第四十二章 帰って来た裏切者
第四十二章 帰って来た裏切者
勢いに任せて王宮に入ろうとしたが、みすぼらしい格好で全力疾走するクリパールは人目を引いた。すぐに城を巡回している二人の警備兵に捕まった。
「放してください!」
クリパールは暴れた。
「怪しい者を放って置くわけにはいかない。」
警備兵は言った。その声は偶然にもチャカと立ち話をしていたジェイ警備隊長たちにも聞こえた。ジェイ警備隊長は警備兵と揉み合っているみすぼらしい若者に見覚えがあった。
「クリパール殿?」
ジェイ警備隊長がそう声を掛けるとみすぼらしい若者は動きを止めた。ジェイ警備隊長はそれがクリパールだと確信した。
「二人ともお放ししろ!こちらは祭司のクリパール殿だ。」
二人の警備兵は慌てて手を放した。
「二人の非礼をお許しください。」
ジェイ警備隊長は二人の兵士に代わって謝った。
「いいえ、そんなことはどうでもいいんです!それより、早く王宮に行って知らせなければいけないことがあるんです!」
クリパールはせっかちに言った。一刻も早くシャシャーンカ王の魔の手が迫っていることを伝えなければと思っていたのだ。
「ラージャ王のことですか?」
ジェイ警備隊長が尋ねた。クリパールは驚いたような顔をした。
「ラージャ王のことでしたらもう知らせが来ています。それにカルナスヴァルナ国がこのスターネーシヴァラ国に攻めて来ようとしていることも。」
「どうしてそれを…」
クリパールはそう尋ねてからそうだと思い出した。カルナスヴァルナ城の罠に陥らず、逃げおおせたのはクリパール一人ではなかったことを。
「シンハ様!」
クリパールは思わず興奮してその名を口にした。シンハが生きて城にラージャ王の死とシャシャーンカ王の裏切りを知らせたのだと思ったのだ。シンハが生きていたということはクリパールにとって大きな喜びだった。全身に力が戻って来るのを感じた。
「シンハ殿?」
しかしジェイ警備隊長はクリパールの口からシンハの名前が出た理由が分からなかった。そんなジェイ警備隊長に気づいてクリパールの笑顔が薄れた。
「シンハ様がお帰りになって皆に知らせたのではないのですか?」
クリパールは尋ねた。
「いいえ、知らせてくださったのはアジタ祭司長の遣したカラスの伝言を聞いたラーケーシュ殿です。そしてハルシャ王子がアニル殿を呼び戻されました。」
ジェイ警備隊長はそう答えた。
「そうですか。シンハ様はお戻りではないのですね。」
クリパールは肩を落として言った。
「クリパール殿、それはどういう意味ですか?」
ジェイ警備隊長は尋ねた。
「アジタ祭司長、サチン様、アビジート様は罠に陥り、矢を浴びました。助かる怪我ではありませんでしたので、命が尽きるのは時間の問題でした。それはこの目ではっきりと見たので間違いありません。けれどシンハ様とは途中ではぐれてしまったので安否が分からないのです。もしかしたら生きてカルナスヴァルナ城から出て、このスターネーシヴァラ城に戻っているのではと思ったのです。」
クリパールは静かにそう言った。ジェイ警備隊長は掛ける言葉がなかった。話から壮絶な光景が目に浮かんだ。
「先ほど王宮で会議が終わったところです。スバル医薬長もプータマリ司書長も西の棟にお戻りでしょう。まずは西の棟へ無事お帰りになったことをお知らせしてください。」
ジェイ警備隊長がそう言うと、クリパールは力なく頷いた。
「チャカ、私はクリパール殿を西の棟にお送りする。ルハーニを頼んだ。」
「分かりました。」
チャカが返事をした。チャカもルハーニも傷ついてボロボロになったクリパールの姿に胸を痛めた。
「西の棟とは何じゃ?」
ルハーニの肩からクールマが唐突にその場の空気に合わない調子で尋ねた。クリパールは驚いてジェイ警備隊長の横に立っている亀と蛇を肩に乗せている少女に目を落とした。
「祭司の方々の宿舎のことです。」
ジェイ警備隊長がクールマに答えた。
「祭司の弟子になったルハーニもそこに住むのか?」
シェーシャが尋ねた。クリパールは亀がしゃべるので、蛇もしゃべるのではないかと予想はしてはいたが、やはり驚いた。
「さあ、どうでしょう。祭司の決まりごとは私には分かりかねます。」
ジェイ警備隊長は困ったように言った。祭司たちはアニルがルハーニを弟子にしたことを快く思っていなかった。祭司見習いとして西の棟に住むことは叶わないだろうと思われた。
その時だった。馬の蹄の音がした。どんどん近づいて来た。音がする方を向くと、踏み潰さん限りの勢いで馬がまっすぐこちらを目指してやって来た。乗り手は四人にぶつかるか、ぶつからないかというところで手綱を引いた。乗り手は白い衣を着た祭司だった。カルナスヴァルナ国から馬を走らせてやって来たシンハだった。シンハは恐ろしい形相で馬の上からクリパールを見下ろしていた。
「シンハ様?」
クリパールは自信なさ気に言った。無理もないことだった。シンハは目を見張るほどの変貌を遂げていた。格好は門番たちに疑われるほどみすぼらしくはなかったが、ずいぶんくたびれていた。
手や足には小さな擦り傷をたくさん作り、手当てした跡はなかった。疲れているせいか、目が血走り、異様にギラギラしていた。それがシンハらしい物静かで厳格な雰囲気を一変させていた。シンハは四人の目の前で堂々と馬を下りた。
「クリパール、帰っていたのですね。無事で良かった。」
シンハは抑揚のない声で言った。その顔はとてもクリパールの帰還を喜んでいるようには見えなかった。むしろ生きていることを忌々《いまいま》しく思い、呪っているように見えた。もはや気高く、高潔な祭司であった頃のシンハの面影はなかった。
「シンハ様もご無事で何よりです。」
クリパールはあまりにも変わり果てたシンハの形相に怯えながら言った。
「クリパール、戻ってきたのはあなた一人ですか?」
シンハはまた抑揚のない声で尋ねた。
「はい。」
クリパールは正直に答えた。
「そうですか。」
シンハは残念そうにする素振りなど見せなかった。何も感情を読み取らせない無表情を維持していた。けれど目だけは異様な輝きを放っていた。シンハはクリパールの身なりをじろじろと眺めた。まさに今帰ってきたばかりという様子だった。シンハの目が危険な光を帯びた。
「太陽は東から昇り、西に沈む。影は日を遮るものに生ずる。」
シンハは詩を口ずさむように言った。誰もまさかシンハが術を使おうとしているとは思わなかった。
「我、汝らの影を捕らえた。」
シンハがそうつぶやいた瞬間、クリパールは恐る恐るシンハの足元を見た。シンハはジェイ警備隊、チャカ、ルハーニ、そして自分を含めた四人の影をしっかりと踏んでいた。クリパールはシンハの術に掛かってしまったことを悟った。四人とも足が急に動かなくなったのでおかしいと思いはじめた。クリパールはもう一度シンハの足元を確認した。シンハはクールマとシェーシャの影は捕らえていなかった。
「二匹を逃がして!」
クリパールはルハーニに向かって言った。ルハーニがクールマとシェーシャに逃げるように言う前に二匹はルハーニの肩から飛び降りた。シェーシャは音もなく地面に着地し、ニョロニョロと体をくねらせて逃げた。一方クールマは硬い甲羅を地面にぶつけて着地をし、短い足で一生懸命走ったが限界があった。シェーシャはもうその姿を隠しているというのに、クールマは未だに大人一歩分の距離すら進むことができていなかった。シンハは二匹を逃がした理由を知らなかったが、わざわざ逃がしたところを見ると何かあると感じていた。
「クリパール、ジェイは動けない。」
シンハはそう言って影から足をどけた。影は開放されたはずなのに二人の足どころか、体は石になったように微動だもしなくなった。シンハはチャカに近づいた。
「名は何と言う?」
「チャカです。」
チャカは恐怖に打ち震えながら言った。
「チャカは動けない。」
チャカも石のように動けなくなった。シンハはルハーニに近づいた。
「名は何と言う?」
ルハーニは答えなかった。シンハはまだ足元をジタバタ走っている亀に目を移した。
「あの亀はお前のか?」
ルハーニはシンハを睨みつけた。ルハーニは足を動かせなかったが、手ならまだ動かせた。手をシンハの足元に向けてかざし、すばやく火の玉をシンハの足元に落とした。シンハは驚いて飛びのいた。その瞬間、シンハの足がルハーニの影から離れてルハーニは自由になった。ジェイ警備隊長とチャカはそれを見てもっと早くにそうしてくれればと思った。ルハーニは身を翻すと足元でバタバタしているクールマを掴んで逃げた。シンハは後を追おうとしたが、三人をここに置いておくわけにはいかないので迷った末に諦めて放っておくことにした。
「子供になにができる。」
シンハはそうつぶやいた。




