第一話(九)
「ほら、これでも飲め」
店を出てからいったん近くのベンチに座ると、あかりは何やら竹筒に入った飲み物を渡してくれた。受け取って飲むとひんやりと冷たい水で、今まで飲んだことのないくらい美味しい水だ、とみのりは目を丸くする。
「……俺はさ、みのりにこの水を飲ませるように頼まれてたんだ」
思いもしないあかりひとことに、さらにみのりはどきりとして、どういうことかと少年を見つめた。
「さっき、お前聞いてきただろ、俺が神様かなんかなのかって。それはまあだいたい当たり。俺はいわゆる天狐ってやつで、簡単に言えばお稲荷様の御使だな。ちなみにおはぎとだいふくはさらにその下にいる、言って見れば世話係」
その言葉を聞いて、みのりはなるほど、と合点のいったような表情をうかべた。
「……そんで、ここからが大事な話だ。俺には妹がいる。……いや、いたというべきなのかも知れないが」
そう言葉を紡ぐ灯りの表情は、どこか切なそうな、寂しそうな、懐かしそうなものだった。
「どういうこと?」
「戦前、この街の稲荷を任されてたのは俺と妹だった。ただ、俺とだいふくは用事があって少しこの街を離れていたことがあった。――その時だ、この街にひどい空襲が来たのは」
空襲、という言葉にみのりの心がざわつき始める。チラチラと、炎の影が見え隠れする。
「妹は、おはぎを守るようにして、その空襲を体で受けちまった。そして、それは普通の方法じゃ治らないほどのひどいものだったんだ」
「……もしかして、それ、」
みのりが震える声で小さく問いかけると、あかりは無言で小さく頷く。
「普通なら、魂ごと消滅していてもおかしくないくらいのひどい状態でさ。いろんな神々に聞いて、それで思いついたんだ。一度妹を輪廻の輪にもどしてみようって。それで、人間に生まれ変わって、そこからもう一度天狐になれるようにすれば……血は繋がっていなくても、きょうだいに戻れるんじゃないかって。……だから、だいぶ時間が経っちまったけどさ、ただいま。遅くなって、ごめん……みのり」
その言葉を聞いて、パンっとみのりの中の何かが弾けた。ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてくる。
「お兄、ちゃん……?」
血は繋がっていない。そもそも生き物としての種や、もっと言えば魂のあり方が違う。
あかりは神に近しい存在で、みのりは今はただの人間だ。それでもみのりにとってのあかりという存在は確かに兄と呼べるもので、それはほとんど初対面なのにもかかわらずさまざまな思い出のようなものが古いアルバムを久しぶりに開けたときのように断片的にチラついて、心の奥底にじわじわと降り積もっていく。間違えるはずもなく、彼はみのりの兄なのだ。
「さっき飲んでもらったのは、月のうさぎたちからなんとか分けてもらってきた霊水でさ。かぐや姫の話は知ってるか?」
「うん、一応」
「あれの最後に、かぐや姫が飲む薬がある。それを飲むと、かぐや姫はそれまで地球であった出来事をまるっきり忘れてしまうっていう代物だった。今回の水は、魂の底に眠る記憶を少しずつ呼び起こす働きと、霊格を上げる働きがあるんだ」
「え?」
あかりの説明にみのりはぽかんとする。まさか、と思って家族を思い出すと、父の顔がくっきりと思い出されてとりあえずホッとした。あかりが言葉を続ける。
「落ち着け、かぐや姫の薬とは効果の違うものだ。月にはそういう霊泉が山のようにあってさ。うさぎたちも一流の薬師たちだ。それでも、普通の人間の体に負担がかかりすぎない程度にある程度の霊格を取り戻す薬を作ってもらうのは難しかったらしくて、五十年以上かかっちゃったんだ。……ごめんな」
申し訳なさそうに頭を下げる兄を見てしまうと、強い言葉は言えない。だから、涙を懸命に拭いてにこっと笑いかけた。
「お兄ちゃんの気持ちがわかるから、それだけで嬉しい」
秋の夜らしい、涼しい風が吹く。不意に寒くなって体を震わせると、ポンと白い狐の尻尾が飛び出してきた。霊格が上がったというのはこういうことなのかとみのりはあらためて自分が人間と少し違うことになったのを実感する。尻尾に触れてみると、ふかふかと柔らかくて暖かい。あかりは先ほど公園で見た時のような顔のペインティングがあった。
「そういえば、あいつらにも改めて挨拶に行かないとな」
そうあかりが言うが、時間はもうだいぶ遅くなっている。みのりがそれを指摘すると確かにそうだな、とあかりも納得して今日は家に帰ることにした。そして住んでいるマンションへ辿り着くと、すぐにベッドに潜り込んで眠ってしまった。




