に抱かれた記憶もろくにない。親族もあまりいないため、小さい頃から一人には慣れていたが、高校になってアルバイトもできるようになったこともあり、以前から夕飯のおかずをいただいたりと懇意にしていたこの小料理店で働かせてもらっているのだ。人並み外れた大食らいでもあるみのりにとって、これは本当にありがたい話だった。
「……そういえば」
ふと今日の出来事を思い出しながら、みのりは肉じゃがを口に放り込み、咀嚼してから小さく首を傾げる。
「この近くに神社ってありましたっけ? その、神社でもいわゆるお稲荷さん……なのかな、鳥居が沢山あるような……」
そう問いかけるように言うと、雪乃ははてと首を傾げた。
「神社? ううん、私はこの街にきたのは結婚してからだし、あまり詳しくなくて。子どもたちの方が学校で聞いていたりするかもしれないけど、みのりちゃんも知らないなら、分からないんじゃないかしら」
なるほど、道理の通る話だ。すると、カウンターでちびちび飲んでいた常連客の老人がふいに声を上げた。
「……知っとるよ、お稲荷さんならな」
普段は無口な彼が店員たちの世間話に乗ってくるのは珍しい。しかし、興味深い話を聞き逃すまいとみのりは耳をすませた。
「わしもガキだったような戦争の前の話だがな、そこの公園の一部と言うんか、奥のほうにお稲荷さんがあったんだ。決して大きくない、小さなお稲荷さんだったがな、地元のガキどもの遊び場所にはうってつけだったし、それこそあの頃はみんな初詣と言ったらあそこに行ったもんだ」
老人は懐かしそうに言葉を続ける。
「……だがなぁ、戦争も終わりの頃にこのあたりも空襲があってな。わしら小さいもんは疎開したりしてその様子は見とらんが、かなり酷いもんだったらしい。お稲荷さんもまるっと焼けてしもうた」
そう言い終わると、老人はまた酒をちびちびと飲み始める。もの静かな老人の昔話にみのりはあわてて「ありがとうございました」と頭を下げると、あらためてため息をつく。
(じゃあ、あそこにあった祠はそのお稲荷さんの名残なのかな?)
みのりがあんまり頭を捻ってもよく分からないが、とりあえずあの場所が本当にかつて神社だったことがわかって、急に心臓がどきどきとうるさくなってきた。そうすると、やはり昼間にみたあの不思議な青年はやはりお稲荷さん、つまり神様だったりするのだろうか? でももしそうだとすると、みのりはどうなってしまったのだろう? もし本当に神様(か、それに準じるもの)を見たのだとしたら、本当に夢かなにかのようで、あるいは童話の世界のようで、不思議でたまらない。
そもそもどうして自分に、そんなものが見えたのだろう? 明らかに人間ではないその容姿を持った青年や、白銀の髪をした巫女さん風の幼女、どう見ても人間と言うよりも『カミサマ』に近いとしか思えない。
それに――今は存在しない、神社に迷い込んだこと。
何度考えてもおかしい。これでは本当に、ふしぎの国のアリスのようなものではないか。どうしてこんな不思議な出来事に遭遇したのか、原因も何もわからない。
けれど、あそこで出会った青年はどこか懐かしい気のするひとで、また会えるものなら会ってみたいとも思う。
(ええと……彼、あかり、って名前だったっけ)
あの青年。狐の耳と尾を持ち、顔にペインティングをした青年。
その名前も、顔立ちも、どこか懐かしさを感じる気がして、
「……どうしてかなぁ」
とぼそりと呟いた。するとその瞬間、
ガラガラッ!
という戸の開く音とともに誰かが店に入ってきた。