01 氷の令嬢
「あっ!アイリス様よ!」
「手を振ってくださったわ!美人で聡明な上に、とってもお優しいだなんて……なんて完璧なお方なのかしら!!」
二人の女子生徒は学園の人気者、アイリス・エディノース侯爵令嬢に挨拶を返してもらいご満悦の様子だった。アイリスは上品な薄桃色の髪に、アメジストの瞳を持った美しい令嬢である。勉学の才に長けており、毎月学園で行われる学力テストはいつも上位をキープしている。また、幼い頃から弦楽器を嗜んでいるらしく、ピアノの演奏において彼女の右に出る者はいないという。教師陣や先輩にあたる生徒たちからの信頼も厚く、一年生ながらに生徒会に所属している。通常、生徒会には一年生は入る事は出来ない事もあり、そんな生徒会から直々に勧誘されたアイリスは、男女問わず生徒たちの注目の的だ。
そんな中、廊下できゃあきゃあと騒いでいる二人の背後からコツコツとヒールが床を蹴る音が響く。しかし彼女らはその音に気付かない。やがてその音は二人の令嬢の前でピタリと止み、続いて湧き水のように透き通っていながらも、どこかヒヤリと冷たい声が響いた。
「失礼。道を空けてもらえるかしら」
その声に、女子生徒たちは分かりやすくビクッと肩を震わせてしまった。
彼女たちの背後に立っていたのは、レティシア・バーテンベルク。バーテンベルク公爵家の令嬢であった。毎日手入れされているのだと一目で分かる艶やかな白銀の髪の毛に、彫像のようにくっきりとした目鼻立ち。長いまつ毛から覗くサファイアの瞳に睨まれてからようやく、令嬢たちはレティシアに道を空けた。
レティシアはそんな令嬢たちに感謝の言葉もかけず、再びコツコツとヒールの音を響かせながら去って行った。
レティシアの姿が見えなくなるまで黙っていた令嬢たちは、彼女の姿が消えた途端、安心したように思いっきり息を吐き出した。
「あれが噂の〝氷の彫刻〟の令嬢ですの?」
「えぇ。噂通り、無愛想な方でしたわね」
「まったくですわ!!あの方、本当に彫刻みたいに表情が変わらないのね」
レティシアはその美しい顔をどんな時でも一切崩さず、それどころか愛想笑いの一つも返さない事から、『彫刻のように美しいが、氷のように冷たい』と生徒たちの間で囁かれ始めた。やがてレティシアは〝氷の彫刻〟と呼ばれるようになったのだ。
しかしレティシアは、学園の人気者、アイリスと並んで有名な令嬢であった。悪い噂もあるが、それ以上に彼女は優秀だ。月に一度の学力テストではレティシアが常に一位をキープし続けており、音楽の授業でレティシアがバイオリンの演奏をする際には「下手くそだったら笑い者にしてやるわ」と考えていた令嬢たちを卒倒させるような美しい音色でバイオリンを奏でたりした。テーブルマナーやダンス、馬術、絵画、様々な面でレティシア・バーテンベルクは完璧であった。
彼女の欠点は、その愛想の無さだけであろう。
「どうしてノーヴェル様はあんな女と婚約したのかしら」
「えぇ。婚約するのなら、アイリス様との方がとてもお似合いですのに……」
女子生徒たちはノーヴェルの名前を出し、夢見心地のようにうっとりとした表情をした。
ノーヴェル・ウェスタリエスは、ここウェスタリエス王国の第一王子であった。美しく輝く稲穂の髪、金糸の睫毛に覆われた青い瞳はサファイアの輝き。彼がニコリと微笑めば忽ち周りの者たちは感嘆の溜息を漏らした。
ノーヴェルの素晴らしさは容姿だけでなく、その内面も素晴らしかった。ノーヴェルは二年生ながらにして生徒会長の座に君臨していた。二年生で生徒会長になるのは学園の歴史上、彼が初めてであるという。勉学の才は言わずもがな。そんな才能を周りにひけらかす事なく彼は常に謙虚だ。同級生や後輩に勉強を教える面倒見の良さもあり、ノーヴェルはアイリスと並んで学園の人気者であった。
そんなノーヴェルの婚約者は、〝氷の彫刻〟の令嬢と噂のレティシア・バーテンベルクである。彼を慕っている生徒からすると、学園の腫れ物であるレティシアとノーヴェルが婚約者であるという事実は受け入れ難いものであった。
「きっとノーヴェル様を脅して、無理やり婚約関係を結ばせているに違いありませんわ……!」
「ノーヴェル様はお優しいお方だもの。レティシア様の圧に押されて婚約破棄を言い出せないに決まっていますわ」
令嬢たちがそんな根も葉もない噂を立てているとは梅雨知らず。
レティシア・バーテンベルクは廊下の角を曲がり、誰もその場にいない事を確認すると「はぁあああぁ……!」と眉を思いっきり顰めて情け無い声で溜息を吐いた。
(やっぱりあの子たちに道を空けてもらった時、お礼を言うべきだったかしら……いえ、ダメよレティシア!!今の私は誰も寄せ付けぬ氷の彫刻の令嬢……レティシア・バーテンベルクですもの!!いきなりお礼を言ったりなんてしたら、今まで私が作り上げてきたキャラが台無しになってしまうわ!!)
レティシアは危ない危ない……と玄人のように額の汗を腕で拭う仕草をした。
〝氷の彫刻〟レティシア・バーテンベルクは、ただ無愛想な令嬢として演技をしているだけであった。
彼女が何故このようなキャラ作りを始めてしまったかというと、時はレティシアが七歳の頃まで遡る。
レティシアは、幼い頃は表情豊かな可愛らしい女の子であった。彼女が七歳の頃に開かれた王太子の誕生日パーティーの日。レティシアは両親が知り合いの家系の貴族たちへ挨拶回りをしている間にパーティー会場を抜け出した。一言で言うと彼女はパーティーに飽きたのだ。
レティシアはパーティー会場をグルリと囲むほどの大きな花壇を歩き回った。もともと花が大好きだったレティシアは様々な種類や色の花々が植えられている花壇にテンションが上がり、その小さな歩幅でゆっくりと花壇の花たちを見て回った。
やがて、グス、と鼻を啜ったような音が聞こえ、レティシアは月下の光に淡く晒された白椿の群生を覗き込んだ。
白椿の群生の中には、金髪碧眼の美しい少年が目を赤くして泣いていた。
突然人に、それも同年代ぐらいの女の子に泣いている姿を見られ、少年は慌てて顔を手で覆った。
『貴方、白椿が好きなのね!』
レティシアは能天気にそう言って、少年の隣に腰を下ろした。彼は突然隣にやってきた少女にビクッと肩を震わせる。
『私も白椿は好きよ!知ってる?椿ってね、実から油を取ることができるのよ!その油はお料理にも使われるし、調髪にも使うし、石鹸の原料にもなるの!それに葉っぱは若葉だと食べられるらしいのよ。あとね───』
レティシアはすっかり少年が自分と同じく花を好きなのだと思い込み、白椿だけでなく色んな花の豆知識をペラペラと喋った。
しかし、少年が不思議そうにこちらをジーッと見ているのに気が付き、レティシアはようやくハッとなって口を閉じた。
『ご、ごめんなさい!私のお話、つまらなかったわよね。お父様にもよく注意されるの……一方的に喋るのはお前の悪い癖だから治しなさいって』
慌ててレティシアがそう謝ると、今度は少年がハッとなり、レティシアの手を掴んだ。
『つまらなくないよ!僕の知らない話ばっかりだったから……楽しかった』
少年がそう言うと、レティシアはぱぁっと顔を綻ばせた。
『本当!?嬉しいわ!ねぇ、貴方お名前は!?私、レティシア・バーテンベルク!』
『ノーヴェル……ノーヴェル・ウェスタリエス』
『えっ』
少年の名前を聞き、レティシアはカチッと固まってしまった。なんと少年は本日のパーティーの主役、王太子だったのだ。
『も、申し訳ありません王太子殿下……!わ、私、貴方が王太子だって知らなくて無礼な真似を……』
レティシアが慌ててそう謝ると、ノーヴェルは寂しそうに眉を顰めた。
『やめてよレティシア。僕……パーティーがずっと退屈で……話し相手が欲しかったんだ。ねぇ、さっきみたいに普通に話してくれる?』
『えっ、よ、よろしいのですか?』
『うん。僕、レティシアといっぱい話したいな』
『……それなら、私の事はレティと呼んでください!私も殿下をノーヴェルと呼んで良いですか?』
『も、もちろんいいよレティ……!僕、名前を呼び捨てされたの、初めてだ』
『ふふ、当然ですよ。私たちはもう友達なのですから、名前で呼び合わないと!』
『友達……!』
レティシアはそう言ってノーヴェルに笑いかけた。
そこから二人は長い時間、白椿の群生の中でたくさんお喋りをした。主にレティシアの最近あったくだらない事を話してノーヴェルに聞かせるだけだったのだが、ノーヴェルはそれでも楽しそうに笑っていた。
ノーヴェルの不在に、慌てて彼を探していた騎士達が二人を見つけるまで会話は続いた。
騎士たちがノーヴェルとレティシアを会場まで連れ戻すと、レティシアは両親に大目玉をくらった。勝手に抜け出すなど何を考えているのか!心配したんだぞ!等々。
結局パーティーが終わるまでレティシアは両親に見張られ続け、退屈な時間を過ごした。
やがてパーティーが終了し、参加していた貴族たちがゾロゾロと王宮を後にする中、『レティ!』という声でレティシアは足を止めた。
振り返ると、ノーヴェルが走って自分のところまで向かって来ていた。その様子に周りは混乱している。今までノーヴェルが進んで令嬢と交流することなどなかったからだ。
ノーヴェルはそんな周囲の視線を気にする事なく、レティシアに近付き、彼女の手を取った。
『今日は君のおかげで最高の誕生日になったよ。ありがとう』
そう言ってノーヴェルは彼女の手の甲にキスをした。その衝撃的な光景にレティシアの両親は卒倒し、傍観していた貴族たちは『あら』と何かを察したように頰を染めた。
その数日後、ノーヴェル直々が書いた手紙がバーテンベルク邸に届いた。その内容はレティシアを婚約者にしたいというものだった。両親はこの手紙に秒で了承の返事を出し、晴れてレティシアはノーヴェル王太子殿下の婚約者となった。当の本人であるレティシアは、まぁ、ノーヴェルとなら楽しそうだし、婚約しても良いかぐらいのノリで過ごしていた。
そこから、レティシアは思い知ることとなる。ノーヴェル王太子が、どれだけ人気であったかを。
レティシアがノーヴェルの婚約者となってから、彼女はパーティーやお茶会に出席する度、令嬢から嫌がらせをされるようになった。
会話に入れてもらえない、自分のお茶だけが薄い、わざとレティシアの存在に気付かないフリをされる、などなど。
酷い時には頭から紅茶を被せられたり、ドレスをわざと破かれたりなどもした。
そこから、レティシアはパーティーやお茶会に一切出席しなくなった。
婚約解消を訴える手紙をノーヴェルに送ろうかとも思ったが、手紙に令嬢たちからの嫌がらせを受けている内容を書き、それが万が一彼女たちにバレれば、嫌がらせがエスカレートするのではと怖くなった。
そこでレティシアは決心した。彼方から婚約破棄を言い渡してもらうよう行動しよう、と。どんな人が婚約者だったら嫌かを考え、レティシアは思い付く。〝無愛想で怖い人〟だと。
思い立ったが吉日。その日からレティシアは家族以外の前でポーカーフェイスを崩さないようになり、続けていたノーヴェルとの文通にも一切返事をしないようにした。ノーヴェルがバーテンベルク家に直接来る事もあったが、『体調が悪い』でなんとか押し切った。
しかしとある問題が発生する。貴族は、十五歳になると、家庭教師が教える更に上の勉学を学ぶ為に強制的に学園に入学させられるのだ。レティシアも当然、十五歳になれば学園に入学させられる。
ノーヴェルは自分より一つ年上ではあるが、二年は彼と学園生活を共にしなければならない。
レティシアは決意する。このままポーカーフェイスを続けて無愛想な女を演じ、ノーヴェルの方から婚約破棄を言い渡してもらうのだと。
しかし、その生活は想像以上に辛かった。
無愛想な令嬢を演じている所為か、元々ノーヴェルの婚約者という点で嫌われていたのも相まって更に令嬢たちから嫌われてしまった。友達は出来ないし、何もしていないのに目が合ったら逃げられてしまうし、いつも真顔を保っている所為で笑い方を忘れてしまうしで、レティシアは入学半年目にして、相当参っていた。
(いえ、ダメよレティシア・バーテンベルク!ここで弱気になってはダメ!!このままこのキャラで押し通して、殿下に婚約破棄を言い渡してもらうのよ!そうすればポーカーフェイスをする必要もなくなるから、友達だって出来るはず!殿下の口から婚約破棄という言葉が出るまで……私は〝氷の彫刻〟の令嬢を演じ続ける!!)
レティシアはそう決意し、再び顔を真顔に戻してから、カツカツとヒールの音を響かせながら歩き始めた。