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05 婚約破棄

 あの一件から、ノーヴェルはレティシアに会いに来なくなった。というより、彼女の前に姿すら現さなくなった。お陰でレティシアへの嫌がらせ行為は収まり、平穏とは言えないがいつも通りのぼっちスクールライフに戻りつつあった。


(でも……この前の事は言いすぎたわね)


 レティシアは、張り出された学力テストの結果を眺めながら、心の中で呟いた。


 順位はもちろんレティシアが一位。二位がアイリスであり、ノーヴェルはなんと、十一位まで順位が落ちていた。以前、レティシアがカッとなった勢いで言い放った言葉にダメージをくらったのだろうか。レティシアが入学してからは二位を維持し続けていたノーヴェルの順位の変動に生徒たちはざわめく。


 レティシアはそんな人混みからササっと退散し、この前の事を思い出していた。


『貴方にも多少なりともは責任がある事をご理解ください』


(なんであんな事言っちゃったの私……!)


 レティシアはノーヴェルに言い放った言葉を思い出し顔を顰めそうになった。


(違うのよ違うのよ……!あの時はアイリス嬢とかに陰口言われたり嫌がらせされたりしてイライラしてたからカッとなってつい……!)


 レティシアとて、ノーヴェルが悪くない事は分かっている。確かにノーヴェルは人気者で、女子生徒たちからモテモテで、彼に好かれているとなったらそりゃあもう嫉妬の目で見られる事間違いなしだ。

 だが、嫌がらせ行為をしているのはそんな嫉妬に狂った令嬢たちであり、ノーヴェルは何も関係ないのだ。「嫌がらせをされるのは人気者な貴方が私に構うからですよ!」なんて怒られても「嫌がらせをしてるのはあっちなんだからこっちに八つ当たりされても……」となるに決まっている。

 流石に悪いと思い、レティシアは謝罪の機会を伺っているのだが、こういう時に限ってノーヴェルは自分に会いに来ない。


(私から話しかけに行ったら、また嫌がらせが再開するかも……)


 そう思ったら、なかなか自分から動き出す勇気も湧かなかった。

 さて、どうしようかしら……とレティシアは授業に向かう為、荷物を取り出そうとロッカーを開けた。ちゃんと教科書が入っている事に安堵しつつ、それを取り出す。


「……あら?」


 教科書を取ると、隙間からハラリと折り畳まれている小さな紙切れが落ちた。レティシアはそれを拾い上げ、開く。

 紙には、見覚えのある字でこう書かれていた。


〝休憩時間に、校舎裏まで〟








 レティシアは教科書に挟んであった紙切れの指示通り、休憩時間になると、誰にも見つからないようにお得意の影を薄くする技を使って校舎裏に向かった。紙に書かれていた字体には見覚えがあったのだ。何度も何度も、手紙を通してあの字を見てきたのだから分かる。

 しばらく待っていると、背後から足音が聞こえてきて、レティシアはゆっくりと振り返った。


「レティ……来てくれたのですね」

「……やはり殿下でしたか」


 やはりあの紙切れを書いた本人はノーヴェルだったようだ。久しぶりに見るノーヴェルは、レティシアの記憶の中の彼よりも随分とやつれていた。

 やっぱり私の言った言葉がショックだったのかしら……悪いことしちゃったわ……と、レティシアは心の中でシュン、と落ち込んでみせた。


「実は、レティに話があるのです」

「……その前に、私からよろしいですか?」


 ノーヴェルはレティシアの言葉を聞いて少し戸惑ったが「どうぞ」と笑って促した。レティシアはまず、彼に頭を下げた。


「先日は誠に申し訳ございません。一時(いっとき)の感情に身を任せて、とても無礼な発言をしてしまった事……謝罪させてください」

「い、いいんですレティ!頭を上げてください」


 ノーヴェルは柔らかい声色でそう言い、レティシアの両肩に優しく手を置いた。いつもなら、こんな事をされたら真っ先に振り解くところだが、弱っている彼を見るとレティシアはそれが出来なかった。レティシアはノーヴェルの言葉通りゆっくりと頭を上げる。

 ノーヴェルは眉を下げて笑っていた。


「僕も、貴方に謝らなければ。レティ、貴方はずっと、僕の婚約者となった日から、苦しんでいたのでしょう……僕は自分が情け無いです。レティの婚約者になったあの日から、僕は貴方を何があっても守ると決めていたのに……レティがずっと苦しんでいた事に、気がつけなかった」


 ノーヴェルは苦しそうに眉を顰めてレティシアにバッと頭を下げた。レティシアは思わずギョッと目を剥いてしまった。


「本当に申し訳ありません」

「殿下……貴方が私ごときに頭を下げずとも……」

「いいや、させてください。そうでないと僕の気が済まない」


 頭を下げ続けるノーヴェルに、レティシアはグッと拳を握る。彼が責任を感じる必要はない。悪いのは嫌がらせをしてくる彼女たちなのだ。確かに、気付いてくれないのは寂しかったが、それは嫌がらせを受けている事をノーヴェルに相談せず、一人で抱え込んでしまっていた自分にも責任はある。

 レティシアはハァ、と溜息を吐いた。


「……ノーヴェル、お願い。頭を上げて」


 レティシアは小さな声でそう呟いたが、ノーヴェルの耳にはその言葉がバッチリ届いたようだ。久しぶりに昔のような口調で語りかけてくれたのが信じられなくて、ノーヴェルはゆっくりと頭を上げた。


「レティ……今……!」

「貴方が責任を感じることではないわ。だから、気にしなくても大丈夫」


 そう言って笑いかけようとしたが、人前で笑うことが久しぶりすぎて、レティシアは相変わらずの真顔だった。

 それでも、久しぶりに名前を呼んでくれたのが嬉しかったのか、ノーヴェルの口角は緩んだ。


「……ありがとうレティ。君は本当に優しいね。そんなところが好きだ」


 ふいに好意を伝えられ、レティシアは思わず頬を染めてしまった。他人から見れば僅かな変化で気付かないが、ノーヴェルは彼女の頬がほんのり薔薇色に染まっている事に気付き、胸が躍り出しそうな気分だった。


「話は、これだけ?」


 レティシアは話題を逸らすように早口でノーヴェルに問いかけた。すると、先程まで顔を綻ばせていたノーヴェルは突然顔に影を落とし、俯いてしまった。レティシアがそんな彼の様子に首を傾げていると、ノーヴェルは重い口を開くようにゆっくりと喋った。


「……僕は、貴方を愛していますレティ。レティが僕の所為で傷付くなんて耐えられないし、傷付いて欲しくない」

「ノーヴェル……?」

「本当に……本当に嫌なことだけれど……これがレティの幸せなら、僕はそうしなければならない」


 ノーヴェルは俯いていた顔を上げた。彼は今にも泣きそうな顔をしていた。



「レティシア・バーテンベルク公爵令嬢。僕は、君との婚約を…………破棄する」


「ッ!」


 ノーヴェルの口から出た言葉が信じられなくて、レティシアは目を見開いた。


「よ……よろしいのですか?」

「本当は嫌で嫌で仕方ありません……でも、これでレティが苦しまずに済むのなら、こうするしかないのです」


 言葉が涙混じりになり、ノーヴェルはそれを治すように咳払いをした。そして、未だに目を見開いているレティシアをおずおずと見つめ、両腕を広げた。


「レティ……貴方が許可をくださるなら、最後に……抱き締めても?」

「……構いません」


 レティシアが許可を出すと同時、ノーヴェルは彼女を思いっきり抱き締めた。レティシアは却下する選択肢も頭に浮かんだが、最後くらいは優しくしてやろうと許可を出した。背中に手を回し、撫でてやると自分を抱き締めるノーヴェルの腕に力が入った。レティシアは思わずクスリと笑ってしまった。


「レティ、覚えていてください。これから先、貴方は僕以外の男性と恋に落ち……結ばれてしまうでしょう。そのような事は……嫌で嫌で仕方ありませんが……でも、僕はそれがレティの幸せなら、応援しますし、祝福します。でも僕は変わらず、貴方の事を好きでいます。ずっと、ずっとです」

「……勿体ないお言葉ですわ」


 レティシアが柔らかい声でそう言うと、ノーヴェルは名残惜しそうにレティシアから体を離した。本当はずっとこうしていたい。これから先、自分以外の男が彼女に抱擁をかわすかもしれないと考えただけで嫉妬に狂いそうだ。でも、堪えなければいけない。僕と結ばれる事が、彼女の幸せではないのだ。


「さようなら、レティ。愛しています」


 ノーヴェルは甘い声でそう囁き、レティシアの頬にキスをした。

 突然キスをされ、レティシアはボッと一気に頬を赤らめた。殿方からキスをされるなど初めての事だ。その反応が可愛らしくて、もう一度キスをしたくなったが、ノーヴェルはそれを辞めた。いい加減ケジメをつけなければならない。


「それでは」

「え、えぇ……」


 レティシアは真っ赤な顔のまま、ノーヴェルを見送った。彼はゆっくりとした足取りで去って行く。ドキドキとうるさく鳴る胸をレティシアはぎゅぅっと抑えた。何だろうかこの気持ちは。


 それと同時にポッカリ穴が空いてしまったかのように虚しくもなった。ノーヴェルに婚約破棄をさせるというレティシアの企みは成功したのだ。これからは他人に冷たい態度を取る必要性はない。〝氷の彫刻〟の令嬢からイメージ回復をしていき、学友を作って、楽しいスクールライフを満喫するのだ。

 でも、その隣にノーヴェルはいない。婚約破棄をしたのだから当然だ。これからは彼と関わる事はないだろう。レティシアはこれから彼以外の令息と結ばれて、幸せな家庭を築くのだ。

 そんな幸せな未来を想像しても、隣にいるのはノーヴェルではないと考えた途端に、ちっとも楽しくなくなる。



 ───カサッ。



 自分以外はいないはずだというのに物音が聞こえ、レティシアは音のした方向へ勢いよく振り返った。物音の正体は慌てたように素早く去って行った。

 しかし、レティシアには見えた。薄桃色の髪の毛が。


 間違いない。あの髪色はアイリス・エディノースだ。


(……見られたッ……?)


 しまった、と思っても、もう遅かった。いつから見ていたのだろう。アイリスに見られたとなればまた明日から嫌がらせが再開してしまうに違いない。レティシアは過去の事がフラッシュバックして立ちくらみがした。


(……いえ、ダメよレティシア・バーテンベルク。いつまで相手の好きにさせておくつもり?)


 しかし、なんとか踏み留まり、グッと拳を握りしめた。いつまでも、逃げているわけにはいかないのだ。

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