私はできない
「やればできる」なんてことはこの世に存在しない。
「やる」か「やらない」か、という選択で、「やる」を選んだ者だけが、「できる」か「できない」かという選択に進めるのであって、「やらない」を選んだ者には、「できる」「できない」の選択は用意されていない。「やればできる」なんてことは存在していないのだ。
それなのに、「やればできる」なんて口に出す目の前の女。馬鹿馬鹿しい。
そう心の中で罵った女の腹から生まれたのが自分であるのに、どうも胸の奥にある光が弱くなる。
別に自分の環境に不満があるわけではない。
どこにでもある普通の家族の普通の長女として生まれた私。今まで17年間生きてきて、自分の境遇を呪ったことなどない。
母親のことも、嫌いなわけでも憎んでいるわけでもない。
私を心配し、本気で愛しているからこそ言ってくれた言葉に違いないと思うことができるし、自分は幸せな方であると思う。
世の中には、毎日食べるものがなく、生きていくのが精いっぱいの人もいる。それどころか、世界中には、戦争や紛争に苦しむ人もいるのに、心配してくれる両親がいて、何不自由なく勉強ができる状況の自分が不幸だなんて思えるはずがない。
普通に毎日起きてごはんを食べ、学校に行き、勉強をして、眠る。そんな生活が送れていることがどれ程幸福なことか、わかっている。
でもなんだろう。この感じ。
目の前で「やればできる」と口に出す母親も、大学受験を当然のように目指しながら残り一年を過ごす高校生活も、終われば良いのになんて考えている。
「聞いてるの?ぼーっとして。」
先生の言葉ではっと我に返る。カーテンがさっと揺れ、教室にはその隙間から西日が差していた。
今日は一日、昨日言われた言葉。「やればできる」が頭から離れない。
今も、二者面談での教師の話に耳を傾けながら頭の中ではずっとこの言葉が右往左往していたらしい。
「私はやればできる人間だと思いますか?」
「そうね。やればできるかどかはやり方次第だけど、もっと本気出せば、もっと上にいけるのにとは思う。」
上って何だろう。本気ってなんだ。本気でやれば「できる」のか。何を本気でやるのか。
「上って?」
「本気でやればもっと上の大学への進学を目指せるってこと。」
「上」という言葉が当然のように、学歴を指すことに、違和感を覚えるのは私だけなのだろうか。
「面談、どうだった?」
面談が終わった後、教室に残った親友が、珍しく心配なんてしてくる。
「ねえ、本気って何?」
彼女は、突然質問に質問で返す私に、一瞬目を見開いて、何を真剣に聞いてるのかと言いたげに、適当に答えた。
「必死に頑張ることじゃないの。」
「例えば本気って何に出すの?勉強?」
「そんなの、自分のやりたいことでしょ。」
「やりたいこと?」
「私はね、お金持ちと結婚して、専業主婦。」
いたずらな笑顔を見せてそう言う彼女が、やけに眩しかった。私はそれをさっきより大きく揺れるカーテンから指している西日のせいにし、無理やり続けた。
「私も専業主婦になりたいな~、仕事したくないしね。」
「あんたは頭が良いんだから、もっと本気で勉強して、良い大学に行って、大企業とかに勤めなさいよ。」
教室に指す西日が強くなり、教室は赤く染まっていた。
私は、そこそこ成績が良い。
死ぬ気で努力をしていたわけではないが、テスト前になると人並みに勉強はしたし、学校の中では良くて上の下、悪くても中の上くらいの成績だ。
死ぬ気で努力をしているわけではないのだから、上の下以上にはいけなくて当たり前。行きたいとも願ってはいないし、あくまでも「そこそこ」の範疇で良いと思っているし、この現状に満足している。
「やればできる」
これ以上、何をすれば良いのだろう。
上ってなんだろう。できるってなんだろう。
何を成せば、「できた」ことになるんだろう。
「できた」ってなんだ。
「私、これ以上の本気は出せないんだ。だから、これ以上の本気を見せたら行ける大学なんて存在しないの。」
「そういやあんた、将来の目標は?」
目標。なんだろう。
何にでもなれるように、「そこそこ」勉強をして生きてきた。だから、現状に満足していた。夢なんか大層なもの持ち合わせているはずがなかった。
「ない。」
「じゃあ、なんで本気出すのが勉強前提?」
「じゃあ、なんであんたは勉強しないの?専業主婦になるって言ったって、勉強はできるに越したことはないでしょう?」
「勉強ができても、それが人生の価値なんかじゃないでしょう。私、人生の価値は、どれだけ幸せだったかで決めたいんだよね。そのために本気はとっておきたい。」
幸せ?
頭の中でめぐる余計な思考を止めたくて、質問を続けた。
「専業主婦になるための本気ってなに?」
「そりゃあ、いい男ゲットするために、自分磨きして、素敵な女性になるための努力でしょ。」
無駄に真剣に質問ばかりをする私を置いていくかのように、彼女は適当に答えた。
「もう十分素敵じゃん。」
嫌味でも何でもない。心の底から出た言葉。
単純なことだ。幸せの形は一つではない。
自分は、「やればできる」の中の「やることができない人」であるし、だから「できる」とかはないと思っていた。
それなのに、「できる」ことが正義かのように「やればできる」と話す親に、世間に、うんざりしていたんだ。
でも違う。学校という狭い檻の中で、勉強をして、良い大学に入り、大企業に就職するなどということが人生の「できる」であるかのように、幸せであるかのように感じていた。
「できる」はその人の目標によって変わる。勉強を「やることができない人」でも、自分の目標にとって重要なことで「やってできる人」になれば良い。
というか、やらなくても、できなくても良い。
必ずしもやった人、できた人が正義なんかじゃない。幸せなんかじゃない。
幸せになりさえすれば良いだけ。それが人生の成功だと思える人間でありたい。
「お母さん、私はできないよ。
したいことを見つけるまでは。」
教室に指していた西日は、教室の中の私を燃やすように真っ赤だった。