第四十三章 王の帰還
第四十三章 王の帰還
その日は快晴の青空が広がっていた。カルナスヴァルナ国が攻めて来るという問題さえ抱えていなければ外へ遊びに行きたくなるような天気だった。
ナリニーはいつものように王宮の中庭の蓮の池にたたずんでいた。池にはたくさんの薄桃色の蓮の花が咲き誇っていた。ナリニーはラージャ王が死んだと聞かされてから、いつもここで池の中を覗き込んでいた。仲間の侍女たちはそんなふうに塞ぎこんでいるナリニーに声を掛けることもできず、遠巻きに見守っていた。
「ナリニーはどうしてる?」
スグリーヴィー侍女長が外廊下から中庭にいるナリニーの後姿を見ながらギリジャーに尋ねた。
「いつもの通りです。蓮の池から動こうとしません。」
ギリジャーは静かに答えた。
「そうかい。」
スグリーヴィー侍女長は痛々《いたいた》しげな顔をした。
「どういたしましょう。」
ギリジャーが心配そうに言った。
「放っておいてあげなさい。今は何を言ってもあの子の心には届かないよ。」
スグリーヴィー侍女長はそう言った。自分の経験から出た重みのある言葉だった。心配で居ても立ってもいられないギリジャーは『でも』と言いかけて口を開いたが、すぐに『はい』と返事をして引き下がった。
ナリニーは自分の後ろでそんな会話が取り交わされているのにも気づかず、ただ池を真剣な眼差しで覗き込んでいた。まるで何かを探しているかのように。
「ナリニー、いつまでそうしているつもりだ?」
ナリニーは突然背後から声を掛けられた。ナリニーは振り返った。そこにいたのは大臣たちとの会議を終えたばかりのアニルだった。スグリーヴィー侍女長たちが去ったのを見計らってやって来たのだった。
「アニル様。」
ナリンが元気のない様子でアニルを見て言った。
「ずっとそうしていては皆が心配する。」
ナリニーは反省したようにうつむいた。
「そもそもそこで何をしている?」
アニルは鋭く言った。ナリニーはうつむいたまま黙り込んだ。
「ナリニー、答えなさい。」
アニルは厳しい口調で言った。
その時だった。池の水が急に大きな空気の泡を吹き出してボコボコという音を立てた。ナリニーは池の中を覗き込んだ。ボコボコと音を立てる空気の泡が壊れて、今度は小さな気泡がシュワーという音を立てて出てきた。そして何かが水底から浮かび上がってきた。それを見た途端、ナリニーはその場に崩れ落ちた。アニルは一体何が起きたのかという顔で池の中を覗き込んだ。アニルの目が驚きで大きく見開かれた。
「ラージャ王!」
アニルは目を疑った。けれど確かに青空の下、蓮の花に囲まれ、水面に浮かぶラージャ王の亡骸があった。アニルはラージャ王の顔を覗き込んだ。いつかラージャ王が夢で見たのと同じ光景がそこにあった。
「ナリニー、これは一体どういうことだ?」
なぜラージャ王の亡骸がここにあるのかアニルには訳が分からなかった。
「シーツにまじないをかけたのです。ラージャ王が王宮に戻りたいと思えばいつでも帰って来られるようにと。」
ナリニーはか細い声で答えた。アニルは服が水に濡れるのも構わず、池の中に入ると、ラージャ王の亡骸を抱え出した。
「最後の最後で帰りたいと思ったらしい。ハルシャ王子にお知らせして、葬儀の間へ連れて来てくれ。他のものにはくれぐれも気づかれないように。」
アニルは迅速に指示を出したが、ナリニーはすぐには動かなかった。ただ呆然とラージャ王の亡骸を見つめていた。そんなナリニーをアニルは一睨みした。
「ナリニー、自分の役目を忘れたのか?」
アニルが鋭い口調で言った。ナリニーは我に返ったような顔をした。
「今すぐにハルシャ王子を葬儀の間へ連れてきてくれ。」
アニルはもう一度言った。
「分かりました。サクセーナ大臣にはお知らせしなくてよろしいのですか?」
ナリニーは冷静さを取り戻して言った。
「ああ、知らせなくていい。サクセーナ大臣は内通者かもしれない。」
「え?」
「ハルシャ王子を襲った五人はカルナスヴァルナ兵だった。その五人にサクセーナ大臣は紹介状を書いている。」
「まさかそんな…!」
ナリニーが青ざめた顔で言った。
「今は誰も信用できない。サクセーナ大臣を含めて全員。君も気をつけるんだ。裏切り者がいるかもしれない。」
アニルは厳しく言った。
「分かりましたわ。ハルシャ王子以外決して知られぬように致します。」
ナリニーはそう言うと、ハルシャ王子の部屋へ向かった。
ハルシャ王子の部屋には警備兵が二人ついていた。
「祭司アニル様の使いで参上致しました。」
ナリニーは二人の兵士にハルシャ王子に用があることを伝えると警備兵は部屋の中に入ることを許可した。部屋の中にはハルシャ王子とラーケーシュが一緒にいた。
「ハルシャ王子、私と一緒に来てください。」
ナリニーは有無を言わせない口調でハルシャ王子に言った。
「どうかしたの?」
ハルシャ王子は心配そうに尋ねた。ナリニーがいつもと様子が違うことを感じ取ったのだ。
「ここでお話しすることはできません。一緒に来てください。」
ナリニーがキビキビとした口調でもう一度そう言った。
「私も一緒に行きます。」
そこへラーケーシュが口を挟んだ。ナリニーはラーケーシュを見た。連れて行くわけには行かなかった。
「アニル様のご命令です。ハルシャ王子以外連れて行くことはできません。」
ナリニーはきっぱりと言った。
「さあ、参りましょう、ハルシャ王子。」
ナリニーはラーケーシュがつべこべ言う前に強引にハルシャ王子を連れて行こうとした。ハルシャ王子は幼い時からナリニーに可愛がられ、姉のように慕っていたので素直に従った。
「ラーケーシュ、僕、行って来るからここで待ってて。」
ラーケーシュはショックを受けたような顔をした。ラーケーシュはハルシャ王子が自分も一緒に連れて行くようナリニーに言ってくれることを期待していた。
「私はここに置いてけぼりですか?」
ラーケーシュがまさかという調子で言った。
「西の棟に戻っててもいいぞ。」
ハルシャ王子は疲れているであろうラーケーシュを休ませるためにそう言ったつもりだったが、ラーケーシュには厄介払いされたように聞こえた。身を挺して守ったはずなのに、こんな扱いを受けるなんて不当だと思った。
「では失礼いたします、ラーケーシュ様。」
ナリニーは不服そうなラーケーシュを尻目に、そう言ってハルシャ王子を連れて行ってしまった。ラーケーシュは愕然とした表情で二人の後姿を見送った。
「ねえ、ナリニーどこへ行くの?」
ハルシャ王子が廊下を歩きながら尋ねた。
「葬儀の間ですわ。」
「葬儀の間?」
ハルシャ王子はそう聞き返してナリニーの顔を見上げたとき、ナリニーの目が涙ぐんでいるのに気づいた。歯を食いしばって泣くのを堪えているようだった。
二人は葬儀の間に到着した。葬儀の間は豪華な透かし彫りを施してある部屋だったが、暗く、明るい気分になれるような場所ではなかった。
葬儀の間の奥にある寝台の横にアニルがいた。寝台には誰かの亡骸があった。ナリニーは堪えきれずに涙を流していた。ハルシャ王子はまさかと思いながらナリニーと一緒に寝台に近づいた。寝台にはラージャ王の亡骸があった。
「兄上!」
ハルシャ王子の目からも涙が溢れて来た。泣きながらラージャ王の亡骸に抱きついた。
「ナリニーがまじないをかけていて、亡骸が戻ってきました。」
アニルは静かに言った。ハルシャ王子はアニルの言葉など聞こえていないかのように泣き続けた。亡骸を見るまでは亡くなったという実感がなかった。もしかしたら生きているのではないかという希望すら持っていた。けれど今、その希望は打ち砕かれて、現実としてラージャ王の亡骸を突きつけられた。ハルシャ王子は辛くて、悲しくて泣くしかなかった。
「ハルシャ王子、考えたのですが、カルナスヴァルナ国に不可侵協定を申し込むというのはどうでしょうか?シャシャーンカ王はおそらく全面戦争を避けたがっています。全面戦争になればたとえ勝ったとしても国が疲弊し、その隙を突いて他国に攻められますから。だから今回の一件を水に流すことを条件に不可侵協定を申し込めば、これを飲むはずです。不可侵協定の書簡は使者として私が届けます。そうすれば万が一シャシャーンカ王がこちらの申し出を断った場合、呪いをかけることができますから。」
アニルは泣き続けるハルシャ王子に容赦なく淡々《たんたん》と語った。
「今回の一件をなかったことにするだと!?」
ハルシャ王子が泣き顔を上げて唸った。
「そうです。」
アニルは躊躇いなくそう言った。
「兄上は殺されたんだ。それを水に流すことになんかできるものか!」
ハルシャ王子はアニルに向かって叫んだ。その声は葬儀の間に反響して不気味な音を立てた。
「その通り。ラージャ王は亡くなられました。ですからラージャ王なしでこのスターネーシヴァラ国はこの窮地を脱しなければなりません。ラージャ王がご存命なら別の手立てもあったかもしれません。兵を起こし、カルナスヴァルナ軍を迎え撃つという選択肢もあったかもしれません。けれど残念ながらラージャ王は帰らぬ人になってしまわれた。そして次の王はほんの子供のあなたです。ほんの子供のあなたの下で命を懸けて戦う兵士などいません。このスターネーシヴァラ国は生き残るために知恵を振り絞って戦を回避するしかないのです。」
アニルは今までに見せたことがないような真剣な表情でそう言った。けれどハルシャ王子は耳を貸そうとはしなかった。
「なんて奴だ!アニル!お前はスターネーシヴァラ国を守るためなら兄上の死をも利用しろと言うのか!?お前に兄上の死を悲しむ気持ちは無いのか!?」
ハルシャ王子はアニルが非情だと思った。なぜ一緒に泣くことができないのだろうと思った。人として何か欠けているのではないかとさえ思った。
「ハルシャ王子、どうかアニル様の言うとおりにしてください。」
その時、一緒に泣いていたナリニーが言った。
「私はラージャ王のシーツにまじないをかけました。王宮に帰りたいと思えばいつでも帰ってこられるようにと。ラージャ王は亡くなる間際にそう思ったのです。だから帰って来られたのです。私はラージャ王がそこまで懐かしんだこの国を守りとうございます。」
ナリニーは泣き腫らした目で力強くそう言った。ハルシャ王子はラージャ王の顔を見た。安らかな寝顔だった。最後の最後まで故郷のスターネーシヴァラ国を思って逝ったのだった。それはハルシャ王子にも感じられた。
「分かった。ナリニー。アニルの言う通りにする。」
ハルシャ王子は静かに言った。
「ラージャ王の火葬は明日。国民には伏せて行います。」
アニルは再び容赦なく言った。ハルシャ王子は耳を疑って、アニルを見た。
「今ラージャ王の死を表沙汰にする訳には行きません。カルナスヴァルナ国だけではなく、他の国々にも隙を見せることになります。」
アニルはきっぱりと言った。ハルシャ王子は申し訳なさそうにラージャ王の顔を見た。若くして王位に就き、歴代の王の誰よりも国民に支持され、愛された国王だった。ラージャ王の死を知れば誰もが花を捧げに来るはずなのに、ひっそりと隠れるように見送るのかと思うと、残念でならなかった。
「誰もが兄上の死を悼むはずなのに。」
ハルシャ王子がつぶやいた。
「あなたとナリニーに見送ってもらえればラージャ王はお喜びになるでしょう。」
アニルは少し優しい声になって言った。アニルもやはりラージャ王の死を惜しんでいるのだった。
「さあ、そろそろ行きましょう。カルナスヴァルナ軍がこちらやってくる前に手を打たなければ。」
アニルがハルシャ王子とナリニーに言った。三人は葬儀の間を後にした。




