序
「おいなりさん、おいなりさん!」
小さな子供の声がする。声をかけられたのがわかって、社殿の奥に眠っていた和服を着た狐耳の少年はどこか楽しそうにそっと社殿の外にいる子供の顔を覗きに行く。同じように狐の耳の付いた、巫女姿をした少女は心配そうにそのあとをついて、そしてあら、という顔をした。
お祈りをしているのは確かに小さい子。この近所に住んでいる、マー坊と呼ばれている子だ。そしてその少年がお祈りをしながら何やらほかほかと良い匂いのする食べ物をお供えしている。
「今は肉が手にはいんねーから、肉のかわりにあぶらげ使った肉じゃがもどきだけど……。おいなりさん、気に入ってくれるか?」
そしてもう一度大きな声でお願いをする。
「兄ちゃんが、無事に戦地から帰ってきますように!」
今は米国との戦争がはじまったばかり。マー坊の年の離れた兄も、先だって赤紙とやらで徴兵されて行ったっけ。そんなご時世だ、当然ながら食料も減っている。その中で食べ盛りの年頃の彼は、お供えを持ってきてくれたのだろう。
肉じゃがとやらは聞いたことはあるが食べたことがない。置いていかれた鉢の中には油揚げとじゃがいも、人参の入った煮物料理が入っている。マー坊が帰ってからこっそりひとくち貰うと、煮汁を吸った油揚げが酷く美味しかった。思わず二人とも、目を丸くする。
――こんな料理もあるのか。
二人でそう言い合いながら、少年の祈りを彼らは天に伝えた。
少年と少女は双子の天狐、この稲荷に宇迦之御魂神の遣いとして来ている存在。少年が一応兄、少女が一応妹。
少年はひょいっと空に舞うと、宇迦之御魂神に幼子のその切なる願いを伝えに向かう。
少女はその間、ぼうっと空を見つめて兄の帰りを待っていた。
ただ、待っていた。
兄はなかなか帰ってこない。
待っていても、かえってこない。
だんだんひもじくなって、だんだん世界がピリピリしてきて。
そして、それから――記憶が、無い。
最後の記憶は、真っ赤な世界。
そんな、なんだか懐かしくてせつない夢を見た。
けれど、その夢は目が覚めたらすぐにこぼれ落ちていって、記憶の欠片にも残らないくらいで。
ただ覚えているのは、その胸の痛むような寂しさと切なさ、そして酷い空腹感だけ。