第二章 アジタ祭司長
第二章 アジタ祭司長
ラージャ王はナリニーと別れた後、何事もなかった振りをして王宮の廊下を歩いた。顔色はさっきよりも良くなっていた。ラージャ王が向かっている先は王宮の一室にあるハルシャ王子の部屋だった。ハルシャ王子はラージャ王のたった一人の弟で、まだわがまま盛りの九歳。家臣たちを困らせ、ラージャ王の手を焼かせていた。ラージャ王はこのハルシャ王子のことが何よりも気がかりだった。
「ラージャ王!」
後ろから誰かに呼び止められた。振り返るとそこには白い衣を着て白い髯を垂らした老人が立っていた。アジタ祭司長だった。アジタ祭司長はスターネーシヴァラ国の祭司たちの長で、風を自在に操り、最強の風の使い手と誉れ高かった。ラージャ王の祖父に当たるアーディティヤ・ヴァルダナ王の頃から仕えていて、御歳百歳。それでも元気にラージャ王の補佐を務めていた。
「アジタ祭司長。」
ラージャ王は挨拶をしようと近づこうとした。けれどその前にアジタ祭司長の方が白い衣と浅黄色の羽織物の裾を引きずって、ものすごい形相で迫ってきた。
「ラージャ王!お供も付けずに歩き回ってはなりませぬ。」
真っ赤な顔でギョロっとした大きな目をこれでもかと見開いて迫ってくるや否や、アジタ祭司長もナリニーと同じことを言って来た。
「ハルシャの所へ行くだけすよ。ご心配無用です。」
ラージャ王はアジタ祭司長にそう言って逃げようとした。けれどうまくは行かなかった。何しろ相手はアジタ祭司長。うるさいお説教好きなのだから。アジタ祭司長はラージャ王を捕まえると早速お説教を始めた。
「関係ありませぬ。どこへ行くときであろうとも、一国の王は万が一に備えてお供を付けなければなりませぬ。もし突然賊が現れでもしたらどうするのです?誰もあなたをお守りすることができないではありませぬか。一国の王であるあなたに万が一の事でもあれば、他国に攻め入る隙を与えることになるのですぞ。分かっておられるのですか!?」
「はい。」
ラージャ王は適当に返事をした。本当は、万全の警備が敷かれている王宮の中で、万が一のことは万が一にもないだろうと思っていたが、決してそれを口に出しては言わなかった。反論すればするほどアジタ祭司長のお説教が長くなるからだった。アジタ祭司長のお説教は適当にあいづちを打って、気が済むまで言わせてやり過ごすに限るとラージャ王は長年の経験で心得ていた。ラージャ王が面倒くさそうにあいづちを打っている間中、アジタ祭司長は喋り続けた。
「それに、そもそも、あなたは王としての自覚が無さ過ぎます。わしが目を離せばすぐに王宮を抜け出して、こっちへフラフラ、あっちへフラフラ。この間など城を抜け出して町の大通りを歩いていたというではありませぬか。」
「その時はちゃんとお供をつけていました。」
ラージャ王は思わず反論してしまった。アジタ祭司長がギロリと睨んだ。ラージャ王はいけないと思って口を押さえた。
「お供をつければどこへでも行っていいというわけではありませぬ!ああ、嘆かわしい!王というものは常に威厳に満ち溢れ、国政を司る者として大臣たちを引っ張っていかなければならないというのに、人の目を盗んでコソコソと城を抜け出しているとは!」
「すみません。」
「ああ、アーディティヤ王やプラバーカラ王がご存命であったなら何と仰るか。」
『二十三歳という若さで何とかスターネーシヴァラ国を治められるよう教育して下さったのだから、祖父も父上もあなたに感謝しているに違いない。』
ラージャ王は心の中でそう言った。
「フラフラとどこかへ行ってしまうアンポンタンにあなたをお育てしたわしの教育が至らなかったと、お叱りになるでしょうか。」
『アンポンタン?』
ラージャ王はずいぶんな言い方ではないかと思った。
アジタ祭司長はそこまで言ったところで一息ついた。続きをもっと言うつもりだったが、その前にラージャ王が手を打った。長年の経験でどうすればアジタ祭司長のお説教を手短に切り抜けられるかということもラージャ王は心得ていた。
「申し訳ありません。アジタ祭司長。いいえ、先生。私は王としての自覚が足りませんでした。先生のお叱りを受けて今ようやく王である重みを思い出しました。これからは身を慎み、決して一人で出歩いたりはしません。」
ラージャ王は十分反省したという顔を作って謝罪の言葉を述べた。もちろんそれはこの場を切り抜けるための芝居で、本当は反省などしていなかった。ただ早くアジタ祭司長から解放されて弟のハルシャ王子の部屋へ行きたいと思っていた。けれどそうとは知らないアジタ祭司長には芝居の効果は抜群だった。久しぶりに先生などと言われてアジ気を良くした。
アジタ祭司長は、今はラージャ王の補佐を務めているが、以前はラージャ王の家庭教師をしていて、ラージャ王が三つ、四つくらいの時から父王プラバーカラ王の死後王位を継ぐまで、王が身につけるべき全ての学問を教えていた。その頃はいつも『先生』と呼ばれていたのだった。アジタ祭司長は懐かしい記憶が蘇り、続きを何と言うつもりだったのか忘れてしまった。
「まあ、分かってくだされば良いのです。お耳に入れなければならないこともあることですし、わしがお供致しましょう。」
アジタ祭司長は機嫌を直して言った。
「ありがとうございます。ところで耳に入れておきたいことと言うのは何でしょうか?」
早速ラージャ王が尋ねた。その表情は先ほどとは打って変わって真剣そのもの。悪戯っぽい笑顔は消えて王としての厳しさが現れていた。
「追放した祭司の一件です。」
「アニルが何か?」
ラージャ王は鋭く言った。
「いいえ、何事もなく身柄は砂漠の牢獄へ。」
「では何でしょう?」
「アニルが盗んだ宝物のことです。先ほど調査に当たっていた武官が報告に参りました。いささか問題があるようでして。どうやら盗まれた宝物はただの宝物ではなかったらしいのです。」
「どういうことです?」
ラージャ王は言っていることに意味が分からないと言うように顔をしかめて尋ねた。
「宝物庫には通常、宝飾品や絵画、その他の貴重な品々が保管されているのですが、どう言う訳か先代の祭司長の私物が紛れ込んでおりまして。実は今回盗まれた宝物と言うのがそれなのです。」
ラージャ王はすぐにアジタ祭司長が言わんとすることを察した。
「先代の祭司長の私物と言うことはただの宝物ではなさそうですね。」
「はい。実はアニルが去り際妙なことを申しておりまして…。」
「何と言っていたのです?」
ラージャ王の目がアジタ祭司長の顔一点に注がれた。
「『災い』が封印してあると…もし封印が破られれば災厄がもたらされると。」
「嘘とは言い切れないのが厄介ですね。」
ラージャ王は目を細めて眉間に深いしわを作った。事態の深刻さを物語っていた。
「城の中は捜索したのですか?」
「はい、くまなく探しましたが、見つけられませんでした。おそらく、城の外に持ち出されたのではないかと。」
アジタ祭司長がそう答えるとラージャ王の眉間のしわは一本増えた。それを見たアジタ祭司長は心が痛んだ。
「カルナスヴァルナ国への出立を明日に控えておられるのでお耳に入れたくはなかったのですが。気苦労をおかけ致します。」
アジタ祭司長は申し訳なさそうに言った。けれどラージャ王はアジタ祭司長のそんな気遣いは無用というばかりに、てきぱきと指示を出して行った。
「先代の祭司長の私物ということですから、捜索に当たるのは兵士だけではなく祭司も加えた方が良いでしょう。何かあった場合、すぐに対処できる者を選んで下さい。それから城の外にあるとすれば、スターネーシヴァラ国から出て近隣諸国に流出した可能性もあります。捜索範囲を広げて近隣諸国の町も探して下さい。それからアニルのことは決してハルシャの耳に入れないように。あの子が知ったら騒ぎ出すに違いありませんから。」
「はい、心得ております。」
アジタ祭司長がそう言ったその時、二人の前方から言い争う声が聞こえてきた。




