第五章 兄弟
第五章 兄弟
何時間も経ってからのことだった。部屋に閉じこもっていたハルシャ王子は泣き止み、落ち着きを取り戻していた。ベッドの上に寝転がりながら、ぼんやりとアニルのことを思い出していた。アニルはアジタ祭司長さいしちょうと同じ風の使い手で、ハルシャ王子が生まれる前から王宮おうきゅうに仕つかえていた。若くて優秀な祭司さいしだったが、そのことを鼻にかける様子もなく、いつも自然体で、何の飾かざり気けもない人物だった。王宮おうきゅうで唯一友達と呼べるのがアニルだった。ハルシャ王子がぼんやりとそんなことを思い出していると、扉を叩たたく音が聞こえた。
トン、トン、トン。
ハルシャ王子は扉の鍵を開けようかどうか迷った。けれどやはりまだ開ける気にはなれなかった。扉はもう一度叩かれた。
トン、トン、トン。
「ハルシャ。」
ラージャ王の声だった。ハルシャ王子はとっさに布団ふとんを被かぶり、寝ねたふりをした。そうすればラージャ王と顔を合わせずに済むと思ったのだった。
「ハルシャ、私です。鍵を開けて下さい。話したいことがあるんです。」
ラージャ王は呼びかけた。けれどハルシャ王子は布団ふとんの中でうずくまって鍵を開けようとはしなかった。
「ハルシャ。」
ラージャ王はまた呼びかけた。けれどハルシャ王子は布団を被ったまま返事をしなかった。
「ハルシャ、さっきは悪かったね。ついカッとして叩たたいてしまいました。」
ラージャ王は扉の向こうからハルシャ王子に話し続けた。
「実はさっき話さなければならないことがあって、ハルシャの部屋に向かっていたのです。大切な話だからよく聞いて下さい。明日、私はカルナスヴァルナ国へ出発します。カルナスヴァルナ国は知っていますね?東にあるシャシャーンカ王が治おさめている国です。シャシャーンカ王はスターネーシヴァラ国王である私と親睦しんぼくを深めたいと仰って、王宮に招いて下さいました。私はこの招待しょうたいを断るわけには行きません。カルナスヴァルナ国は地理的にも、政治的にもスターネーシヴァラ国にとって重要な位置にあります。カルナスヴァルナ国と友好関係を築けるかどうかが、今後の運命を左右することになるのです。」
カルナスヴァルナ国のことを話すラージャ王の口調は国王として大臣たちと政治を話し合う時と同じだった。
「私が城を空けている間はサクセーナ国務大臣こくむだいじんが王の代理を務めます。彼はスターネーシヴァラの置かれている状況をよく知っているし、外国との付き合い方も上手ですから。ハルシャのことはラーケーシュ殿に頼んでおきました。勉強のこともその他のことも。だからラーケーシュ殿の言うことをちゃんと聞くように。」
「……。」
ラージャ王は返事を待ったが、ハルシャ王子は黙ったままだった。ラージャ王は落胆らくたんと優しさが入り混じったため息をついた。
「ハルシャ、カルナスヴァルナ国から帰ってきたらちゃんと話しましょう。じゃあ、おやすみ。」
ラージャ王はそう言うと、扉の前から去って行った。
翌日、ラージャ王がカルナスヴァルナ国へ出発する時がやって来た。天気は快晴かいせい。雲一つない青空が広がっていた。外にはラージャ王を見送ろうと、たくさんの人が集まった。祭司さいしや侍女じじょ、兵士はもちろん、スターネーシヴァラの町の人々も王を見送ろうと、城の正門せいもんの前に集まった。道の脇わきにもずらりと人が並んでいた。みんな王を見送りたかったのだった。ラージャ王はみんなに輿の中から手を振った。ラージャ王が手を振ると人々は祝福するように花びらを投げた。赤、白、黄色、橙色。色とりどりの花びらがスターネーシヴァラの町に降り注いだ。空の青によく映えてそれはそれは美しい光景だった。
その光景をハルシャ王子は王宮の窓から眺ながめていた。朝早くに謝あやまろうとラージャ王の部屋へ行ったのだが、出発の準備で忙しいからと警備兵たちに追い返されてしまった。そのことに腹を立ててハルシャ王子は見送りに行かなかったのだった。嬉しそうに手を振るラージャ王の姿をハルシャ王子は憧れと後悔こうかいの眼差まなざしで見つめていた。『ごめんなさい。』輿こしの中にいるラージャ王の姿を見つめながらハルシャ王子は心の中でそうつぶやいた。




