第一章 ラージャとナリニー
<スターネーシヴァラ国>
ハルシャ王子 スターネーシヴァラ国王子
ラージャ王 スターネーシヴァラ国王
アジタ祭司長 スターネーシヴァラ国祭司長
アニル 砂漠に追放された祭司、ハルシャ王子の元家庭教師
ラーケーシュ 祭司見習い、ハルシャ王子の家庭教師
ナリン 王宮付侍女
ギリジャー 王宮付侍女
スグリーヴィー 侍女長
スバル スターネーシヴァラ国医薬長
プータマリ スターネーシヴァラ国司書長
クリパール スターネーシヴァラ国祭司長候補
シンハ 祭司長候補
サチン スターネーシヴァラ国祭司長候補
アビジート スターネーシヴァラ国祭司長候補
ゴーパティ スターネーシヴァラ国祭司
ヘーマナート スターネーシヴァラ国祭司
サクセーナ大臣 スターネーシヴァラ国務大臣
カンドゥ サクセーナ大臣の秘書官長
ソミン 仮面をつけたサクセーナ大臣の側近
チャカ ハルシャ王子捜査長の兵士
<カルナスヴァルナ国>
シャシャーンカ王 カルナスヴァルナ国王
サンジャヤ大臣 カルナスヴァルナ国大臣
チョンドロ カルナスヴァルナ国文官
アノンド(アーナンド) カルナスヴァルナ国からの刺客
オミト(アミト) カルナスヴァルナ国からの刺客
オモルト(アマルト) カルナスヴァルナ国からの刺客
ラエ(ラーエ) カルナスヴァルナ国からの刺客
ロメシュ(ラメーシュ) カルナスヴァルナ国からの刺客
序
スターネーシヴァラ国は地図の北にある小さな国。気温は温暖で土地は肥沃。ヤムナー川の水に恵まれた緑豊かな土地だ。この国を治めるのはラージャ・ヴァルダナ王。父王の死後、若干十六歳で王位を継承したが、今では隣国にもその名が知られるほどの賢王に成長した。ラージャ王の下には不思議な能力を持った祭司たちが集っていた。ある者は風を操り、ある者は水を操った。その不思議な能力で王国の平和を守り、ラージャ王からも人々からも絶大な信頼と尊敬を得ていた。
第一章 ラージャとナリニー
王宮の中庭に面した廊下を一人の若者が歩いていた。美しい豊かな黒髪の持ち主で、きれいにとかして頭の上で束ねていた。顔は整っていて、歳の割には大人びて見えた。それは黒い目が思慮深さや聡明さを物語っているせいだった。その黒い瞳には青い宝石をはめ込んだ金の耳飾りが良く似合っていた。
若者の前方からシーツの山を抱えた一人の若い侍女がやって来た。侍女は薄桃色のサリーを着ていた。サリーというのは体に巻きつけて着る長い一枚布のことで、王宮の侍女はたいていこれを着ていた。侍女はなかなかの美人だったが、どこか鈍臭そうだった。よく言えばおっとりした顔立ちとも言えた。
侍女はシーツの山で前が見えなかった。一方の若者の方も考え事をしていて前からやって来る侍女に気づいていなかった。案の定二人はすれ違い様にぶつかった。侍女はよろめき、危うく洗ったばかりのシーツを床の上に落すところだった。だがなんとか足を踏ん張って持ちこたえた。一方、若者の方はシーツの山に吹っ飛ばされてしりもちをついた。
「あら、ごめんなさい。」
侍女が気の毒そうに言った。
「こちらこそ、すまない。」
しりもちをついた若者は立ち上がりながら言った。その声を聞いた侍女はハッとした。
「もしかしてそのお声は!」
若者の方も声を聞いて相手が誰だか気づいた。
「その声はナリニー?」
若者がぶつかった相手は王宮付侍女のナリニーだった。
「申し訳ございません。私の不注意ですわ。お怪我はございませんでしょうか、ラージャ王?」
ナリニーは相手の正体が分かると、慌てて丁寧に謝った。ナリニーがぶつかった若者こそ、スターネーシヴァラ国王ラージャ・ヴァルダナ王だった。
「大丈夫、しりもちをついただけですから。私がぼうっとして歩いていたのがいけませんでした。ナリニーの方こそ怪我はありませんか?」
ラージャ王はナリニーに優しく声をかけた。
「はい、私は何ともございませんわ。」
ナリニーは申し訳なさそうに言った。
「それなら良かった。ところでナリニー、そのシーツの山はどうしたのですか?」
ラージャ王は自分を吹っ飛ばした山積みになっているシーツに目を留めた。
「これはカルナスヴァルナ国へ持って行くラージャ王のシーツですわ。隣国とは言え長旅になりますでしょう?これくらい持って行かなければ。全部蓮の香を焚き染めて、まじないをかけておきました。」
ラージャ王はそう言われてようやくシーツから漂う蓮の香りに気がついた。香とは思えないほどみずみずしく、中庭の池に咲いている蓮の香りと錯覚してしまうほどだった。
「いい香りですね。」
ラージャ王がそう言うと、ナリニーは嬉しそうに微笑んだ。
ラージャ王は和平条約を結ぶため隣国カルナスヴァルナ国へ行くことになっていた。その地を治めるのは勇猛果敢で戦上手と言われるシャシャーンカ王だった。和平条約を餌にした罠かもしれない。そんな噂もあった。ナリニーは少しでもラージャ王の不安を和らげたいと思っていた。
「ところでラージャ王、お供も連れずにどうしてこんな所に?誰か呼んで参りましょうか?」
ナリニーは王宮の中とはいえ、一人でフラフラと出歩くラージャ王を心配して言った。
「大丈夫、大丈夫。王宮からは出ません…。」
ラージャ王はそう言ってナリニーの申し出を断った。その時だった。ラージャ王は突然、背筋がゾクゾクして凍りつくような感覚に襲われた。顔から血の気が引き、目の前にいるナリニーの姿が歪んで見えた。意識が暗闇の中に引きずり込まれるような気がした。遠のく意識の中で何かがぼんやりと見えてきた。視界いっぱいに広がる青い色。それが真っ青な空だと気づいた時、意識はまた暗闇を通ってどこかへ飛ぼうとしていた。今度はもっと遠くへ。
「どうかなさいまして?」
虚ろな目をしているラージャ王の様子を不審に思ってナリニーが尋ねた。ナリニーの声が耳に響くと、ラージャ王は現実に引き戻された。うねるように体の中を駆け巡って意識が頭の中に戻ってくると、何かにはじかれたようによろめいた。ナリニーはシーツの山でラージャ王を支えた。ラージャ王はまるで白昼夢でも見ていたような気がした。果てしなく続く青空。気持ち良いほどきれいなはずなのに、なぜが自分の体は底冷えしている。その不調和がラージャ王に底知れぬ恐怖を感じさせた。
「ラージャ王?」
声がした方を見ると、ナリニーの二つの黒い瞳が心配そうに見つめていた。ラージャ王は知らぬ間に寄り掛かっていたシーツの山から一歩遠ざかると、自分の二本の足だけで立った。
「最近、突然変なものが見えるんです。いつも同じ光景で、空が見えるんです。きっとこのスターネーシヴァラのどこかの景色なのでしょう。それなのに…」
ラージャ王は心の動揺を隠すように言った。その目は落着かない様子でチラチラとナリニーを窺うものの、決してナリニーと目を合わせようとしなかった。
「ラージャ王。それはきっと何かの暗示です。何か良くないことが起こるやもしれません。やはりカルナスヴァルナ国行を今からでも取りやめては…。」
「それはできません。この身に何が起ころうと行かねば。では、私はこれで。」
ラージャ王はそう言って青白い顔をうつむけて逃げるように立ち去った。ナリニーはその後姿を見えなくなるまで見つめていた。