第四十八章 ナリニーの正体
第四十八章 ナリニーの正体
ソミンは西の棟に行くつもりだった。その途中で王宮にいる祭司に会えれば幸運だと思っていた。走っていると、突然、何かに足を取られた。前に転びそうになって床に手をついた。ソミンは自分の後ろに人の気配を感じた。振り返らずとも誰だか分かった。
「シンハ殿ですか?」
ソミンが低く、澄んだ美しい声で尋ねた。
「ええ、そうです。確か、ソミンと呼ばれていましたね。両手を見えるところに出してください。ソミン指揮官。」
シンハが勝ち誇った笑顔を浮かべて言った。シンハはさっきアニルが『ソミン指揮官』と呼んだことを覚えていた。ソミンはゆっくりと体を起こし、両手を高く上げた。
「あなたには私が安全に城の外に出られるようについてきてもらいます。」
シンハが言った。ソミンは悔しがる素振りなど見せなかった。毅然としていた。
「私を盾にしたくらいで城から抜け出せると思うのですか?」
ソミンが言った。
「さあ。試せば分かるでしょう。」
シンハは挑戦的に言った。
「お仲間はどうするのです?おいて行かれるので?」
ソミンはシンハの調子に合わせて挑戦的に尋ねた。
「あの五人はカルナスヴァルナ兵です。絶対に口を割りません。」
シンハは自信たっぷりに言った。
「ではあともう一方は?」
ソミンが鋭く言った。サクセーナ大臣の裏切りの確証を得ようとしたのだ。けれどシンハは何のことだというように目を細めた。
「誰のことを言っているのか分かりませんが、それはあなたの勘違いですよ。」
シンハは落ちつた口調でそう言った。ソミンはシンハの反応を演技ではないかと疑った。
「ソミンは私の後について来る。」
シンハはソミンの影を踏みながら言った。シンハは術をかけたのだ。影を踏まれた状態で名前を呼ばれれば、ソミンはシンハの命令に従うしかない。サクセーナ大臣のことを聞いた途端、術をかけるとはますます怪しいとソミンは思った。
「では行きましょうか。」
シンハはそう言ってソミンの前を歩いた。二、三歩、歩いたところで、シンハは首筋に冷やりとするものを感じて立ち止まった。横目で確認すると、ソミンが剣を突きつけていた。
「仮面をつけている者が本名を名乗っていると思いますか?シンハ殿。」
ソミンは勝ち誇って言った。シンハは唇をかみ締め、悔しそうな顔をした。
「用心深いあなたが不覚をとりましたね。一緒に来ていただきましょう。シンハ殿。」
ソミンはシンハに影を踏まれないように前を歩かせた。
「シェーシャ、この化け物は一体何なんじゃ?それにその奇妙な輪。」
クールマがルハーニの肩に乗って、同じくルハーニの肩に乗っているシェーシャに尋ねた。
「この緑色の亀のような醜い生き物は冥界の池にすむ魔物だ。」
シェーシャがそう答えた。クールマは自分のことを馬鹿にされたような気がして気を悪くした。
「凶暴な生き物で、誰彼構わず仲間以外のものを襲う。この輪を通じてやって来たのだ。この輪は冥界に穴を開ける道具で、普段は黄色い紐のような形をしているが、一度封印を解かれれば、蛇のように動き回り始める。そして満月の晩に水に浸かると冥界との境界に穴を開け、冥界への入り口を作る。」
シェーシャは続けて言った。
「ずいぶん詳しいのう。」
クールマが感心して言った。
「これは蛇族が作り出したものだからな。人間界に用のある者は皆これを常に腰に下げている。」
シェーシャはそう説明した。
ルハーニは二匹の会話をいつものように聞き流していたが、アニルとプータマリ司書長は何も気にとめていない振りをしながら聞き耳を立てていた。二匹の会話は二人にとってとても興味深いものだった。そして不安を掻き立てるものでもあった。冥界のことに詳しいシェーシャはただの蛇ではないと思わせた。
「足音じゃ。」
クールマが言った。ルハーニたちも気づいた。中庭へ向かっている足音に間違いはなかったが、急いでいる様子はなく、歩いているようだった。
「ソミン指揮官でしょうか。」
ゆっくりとした歩調の足音を訝しがりながら、プータマリ司書長が言った。
「足音は二人ですね。」
アニルが言った。足音がする方を見ていると、ソミンがシンハの背中に剣の先を突きつけて現れた。
「シンハ!」
プータマリ司書長が声を上げた。アニルとルハーニも驚いた顔をした。ラーケーシュの治療に当たっていたスバル医薬長も顔を上げてシンハを見上げた。中庭の隅にいたハルシャ王子もシンハを見ていた。
「祭司を連れてきました。」
ソミンが大胆にもそう言った。シンハはばつが悪そうに、自分を見る他の祭司たちの視線から目を逸らした。プータマリ司書長は何と言葉をかけていいのか分からず、固まっていた。
「シンハ、ここへ。」
アニルがよどみのない声で言った。シンハは無視しようとしたが、ソミンが剣で脅して歩かせた。池の淵に立つと、シンハは真正面からアニルを睨みつけた。
「この輪を見ろ。」
アニルは池の中の黄色の輪を指して言った。シンハは池の中に目を落とした。
「お前が放った蛇だ。冥界へつながる穴を開ける道具だったらしい。これからこの穴を閉じる。呪文は蛇語であるため、祭司が四人必要だ。お前にも手伝ってもらう。シンハ。」
アニルが淡々《たんたんと》と冷静に言った。シンハは顔をそむけて何も言わなかった。
「シェーシャ、呪文を教えてください。」
アニルが言った。
「分かった。呪文を教える前に言っておくことがある。私が合図をしたらすぐに魔物たちを輪の中に放り込め。こちらの世界においておくと厄介なことになる。」
シェーシャが言った。
「分かりました。」
アニルが頷いた。シンハはシェーシャがしゃべったのを見て、あの時なぜ二匹を逃がしたのかようやく分かった。
「メガネ、ルハーニ、アニル、シンハの順で呪文を教えていく。良いな?」
シェーシャが言った。プータマリ司書長は名乗っていなかったばっかりにメガネなどと呼ばれてしまった。失礼だと思いながらもシェーシャの言葉に真剣に耳を傾けた。
「まず一人目はこうだ。シュー、シュー、シュー。」
シェーシャが手本を見せた。
「シュー、シュー、シュー。」
プータマリ司書長が真似をした。
「そうだ。二人目はシャー、シャー、シャー。」
「シャー、シャー、シャー。」
ルハーニが真似をした。
「三人目はシュルルルルル。」
「シュルルルルル。」
アニルが真似をした。
「四人目はキャシャアアアアア。」
シェーシャを含めて誰もが心配そうにシンハを見めた。シンハの後ろではソミンが剣を構えていた。
「キャシャアアアアア。」
シンハもしぶしぶ真似をした。蛇の真似するシンハの声には蛇の執念深さが滲み出ていた。ソミンは剣をシンハの背中から離して後ろに退いた。
「そのまま続けるんだ。」
シェーシャが言った。四人の声は合わさると、不思議なことに一つの声になった。その声はこう言っていた。
『蛇よ、蛇よ、黄色の蛇。今夜は満月。月は二つもいらぬ。グルグルと円を描き、黄色の紐に戻れ。閉じよ、閉じよ、冥界の穴。』
黄色の輪はまた蛇の形をとった。蛇は水の中でグルグルと円を描いた。
「冥界の穴が閉じかけている。今のうちに魔物を放り込め。」
シェーシャが指示した。
「おかしな真似はするな、シンハ。」
アニルはシンハにそう耳打ちをすると、プータマリ司書長、ルハーニ、ソミンとともに魔物を拾い上げて輪の中に放り込んだ。シンハは逃げようとはせず、おとなしくしていた。
すべての魔物を放り込むと、水の中をぐるぐる回っていた蛇は回るのを止め、ゆっくりと黄色い紐に姿を変え、浮き上がってきた。
「冥界の穴は閉じられた。」
シェーシャが言った。全員が安堵の表情を浮かべた。
「早く水から出した方が良い。また動き出すかもしれない。」
シェーシャがアニルに言った。アニルは黄色い紐を池の中から取り出そうと、池の中に手を入れようとした。屈んで手を伸ばすと、池の水が気泡をあげてざわついた。アニルは手を引っ込め、そこにいた全員も息を呑んで池を見張った。
池から上がる気泡のシュワシュワという音と共に、水面が盛り上がり、まるで噴水のように天に向かって水柱を上げた。噴水は独りでに水を吸い上げては落とすという循環を繰り返した。池の蓮の花は噴水によって作り出される波に揺られていた。それを見てアニルはこの現象が何なのか分かったようだった。アニルは立ち上がるとゆっくりと道を開けるように池の淵から離れた。
噴水はしばらくすると真ん中の上の方から二つに割れた。割れ目から人らしきものが見えた。割れ目からナリニーが現れた。ナリニーは水に濡れている様子もなく、穏やかな表情で水面に立っていた。まるでアメンボのように足が水に浮いていた。ナリニーは屈むと、黄色い紐を水の中から引き上げた。そして水の上を歩き、池の淵を乗り越えると黄色い紐をアニルに差し出した。アニルは表情一つ変えず、紐を受け取った。誰もがこの光景を見て自分の目を疑った。
「ナリニー!」
ハルシャ王子が前に進み出た。ナリニーはハルシャ王子を見つけると微笑んだ。
「良かった、ナリニー!生きていたんだね!」
ハルシャ王子が嬉々《きき》として言った。
「ハルシャ王子もご無事で何よりですわ!」
ナリニーがいつも通りの優しい声で言うと、ハルシャ王子はナリニーに飛びついた。
「一体どういうことだ?」
その光景を見て、ラーケーシュの応急処置を終えたスバル医薬長が言った。ラーケーシュは気を失ったままスバル医薬長の足元で横たわっていた。
「魔物に襲われたのでは?」
プータマリ司書長も言った。
「さては、人間ではないな?」
再びソミンに剣を突きつけられているシンハが言った。スバル医薬長とプータマリ司書長はシンハに鋭い視線を投げた。アニルはシンハの方を見もしなかったが、良く勘が働くことに感心していた。
「ナリニー、これ以上隠しておくことはできない。本当のことを言ったらどうだ?」
アニルが促すように言った。ナリニーは自分を見上げるハルシャ王子の顔を見てから視線を全員に向けた。その場にいた全員がナリニーを見ていた。
「分かりましたわ、アニル様。皆様に本当のことをお話します。」
ナリニーはそう言ってもう一度ハルシャ王子を見た。
「実は、私はその池に咲いている蓮の花の精霊なのです。」
ナリニーが池を指して言った。全員が池の中に咲いている薄桃色の蓮の花を見た。
「もともとは形を持たず、精霊の中でも弱い存在だったのですが、先代の祭司長が力を貸して実体を持たせてくださいました。私の正体は秘密になっていて、知っているのは先代とアジタ祭司長、ラージャ王、そしてアニル様の四人だけでした。」
ナリニーが言った。全員ナリニーの正体を知って驚いた。特にスバル医薬長とプータマリ司書長は驚きを隠せない様子だった。
「全く気づかなかった。この城に人外のものがいたとは…。」
スバル医薬長が言った。
「私も気づきませんでした。精霊が人の姿をして侍女として働いているなんて…。」
プータマリ司書長が言った。
「アニル、お前はいつから知っていたのだ?」
そう尋ねたのはスバル医薬長でもプータマリ司書長でもなく、シンハだった。剣を背中に突きつけられながらふてぶてしく言った。
「次期祭司長に決まった後か?」
シンハが妬みと憎しみを込めた視線をアニルに送った。
「いいえ、最初からです。先代がナリニーを作った時から知っていました。実を言うと、その時からアジタ祭司長の次に私がこの国の祭司長になることは決まっていました。先代がアジタ祭司長にその座を譲るときにそう約束させましたから。」
アニルがそう言うと、三人の祭司たちはアニルの方を見て固まった。
「どういうことです?」
プータマリ司書長が黒縁メガネの奥の目を大きく見開いて尋ねた。
「三人である取り決めをしたのです。先代がアジタ祭司長を次ぎの祭司長に指名し、アジタ祭司長が私を指名する。私は祭司長決定権利を放棄し、アジタ祭司長に私の次の祭司長を選ばせるとね。」
シンハは瞬きもせずにアニルを見ていた。
「なぜそんなことを?」
スバル医薬長が尋ねた。
「先代は偉大な預言者でした。先のことを考えてのご判断だと思い、アジタ祭司長も私も何も聞かず、その言葉に従いました。」
シンハは虚ろな目をしていた。自分がしたことの無意味さに気づいたのだった。自分を選ばなかったアジタ祭司長を恨み、罠に陥れた自分が愚かに思えた。
「シンハ。」
アニルが名前を呼んだ。シンハはアニルの顔を見た。アニルはその鷹の目でシンハのうつろな目を捉えて言った。
「アジタ祭司長が選んだのはあなただったのですよ。」
責めるのでもなく、詰るのでもなく、ただ事実をアニルは伝えた。スバル医薬長とプータマリ司書長は顔を歪むほど眉を顰めたが、シンハの蒼白とした顔をよりはましだった。
「さあ、裏切り者を連れて行きましょうか。」
アニルはやるせなく言った。




