第八章 侵入者
第八章 侵入者
夜が更けてきた頃、兵士たちは交代で見張りを立てて怪しい者がいなか目を光らせ、祭司たちも交代で悪霊の類が近づけないように呪文を唱え続けた。ラージャ王は政務を終えて自分の天幕に戻った。用意されたベッドの上に横になると蓮の香りがした。長旅の疲れが和らぐようだった。香りの源は間違いなくベッドのシーツだった。ナリニーが香を焚き染め、まじないをかけてくれたシーツだった。ラージャ王はナリニーのことを思い浮かべた。ナリニーはずっと昔から王宮にいた。まだ父王プラバーカラ王が健在で気ままな王子でいられた頃だった。ラージャ王はいつものように王宮の中庭でアジタ祭司長から教えを受けていた。この頃からアジタ祭司長は口うるさいお説教好きで、ラージャ王子が少しでも気を抜けばピシャリと叱りつけてくどくどとお説教をしたものだった。その日もそうだった。
「ラージャ王子、聞いておられますか?」
アジタ祭司長は鋭い眼光を向けた。
「あ、はい。聞いております。」
ラージャ王子は慌ててすぐに返事をしたが、アジタ祭司長の目はごまかせませなかった。
「あなたという方がぼうっとしているなんて珍しい。」
アジタ祭司長が怪訝そうな顔で言った。
「申し訳ありません。アジタ先生。」
ラージャ王は素直に謝った。
「まあ、暑いことですし、大目に見ましょう。では今日はこれで終わりです。」
アジタ祭司長はそろそろ講義を終わらせようとしていたので、運良くラージャ王子はお説教を聞かされずに解放された。アジタ祭司長はすぐにその場から立ち去ろうとしたが、ラージャ王子が呼び止めた。
「アジタ先生。」
いつになく真剣で緊張したような張りのある声だった。
「何ですかな?」
アジタ祭司長は不思議そうに聞き返した。
「ナリニーは独身でしょうか?」
ラージャ王子は顔を真っ赤にしてそう尋ねた。アジタ祭司長は状況が飲み込めず、キョトンとしていた。ラージャ王子は澄んだ瞳でアジタ祭司長を見つめて返答を待っていたかと思うと、ふと視線を逸らした。その視線の先にはいそいそと洗濯物を運ぶナリニーの姿があった。アジタ祭司長の顔は驚きと困惑に満ちた。アジタ祭司長は心を鬼にして言った。
「ラージャ王、お諦め下さい。あの者はいけません。あの者は…」
嫌なことまでラージャ王は思い出してしまった。寝苦しそうに寝返りをうつと何もかも忘れようとした。ただ蓮の香りに包まれて眠ろうとした。
蓮の香りがするシーツに包まれていると、不思議な感覚がした。シーツがまるで王宮の池の水のようにひんやりと冷たく、滑らかで、水の上に浮いているような錯覚に陥った。これもまじないの力なのだろうかと薄れゆく意識の中でラージャ王は思った。ラージャ王は夢を見た。青い空の夢。王宮の廊下で見た白昼夢と同じだった。ラージャ王は王宮の中庭にある蓮の池に浮いていた。自分の体の周りにはたくさんの蓮の花が咲いていた。起き上がって池から出ようとしたが、体がピクリとも動かなかった。仕方なくただ水に浮いて青空を仰いでいると、誰かが近づいて来た。その誰かは池の中に入って来て、顔を覗き込んできた。ラージャ王はその顔を見て凍り付いた。追放した祭司アニルだった。
ラージャ王は驚いて目を覚ました。目が覚めると同時に、天幕の中に怪しい気配を感じた。すぐに枕元に置いてあった剣を抜いて暗闇の中に潜む気配に向けた。ラージャ王が身構えると、暗闇の中から不気味な笑い声が聞こえてきた。
「フフフフフ…。さすがはラージャ王。よくぞ私にお気づきになられた。」
「何者だ?」
ラージャ王は天幕の隅に向かって言った。すると若い男の声とともに化粧を施した道化師の顔が暗闇から浮かび上がった。
「ご安心下さい。私は怪しい者ではございません。ただの通りすがりの道化師でございます。」
「道化師が私に何の用か?」
ラージャ王は鋭く言った。
「あなたにこれから起きる災いについてお知らせして差し上げようと思いまして、こうして夜分遅くに参りました。」
「災い?」
ラージャ王は剣を向けたまま尋ねた。
「さようでございます。『カーラーナル』がやって来るのでございます。」
道化師の眼が猫の目のように光った。ラージャ王は息を呑んだ。
「カーラーナルは地獄の炎。地上に現れればこの世は火の海。全てが灰と帰します。こればかりは何万の兵をもってしても止められません。けれどただ一つだけカーラーナルを止める手立てがあります。それは呪いの成就を阻むこと…。」
そこまで言ったところで道化師の言葉が止んだ。道化師は天幕の外の気配に注意を払っていた。
「誰か来たようです。」
道化師が言った。ラージャ王にもこちらに向かってくる兵士の足音が聞こえた。
「詳しいことはお付の祭司にでもお聞き下さい。私はこれにて失礼致します。御機嫌よう。スターネーシヴァラ王。」
そう言うと道化師は闇に溶けていなくなった。気配も感じられなくなった。ラージャ王だけが天幕の中で剣を持ったまま闇を見つめていた。
「失礼致します。話し声が聞こえたのですが、どうかなさいましたか?」
そこへ一人の兵士が入って来た。兵士は王の天幕に入るということで緊張はしていたが、まさか厳重な警備をかいくぐった侵入者いたとは思っておらず、気を抜いていた。声は寝言か何かだと間違った見当をつけていた。
「すぐにアジタ祭司長を!」
ラージャ王は兵士が来るや否やそう命じた。兵士はラージャ王が剣を抜いているのに気づいた。兵士は驚いて急いでアジタ祭司長の元へ走った。




