第三章 ハルシャ王子
第三章 ハルシャ王子
「ハルシャ王子お待ち下さい!」
「離せ!お前なんか家庭教師じゃない。僕の家庭教師はアニルだ。」
「アニル様はもうここにはいらっしゃいません。どうか諦めて下さい。」
「うるさい!離せ。」
赤い布地に金の刺繍を施した豪華な衣装を身に纏った少年と真っ白い衣を身に纏った青年が言い争いながらラージャ王たちの方へやって来た。少年の耳にはラージャ王とお揃いの赤い宝石をはめ込んだ耳飾りがあった。この少年こそスターネーシヴァラ国王子ハルシャ・ヴァルダナ王子。そして青年の方は最近その家庭教師になったばかりの祭司見習いのラーケーシュだった。ハルシャ王子は部屋から逃げ出し、後を追いかけてきたラーケーシュがようやくハルシャ王子の腕を捕まえたところだった。
「ハルシャ王子、とりあえず部屋に戻りましょう。」
ラーケーシュがそう言いながらハルシャ王子の肩に手を置いた。
「いやだ。離せ!」
ハルシャ王子は乱暴にラーケーシュの手を振り払った。その光景を見たラージャ王は険しい表情になった。
「ハルシャ!」
ラージャ王の怒鳴り声が廊下に響き渡った。すると言い争っていた二人の動きがピタリと止まった。ラージャ王はハルシャ王子の方に近づいていくと、右手を振り上げ、勢い良くハルシャ王子の左の頬を引っ叩いた。鈍い音が廊下に響いた。その場にいたアジタ祭司長もラーケーシュもそして顔を叩かれたハルシャ王子も驚いた。温厚なラージャ王がそんなことをするなんて誰も予想していなかったのだ。ハルシャ王子は驚きの表情を浮かべてラージャ王を見上げていたが、すぐに左の頬を押さえてうつむいた。そんなハルシャ王子をラージャ王は容赦なく叱り付けた。
「ハルシャ、それが師に対する態度ですか?ラーケーシュ殿に謝りなさい。」
ラージャ王は厳しい口調で言った。けれどハルシャ王子はうつむいて黙ったままだった。
「ハルシャ、聞こえているのですか?謝りなさいと言っているのです。」
ラージャ王はもう一度厳しい口調で言った。けれど、それでもハルシャ王子はうつむいて黙ったままだった。
「ハルシャ!」
ラージャ王は責め立てるように言った。すると目に涙をためたハルシャ王子が顔を上げた。
「兄上なんか大嫌いだ!」
一瞬の出来事だった。ハルシャ王子はそう叫ぶと走り出して、その場から逃げ去った。ラージャ王も驚いて引き止めることも追いかけることもできなかった。ラーケーシュはラージャ王とアジタ祭司長に挨拶もなしに行っていいものかと迷って、ハルシャ王子の後姿とラージャ王の顔を交互に見て、モタモタしていた。見かねたアジタ祭司長がハルシャ王子を追いかけるよう頷いて無言の指示を出した。ラーケーシュは申し訳なさそうにお辞儀をしてその場を後にした。ラージャ王はただその光景をぼうっと突っ立って見ていた。
「ラージャ王、大丈夫ですか?」
立ち尽くしているラージャ王にアジタ祭司長が話しかけた。
「あっ、ええ、大丈夫です。驚いてしまって。一度たりとも私に歯向かって来たことがなかったので。」
ラージャ王はそう言った。その声にはいつものような元気がなかった。
「王子もきっと今頃言ったことを後悔しているでしょう。」
「そうですね。時間を置いてから話をしに行くことにします。」
「そうなさいませ。」
ラージャ王とアジタ祭司長は静かに廊下を歩き始めた。
その頃、一方のハルシャ王子は自分の部屋に戻っていた。扉に鍵をかけ、閉じこもっていた。追いかけてきたラーケーシュは締め出されて扉の前でハルシャ王子に呼びかけるしかなかった。
「ハルシャ王子、開けてください。私です。ラーケーシュです。」
ラーケーシュは扉を叩きながら中にいるハルシャ王子に話しかけた。けれど返事はなかった。ラーケーシュはもう一度呼びかけた。
「ハルシャ王子、開けて下さい。ちゃんと話し合いましょう。私に至らないところがあるのならば改めます。だからどうかここを開けて下さい。」
「嫌だ!」
中から癇癪を起こした子供の叫び声が返って来た。そしてその後に泣き声を押し殺すような息遣いが漏れて来た。ラーケーシュはハルシャ王子が思っていることが手に取るように分かった。ハルシャ王子はラーケーシュを追っ払おうとしていたことなどすっかり忘れて、ラージャ王に浴びせたひどい言葉を後悔しているのだった。ラーケーシュは優しい口調で言った。
「ハルシャ王子、ラージャ王に言ったことを後悔しているのならば謝りに行きましょう。私も一緒に行ってあげますから。」
「嫌だ!」
むせび泣く声が漏れて来た。ラーケーシュは思った通りと心の中で言った。ハルシャ王子が珍しく反省していると思うと、可愛くて仕方なかった。深呼吸をすると、もう一度声をかけた。
「ラージャ王はあれがハルシャ王子の本心ではないとちゃんと分かっていると思いますよ。」
「うるさい!」
扉の向こうでむせび泣く声が一層激しくなった。ハルシャ王子は大声を上げて泣いた。ラーケーシュは困ったようにつるつるの頭を掻いて、扉の前から離れた。




