第十五章 毒の杯
第十五章 毒の杯
サンジャヤ大臣は廊下を長い歩き、ラージャ王一行の部屋の前に立った。心臓が高鳴り、手と足が震えた。額からは冷や汗が流れ出した。これではアジタ祭司長でなくとも、自分の心の内が見破れるのではないかと思った。サンジャヤ大臣は扉の前で深呼吸をした。そして覚悟を決めてまっすぐ扉を見据えて言った。
「失礼致します。」
サンジャヤ大臣はそう言って扉を開けた。ラージャ王と五人の祭司たちは応接間の椅子に座って待機していた。
「晩餐の準備ができましたのでお迎えに上がりました。」
サンジャヤ大臣が緊張を押し隠して言った。
「分かりました。」
ラージャ王は素直にそう返事をするとアジタ祭司長に目で合図をした。ラージャ王とアジタ祭司長が立ち上がると四人の祭司も立ち上がった。するとサンジャヤ大臣が言った。
「申し訳ございませんが、晩餐にはスターネーシヴァラ王とアジタ祭司長だけご案内させて頂くことになっております。他の四人の祭司の方々には後ほどお部屋の方にお食事を運ばせて頂きます。」
四人の祭司は動きを止めた。そしてアジタ祭司長の顔を見て指示を仰いだ。アジタ祭司長は自分さえラージャ王についていれば問題ないと思い、サンジャヤ大臣の言葉に従うことにした。ラージャ王と四人の祭司たちに頷いて見せた。そしてサンジャヤ大臣に向き直って言った。
「承知しました。」
ラージャ王たちはまたサンジャヤ大臣の後について廊下を歩いた。長い廊下をひたすら歩くと、大きくて壮麗な造りの扉が目の前に現れた。その扉の前でサンジャヤ大臣は止まると、ラージャ王の方に向き直って言った。
「この扉の向こうにシャシャーンカ王がおります。」
サンジャヤ大臣の額には汗が光っていた。
「案内ご苦労でした。」
ラージャ王がそう言うとサンジャヤ大臣は軽く会釈をし、家来に言った。
「扉を開けよ。」
重い扉が開かれた。サンジャヤ大臣が言っていた通り扉の向こうには大きなテーブルを挟んで鋭い目をした恰幅の良い男がどっしりと椅子に座っていた。男はその場で椅子から立ち上がると親しげに話しかけた。
「これはこれはスターネーシヴァラ王、お初にお目にかかります。わしはカルナスヴァルナ国王シャシャーンカ。遠路はるばるよくぞおいで下さいました。」
「これはご丁寧に。私はスターネーシヴァラ国王ラージャ。お招きいただいて光栄です。」
ラージャ王も自己紹介をした。
「おお、そちらの方がかの有名な風の使い手アジタ祭司長《》ですね?」
シャシャーンカ王は感激しているかのように言った。
「スターネーシヴァラ国祭司長アジタでございます。」
アジタ祭司長も自己紹介をした。
「お目にかかれて光栄です。」
シャシャーンカ王は大胆不敵にもアジタ祭司長の顔を見て言った。目を合わせることを恐れたりはしなかった。
「さあさあ、お座り下さい。長いこと廊下を歩かされてお疲れでしょう。」
挨拶が済むとシャシャーンカ王は席を勧めた。
「では、失礼します。」
ラージャ王とアジタ祭司長はシャシャーンカ王の真向かいの席に座った。
そこへ、今まで姿が見えなかったサンジャヤ大臣がお盆に三つの杯を乗せてやって来た。顔が強張り、お盆を持つ手が震えるのを必死に堪えた。サンジャヤ大臣は別室で杯に毒を仕込んでいた。もう後戻りはできなかった。もし失敗して毒を仕込んでいたことを見破られればサンジャヤ大臣は確実に殺される。カルナスヴァルナ国との争いを避けたがっているラージャ王とアジタ祭司長ではなく、口封じのためにシャシャーンカ王に。サンジャヤ大臣は見破られないように必死で平静を装った。
「おお、来たか。」
シャシャーンカ王はサンジャヤ大臣を見ると待ち兼ねたように言った。サンジャヤ大臣は三つの杯のうち一つをシャシャーンカ王に手渡した。毒なしの杯を確実に渡した。残り二つの杯はどちらとも毒が仕込んであった。サンジャヤ大臣はわざとお盆をラージャ王とアジタ祭司長の前に差し出し、好きな方を選ばせた。
「どうぞ。」
ラージャ王とアジタ祭司長はほぼ同時に杯を取った。サンジャヤ大臣は二人に背を向けてシャシャーンカ王に目配せをした。シャシャーンカ王はさり気なくサンジャヤ大臣の顔を確認した。シャシャーンカ王はサンジャヤ大臣が自分の後ろに控えると計画を実行した。
「スターネーシヴァラ王、これは歓迎の印です。」
シャシャーンカ王は自分の杯を持ち上げて言った。それを見てラージャ王も杯を取った。
「ありがとうございます。カルナスヴァルナ王。」
「では乾杯と行きましょう。」
シャシャーンカ王は焦る気持ちを抑えて不敵に言った。サンジャヤ大臣はシャシャーンカ王の後ろに控えて二人の様子を、息を呑んでその瞬間を見守った。
「乾杯!」
シャシャーンカ王はそう言うと一気に杯を飲み干した。計画通りに。それを見てアジタ祭司長が杯に口をつけた。アジタ祭司長はそれが酒だったので少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにラージャ王に安全だと目配せをして教えた。ラージャ王も杯に口をつけた。その間にサンジャヤ大臣が再びシャシャーンカ王の杯を満たした。いよいよ山場だ。
「んー、これは大変香りが良い。こうして揺らすと一層香りが引き立ちますぞ。スターネーシヴァラ王。」
シャシャーンカ王はそう言ってラージャ王を誘った。ラージャ王はすでに何の罠もないと思っていたので、シャシャーンカ王がやって見せたように杯を揺らした。杯の中で酒が渦を作り、仕込まれていた毒を溶かした。シャシャーンカ王とサンジャヤ大臣は真正面から瞬きもせず、興奮した目つきでその瞬間を見守った。
ラージャ王は杯を傾け、一口ゴクリと飲んだ。その瞬間、全身に焼ける痛みが走った。ラージャ王は椅子から落ち、床の上に倒れた。
「ラージャ王、どうなされました!?」
すぐにアジタ祭司長が駆け寄った。ラージャ王は力なく手をついてテーブルの向こうにいるシャシャーンカ王を見上げた。
「シャシャーンカ王、なぜ…。」
ラージャ王は血を吐きながら言った。サンジャヤ大臣は背後の扉を叩いた。その合図ですぐに扉の向こうで待機していた兵士たちが一斉に中に踏み込み、二人を取り囲んだ。アジタ祭司長はすぐに状況を察した。シャシャーンカ王の罠に掛かったのだ。
シャシャーンカ王はおもむろに立ち上がると、苦しむラージャ王を見下ろした。
「スターネーシヴァラ王ラージャ・ヴァルダナ。そなたは賢王だ。そなたの下でならスターネーシヴァラ国は大きく成長し、いずれ我が国を脅かすようになるだろう。そうなる前に始末しなければ。そなたも、スターネーシヴァラ国も。」
シャシャーンカ王は手段を選ばない狡猾な軍事参謀の顔を覗かせた。ラージャ王はスターネーシヴァラ国に攻めるつもりだということを知って、悲痛そうに顔をゆがめ、また激しく血を吐いた。アジタ祭司長はこのままではラージャ王を死なせてしまうと思い、すばやく周囲を見回して近くにある一つの扉に目を留めた。
「ラージャ王、そなたが飲んだ杯には猛毒を仕込んでおいた。そのまま放っておいても死ぬのは時間の問題だが、さぞ苦しかろう。わしが一思いに死なせてやる。」
シャシャーンカ王はそう言うと兵士の一人から剣を取り上げてラージャ王に近づいた。ラージャ王にはなす術はなく、ただその瞬間を待つしかなかった。シャシャーンカ王はラージャ王の前に立つと剣を振り上げた。ラージャ王は観念したようにうつむいた。
シャシャーンカ王が剣を振り下ろす時、アジタ祭司長が強い風を起こしてシャシャーンカ王と自分たちを取り囲んでいた兵士たちをふっ飛ばした。シャシャーンカ王と兵士たちは壁や床に叩きつけられた。その間にアジタ祭司長はラージャ王を抱えて近くの扉から脱出した。アジタ祭司長は急いで控え室にいる他の祭司たちの元へ行った。