第四十六章 冥界の池に棲む魔物
第四十六章 冥界の池に棲む魔物
ナリニーはハルシャ王子を王子の部屋に連れ戻っていた。中にはまだラーケーシュがいた。
「どうしたんですか?」
ラーケーシュが息を切らして入って来た二人に驚いて言った。
「シンハ様が裏切っていたのです。今アニル様が捕まえようとなさっています。」
ナリニーが答えた。
「ええっ!?」
ラーケーシュは耳を疑った。
「まさかシンハ様が!?あんな高潔な方が!?」
ラーケーシュは信じられず、シンハの肩を持つように言った。
「自分でそう言ったんだ!間違いないさ!」
ハルシャ王子が息を切らして怒ったように言った。ナリニーに手を引かれてここまで来たが、シンハに思うところがあるようだった。
「どうしよう、そうだ、西の棟に知らせなくては!」
ラーケーシュは混乱していた。
「それは扉の前にいた警備兵に頼みましたわ。」
ナリニーが言った。
「ええと、じゃあ、私は何をしたら…」
ラーケーシュは頭を抱えてウロウロしながら言った。
「アニル様もシンハ様もかなりの力を持った術者。お二人の争いに巻き込まれないようここにいるのが一番ですわ。それにもしもの時、ハルシャ王子を守れる者がいなければなりません。」
ナリニーはラーケーシュにこの場に留まるように促した。
「そうか!私がハルシャ王子をお守りしなければ。」
ラーケーシュは少し落ち着きを取り戻して言った。ハルシャ王子はそんなラーケーシュを見て一つの疑問が浮かび上がった。
「ところで、ラーケーシュは一体何ができるんだ?ラーケーシュの力をまだ一度も聞いたことがないし、見たこともない。」
ハルシャ王子は王宮で襲われた時、ラーケーシュが術を使わなかったことを思い出しながら言った。
「私は何もできません、ハルシャ王子。」
ラーケーシュはそう答えた。
「何もできない?」
ハルシャ王子が聞き返した。
「謙遜なさっている場合ではありませんわ、ラーケーシュ様!」
ナリニーが叱るように言った。ナリニーもシンハに対抗できる術をラーケーシュが持っているか確かめておきたかったのだ。
「本当に何もできないんだ。ナリニー。私はこのスターネーシヴァラ国で唯一、幽霊も見えなければ、スプーン一つ曲げることもできない。まして風を操ったり、影を操ったりする特殊能力なんてもってのほか。星見の技術だけでここにいる文官とさして変わりのない祭司なんだ。」
ラーケーシュは正直に言った。ナリニーは言葉を失った。
「何で祭司になれたんだ?スターネーシヴァラ国では特殊能力がなければ祭司になれない決まりじゃなかったのか?」
ハルシャ王子が問いただすように言った。
「そうです。ですが、アジタ祭司長の一存で受け入れられました。」
ラーケーシュは少し気まずそうに答えた。
「アジタ祭司長が!?」
ハルシャ王子は耳を疑った。どんな訳があって特殊能力のないラーケーシュを祭司として迎え入れたのだろうと考えを巡らせた。一方ナリニーは特殊能力もなく、剣も携えてもいないラーケーシュでは心もとない限りだと思っていた。
「分かりました。もしもの時には私が盾になってお二人をお守りします。ラーケーシュ様はハルシャ王子を連れて逃げてください。」
ナリニーは覚悟を決めたようにそう言った。
「ナリニー、君ににそんなことさせられないよ。」
ラーケーシュは言った。その時、ナリニーはラーケーシュの肩越しに、窓の外でギラギラ光る刃物のようなもが見えた。けれどラーケーシュは背を向けているので気づいていなかった。ナリニーが良く見ようと目を凝らすと、鋭い爪を持った緑色の魔物がハルシャ王子の部屋の中に飛び込んできた。
「きゃああああああ!」
ナリニーは叫びながらラーケーシュを突き飛ばして魔物の一撃から救った。魔物は再びラーケーシュを狙おうとした。それを阻止しようとハルシャ王子が近くにあった本や置物、クッションを手当たり次第投げつけた。
魔物は鋭い爪でそれらを切り刻み、ついに投げるものが何もなくなったハルシャ王子に目を留めた。ラーケーシュもナリニーもまずいと思った。先に飛び出したのはナリニー方だった。ナリニーは魔物とハルシャ王子の間に立ちはだかった。
「ナリニー!」
ラーケーシュが叫んだ。魔物はナリニーに襲い掛かった。その爪がナリニーを引き裂いた瞬間、花びらが散った。薄桃色の蓮の花びらだった。ハルシャ王子は何が起きたのか、訳が訳が分からなかった。ただナリニーが自分を庇って、目の前から消えたことだけは分かった。蓮の花びらが床にハラハラと落ちた。
魔物は再び容赦なくハルシャ王子に襲い掛かろうとした。今度はラーケーシュが庇おうとしたが、その前に部屋の扉を開けて誰かがやって来た。その誰かはハルシャ王子に襲いかかろうとする魔物を見るや否や火の玉を浴びせた。
「ルハーニ!」
ハルシャ王子が扉の方を振り返って言った。ルハーニと一緒に侍女のギリジャーとスグリーヴィー侍女長もいた。ルハーニはシンハから逃げて庭の茂みに潜んでいたところを侍女たちに見つけられ、助けてもらったのだった。
「まだ生きてるわ!」
ギリジャーが恨めしそうにこちらを睨んでいる魔物を指して言った。ギョロっとした目がルハーニを捉えていた。
「また来るぞ、ルハーニ!」
ルハーニの肩に乗っているクールマが言った。ルハーニは身構えた。けれど、魔物は何を思ったのか、突然甲羅の中に身を隠した。全員がどうしたのだろうと首をかしげ、もしかしたら降参の合図かもしれないなどと思った。けれどそれは降参の合図などではなかった。魔物は奥の手を出そうとしていたのだ。
魔物は甲羅から手足の鋭い爪だけを出し、クルクルと回り始めた。ルハーニには何をしようとしているのか分かった。魔物は円盤のように飛び上がると、ルハーニ目がけて襲い掛かってきた。
「伏せて!」
ルハーニはそう叫びながら横に飛びのいた。全員その場で身をかがめた。魔物は全員の頭スレスレのところを飛んだ。ルハーニは魔物に狙いを定めて火の玉を放った。火の玉は魔物に命中した。
「やった。」
ハルシャ王子が言った。他の皆も顔を上げてほっとしたような笑顔を見せた。けれど魔物の回転は止まらなかった。ルハーニの攻撃がまったく効いていないようだった。魔物は旋回して来た。
「逃げるんだ!」
ラーケーシュが叫んだ。ギリジャーとスグリーヴィー侍女長の甲高い悲鳴が部屋中に響いた。魔物は今度、誰彼構わず音がする方に反応して襲い掛かった。全員が悲鳴を上げながら部屋の中を逃げ惑っていたので、あちこちに飛び回った。時々、壁に激突したりしたが、壊れたのは壁の方で、甲羅にはひびさえ入っていない様子だった。
「ルハーニ、あいつは甲羅の中に潜っているせいで目が見えていない。音がしなくなれば確認するために甲羅から出てくるはずじゃ。そこを狙うんじゃ。甲羅は丈夫過ぎて歯が立たん。」
クールマが逃げ惑うルハーニの肩にしがみつきながら言った。
「分かった。」
ルハーニはそう言うと、本棚の影に身を隠した。
「皆、隠れて動かないで!」
ルハーニはみんなに向かって言った。
「隠れるってどこに?」
ギリジャーが逃げ惑いながら叫んだ。
「ギリジャーとスグリーヴィー侍女長はベッドの下に隠れて!ハルシャ王子は机の下に!私はソファーの裏に隠れます。」
ラーケーシュがキビキビとした口調で指示した。全員すぐに行動に移した。ハルシャ王子は机の下に潜り込み、ギリジャーとスグリーヴィー侍女長は這いつくばってベッドの下に入り込み、ラーケーシュはソファーの後ろに身を潜めた。
部屋が静かになると、魔物は回転を徐々《じょじょ》にゆるめ、最後には止まった。甲羅が床の上にコツンと音を立てて落ちた。
ルハーニはその様子を、息を呑んで見守っていた。魔物は甲羅から顔と手足を出した。そして立ち上がるとあたりをギョロギョロと大きな目で見回した。
ルハーニは魔物の背後にいた。魔物はまだルハーニには気づいていなかった。ルハーニは息を殺して魔物に向けて手をかざした。魔物は後ろを振り返った。その瞬間に魔物の顔めがけて火の玉を放った。魔物は火の玉を正面から食らい、二、三メートル吹っ飛ばされて床の上に仰向けに倒れた。魔物は動かなかった。
「死んだのか?」
ハルシャ王子は机の下から心配そうに訪ねた。ルハーニは恐々魔物に近づいた。魔物の顔は黒くすすけていたが、ちゃんと呼吸をしていた。
「まだ生きとる。気を失っているだけじゃ。」
クールマが言った。ルハーニは一歩後ろに下がった。
「この化け物は一体何なんだい?どこから沸いて来きたんだい?」
スグリーヴィー侍女長がベッドの下から這い出して尋ねた。
「分からん。わしもはじめて見る。ずぶん丈夫な甲羅じゃのう。」
クールマは魔物の甲羅をしげしげと眺めながら感心したように言った。
「その化け物がナリニーを襲ったんだ。」
ハルシャ王子も机の下から出てきて言った。複雑な顔をしていた。ナリニーがどうなったのかよく分からなかったからだ。
「その化け物がナリニーを襲って、そしたらナリニーが消えてその花びらが散ったんです。」
ラーケーシュがソファーの後ろから出てきてクールマに言った。
「もしかしてその化け物に襲われると花びらになってしまうとか!?」
ギリジャーが恐ろしげに言った。ハルシャ王子とラーケーシュは床の上に落ちた花びらを見た。ナリニーが魔物の爪に切り裂かれたかと思われた瞬間に花びらが散った。あり得ない話ではないと思えた。
「アニルのところに行こう。アニルなら何か知っているかもしれないし、何とかできるかもしれない。」
ハルシャ王子は一縷の希望にすがるようにそう言って花びらを拾い上げた。
「アニル様はシンハ様を捕らえましたか?」
ラーケーシュはスグリーヴィー侍女長に尋ねた。もし裏切り者のシンハがアニルを負かして王宮の中にいるとすれば、ハルシャ王子を部屋から出すのは危険だった。
「分かりません。皆シンハ様の裏切りすら知らない様子です。」
スグリーヴィー侍女長がラーケーシュに言った。
「シンハのことよりナリニーの命の方が大切だ。早くしないとナリニーが死んじゃうかもしれない!」
ハルシャ王子はラーケーシュに言った。
「お気持ちは分かりますが、あなたを危険にさらすわけにはいきません。シンハ様が捕まったと確認できるまでここにいて下さい。」
ラーケーシュはハルシャ王子の安全を第一に考えてそう言った。
「いやだ!僕はアニルのところに行く!」
ハルシャ王子は癇癪を起こした時のように叫んだ。その両手で花びらを大切そうに持っていた。ギリジャーとスグリーヴィー侍女長はそれを見てこみ上げてくるものがあった。ナリニーを助けられるのなら助けたいという気持ちは同じだった。けれどハルシャ王子の身の安全を考えれば、部屋から出るのには賛成できなかった。二人は黙ってハルシャ王子とラーケーシュのやり取りを見守っていた。
「私がハルシャ王子を守る。だからアニルさんのところに行こう。」
ルハーニがそう言った。全員がルハーニの方を見た。
「何を言っているのです!そんなこと認められるわけがないでしょう?」
ラーケーシュが叱るように言った。
「ルハーニはシンハ様の術から逃げ出せました。」
ギリジャーがおずおずと言った。その横に立っていたスグリーヴィー侍女長がギリジャーを睨みつけた。ギリジャーは顔を下に向けて黙った。
「ルハーニはシンハの術を破れる。ルハーニがついて来てくれるなら問題ないよ。」
ハルシャ王子はラーケーシュに言った。
「そんなのまぐれです。ルハーニがまだ子供だからわざと逃がしてくれたのかも。二人とも子供なんです。子供は大人の言うことを聞くものです。二人とも大人の私の言うことに従って、この部屋にいてください!」
ラーケーシュがいささか声を荒げて言った。
「何だその理屈は!」
ハルシャ王子が怒鳴った。
「説得力に欠けるのう。」
ルハーニの肩からクールマも言った。クールマはどちらの意見にも賛同していなかった。ただルハーニがハルシャ王子を守ると言い出したことに感心していた。
「もういい、ラーケーシュは来なくていい。行こう、ルハーニ!」
ルハーニは頷いた。二人は扉の方に走り出した。
「ハルシャ王子!」
ラーケーシュは呼び止めたが二人は部屋の外に出て行ってしまった。
「ああ、もう!」
ラーケーシュはイライラした声を漏らした。ギリジャーとスグリーヴィー侍女長はどうすればよいのか分からず、ただオロオロしていた。
「二人を追いかけます。ナリニーを元に戻すにはこの化け物も必要かもしれませんから、私が持って行きます。」
ラーケーシュはそう言うと、ギリジャーとスグリーヴィー侍女長を残し、ハルシャ王子を追いかけて部屋から出て行った。




