第四十五章 アビジートの蛇
第四十五章 アビジートの蛇
ソミンは西の棟の入り口の前にいた。急いでスバル医薬長とプータマリ司書長を呼ぶようにと、その場にいた祭司に頼んで二人を待っているところだった。ソミンであろうとも文官は中に入ることは許されなかった。スバル医薬長とプータマリ司書長がやって来ると、ソミンは二人にアニルとシンハのことを話した。ソミンは二人を連れて大慌てで王宮に向かった。けれどさっきまでアニルとシンハがいたところにはもう二人の姿はなかった。
「さっきまでここにいたのですが。」
ソミンが息を弾ませて言った。
「探しましょう。まだ近くにいるはずです。」
プータマリ司書長が言った。その時だった。どこかから叫び声が聞こえてきた。
「あっちだ。」
スバル医薬長が言った。三人は叫び声が聞こえてきた方角へ走り出した。廊下の隅に侍女が怯えて突っ立っていた。
「どうした!?」
ソミンが侍女に尋ねた。侍女は廊下の床を指しながら言った。
「蛇が…」
三人は目を落とすと、そこには一匹の白蛇がいた。
「あっ!」
ソミンはルハーニが連れていた蛇だということに気がついた。シェーシャの方もソミンに気がついた。シェーシャはルハーニたちとはぐれて王宮の中をさ迷っていていた。何も知らない二人の祭司はたかが蛇のために何をもたもたしているのかと苛立っていた。
「確かソミンという名ではなかったか?」
シェーシャが言った。突然蛇が若い男の声でしゃべりだしたので二人の祭司は度肝を抜かれた。
「そうです。シェーシャ。」
ソミンはそんな二人を尻目に答えた。
「大変なことになった。ルハーニが祭司に襲われた。」
シェーシャはソミンに助けを求めようとした。
「シンハの仕業か!?」
スバル医薬長がすばやく反応して言った。
「そうだ。そんな名前で呼ばれていた。一緒にいたジェイ警備隊長、チャカ、そしてクリパールという祭司もそのシンハとかいうのに影を捕らえて妙な術にかけられた。」
シェーシャがスバル医薬長に言った。
「クリパール?」
スバル医薬長が聞き返した。
「そう呼ばれていた。」
シェーシャはそう言って鎌首で頷いた。スバル医薬長はクリパールが生きていることを初めて知った。
「私とクールマは幸いにも術に掛からず、逃げられたが、クールマとははぐれ、ルハーニたちの姿はどこにも見当たらない。」
シェーシャは状況を説明した。シェーシャはルハーニが逃げおおせたことを知らなかった。
「我々は今、シンハを追っているところです。」
プータマリ司書長が複雑な顔をしてシェーシャに言った。蛇と話すのは当然初めてで、不思議な気がしていた。
「ならば私もついていく。」
プータマリ司書長の言葉を聞くと、シェーシャはそう言って飛び上がり、ソミンの肩に乗っかった。ソミンは蛇に巻きつかれて一瞬気持ち悪がるような表情を浮かべたが、それは仮面に隠れて二人の祭司には気づかれなかった。けれど、体が硬直したのでシェーシャにはソミンが自分を気持ち悪がっているということが分かった。
シェーシャはソミンの視界に入るところまで鎌首を持ってくると、不機嫌そうにシューと鳴きながら細長い赤い舌を出し無言の抗議をした。ソミンはシェーシャが何を言いたいのかよく分かった。
「行きましょう。」
先を急ぐようにプータマリ司書長が言った。ソミンは自分を睨みつけているシェーシャから目を離して走り出した。首の辺りが生温かいマフラーのせいで鳥肌が立った。
アニルとシンハは王宮の中庭に来ていた。中庭の池には月明かりに照らされた蓮の花が咲いていた。池を挟みながらアニルとシンハは睨み合いを続けた。
「その蛇を渡すんだ、シンハ。」
アニルはまた手を差し出した。
「渡せばどうなるかくらい分かっている。」
シンハは息を切らしながら言った。もう走り続けて体力の限界に達していた。それでも右手には黄色い紐のような蛇がしっかりと握られていた。アニルは鷹のような目で蛇を追っていた。シンハはふと池に目を落とした。シンハは微かに笑みを浮かべた。
「いいだろう。この蛇、お前にくれてやる!」
シンハはそう言うと、蛇を池の中に投げ込んだ。アニルは蛇を捕まえようと、すぐに池の中に入った。シンハはその隙に逃げた。
今宵は満月で、池の水面は鏡のように卵の黄身のような不気味な満月を映していた。
アニルは池に両足を突っ込んだところで動きを止めた。水に映っ《うつ》た不気味な満月の横で黄色の蛇が奇怪な動きをしていた。ぐるぐると狂ったように円を描いて泳いでいたのだ。
ぐるぐると円を描いているうちに、蛇は黄色の輪になった。アニルは目を見張った。黄色の輪の内側の水の色が緑色に変わり、輪の中から何かが飛び出してきた。飛び出してきたのは水の魔物だった。
皮膚は緑色で、手足には鎌のような鋭い爪と水かきがあり、頭は禿げていて、顔には大きな二つの黄色い目と大きな口が一つついていた。鼻はなく、空気穴のような二つの穴が開いているだけだった。お腹が異様に出ていて、背中に甲羅を背負った体長五十センチくらいの醜い魔物だった。
魔物は池から飛び出すとアニルに襲い掛かった。アニルはとっさに風の力で吹っ飛ばした。すると魔物は方向転換し、王宮の中に入って行った。
アニルは池を出て魔物を追いかけようとしたが、池を覗くと輪の中に禿げ頭が見えた。これからまだまだ出てくるという気配だった。
「封印が解かれれば災いが訪れる。」
アニルは先代の祭司長の言葉を思い出すようにつぶやいた。
「アニル殿!」
ソミンの声がした。スバル医薬長とプータマリ司書長と一緒に中庭へやって来た。
「アニル殿、シンハ殿は?」
ソミンがそう尋ねながら近づいてきた時、また輪の中から魔物が飛び出してきた。魔物はソミン目がけて襲い掛かった。
「危ない!」
アニルはそう叫ぶと、ソミンはとっさに剣を抜いた。剣と魔物の爪が交じり合う音が響いた。
魔物はソミンに一撃を受け止められると、再び次の攻撃を仕掛けてきた。ソミンはそれも受け止めた。魔物は手足を駆使して容赦なく襲い掛かってきた。ソミンも剣を振った。
「一体何事だ!?」
ソミンを襲っている魔物を見て、スバル医薬長がアニルに向かって尋ねた。
「災いです。封印が解かれてしまったのです。」
アニルは池の中の黄色の輪を見下ろしながら言った。輪の中からはまた禿げ頭が見えていた。
「どうすれば封印は元に戻るのです!?」
プータマリ司書長が尋ねた。
「私にも分かりません。」
アニルは落ち着いた口調で言ったが、切羽詰ったような顔をしていた。
池の中からまた一匹魔物が出てきた。その魔物はスバル医薬長に襲い掛かった。スバル医薬長は身をかわしながら懐から何かの粉袋を取り出した。それを魔物に投げつけると、魔物はその場に倒れ、甲羅の中に潜り込んだ。
「それは何です?」
プータマリ司書長が尋ねた。
「眠り薬だ。粉を吸わないよに。」
スバル医薬長はもう一つ取り出してソミンに襲い掛かっている魔物目がけて投げつけた。魔物はその場に倒れた。
「この化け物は何です?」
ソミンが粉煙を吸わないよう仮面の上から鼻と口を手で覆いながら、三人の司祭に近寄った。
「冥界の池に棲む魔物だ。」
アニルが『災い』だと答える前に、ソミンの耳元でシェーシャが答えた。アニルは何か知っているらしいシェーシャに驚いた様子で目を向けた。
「冥界の池に棲む魔物?」
プータマリ司書長がそんな話は聞いたことがないという様子でシェーシャに聞き返した。
「そうだ。その輪は冥界に穴をあける道具だ。穴は冥界の池につながっている。だから池に棲む魔物たちがこちらの世界に出てこられるんだ。」
シェーシャが池の中を覗き込みながら言った。
「どうすれば入り口を塞ぐことができるのです?」
アニルが今にも輪の中から出てきそうな禿げ頭を横目で見ながら真剣な口調でシェーシャに尋ねた。
「穴を塞ぐための呪文がある。それを教えてやる。」
シェーシャが言った。
「よしでは早速。」
スバル医薬長がやる気満々で腕まくりをした。
「ダメだ。呪文は蛇語だ。唱えるには人間なら四人必要だ。ソミンは能力者ではないから唱えても意味がない。私は蛇の姿にされている間、力を使えない。」
シェーシャがスバル医薬長の出鼻をくじいた。
「今すぐ封印できないんですか!?」
プータマリ司書長が声を上げた。ちょうどその瞬間、輪の中から一匹プータマリ司書長の方に向かって飛び出して来た。すかさずスバル医薬長が眠り薬の入った小袋を投げた。間一髪だった。プータマリ司書長は地面の上に丸まっている魔物を見て青ざめた。
「あと一人必要だ。」
スバル医薬長は落ち着いた口調で言った。その横でプータマリ司書長が神経をピリピリさせながら池の中の黄色の輪を覗き込んだ。まだ禿げ頭は見えてきてはいなかったが時間の問題だと思われた。
「ソミン指揮官、誰か祭司を呼んできてください。ここは我々が食い止めておきます。」
スバル医薬長が焦る気持ちを抑えて言った。
「分かりました。蛇語が分かる祭司の方を呼んでくればいいのですね?」
ソミンが確認を取った。
「いいや、蛇語を理解している人間はいないはずだ。」
シェーシャがソミンの耳元で言った。シェーシャはアニルの肩に飛び移った。
「どういうことです?」
ソミンは首の辺りをさすりながら聞き返した。
「蛇語は伝説上の言語なんです。冥界の民が使うと言われていて、古代文明の遺跡の中から発見された古文書や石碑の中にそれらしいものがあるのですが、未だ解読した者はいません。」
プータマリ司書長がシェーシャの代わりに説明した。
「私の言ったとおりに言えばいい。祭司なら誰でもいいから早く連れて来い。」
ソミンにシェーシャが言った。
「ソミン指揮官、魔物一匹とシンハを取り逃がしました。シンハは相手の影を踏んで足の動きを封じます。名前が分かれば影を踏んでいなくても相手を意のままに動かすこともできます。どちらもまだ王宮にいるかもしれませんので気をつけてください。」
アニルはソミンに忠告しておいた。
「分かりました。」
ソミンはそう言うと、走り出した。




