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黒銀の共鏡  作者: 泉 ゆう
序章
1/14

第零話 黒銀

 ――かくして、一人の若き青年により、悪虐の限りを尽くした暴君は討ち滅ぼされたのであった。

 

 めでたしめでたし、と。

 たった今しがた読み終えた本をパタン、と閉じて少女は目を閉じる。長い時間をかけてようやく旅路を終えた青年の半生を頭の中に思い描いては、この時はこういう選択肢もあったのではないか、まさかここでそんな発言をするとは、などと心の中で感想を呟いている。つまりは読後感に浸っているのだ。


 読書は彼女にとっての数ある趣味の内の一つだが、その中でも空想小説、――物語をとりわけ好んで書棚に収めている。


 現実ではあり得ないような冒険に出たり、恐れを抱きながらも勇猛果敢に敵と戦ったり。自身が想像だにしないような世界を、まるで体感しているかのように感じられることが彼女の琴線に触れたのだろう。


 だがしかし、


「またハズレかぁ」


 溜息を吐き出して、心底くだらないといった表情を彼女は隠すことなく浮かべる。長時間身を預けていた肘掛け椅子から立ち上がり、手にしていた本を書棚に片付けると既に興味は窓の外に移っていた。どうやら今回の物語もまた、彼女の満足のいくものには程遠かったようだ。


 そんな彼女の言葉を、青褪めた表情で聞く初老の男がいた。ルーセントという筆名(ペンネーム)を名乗る一人の文作家だ。先ほど彼女がハズレと評した物語の著者である。彼女に自著を渡し、今に至るまで跪いたままの姿でいる。


「ああ、そうだったね」


 ようやくその存在を思い出したように、彼女は部屋の入り口近くで頭を垂れるルーセントを振り返る。不合格を言い渡された彼の鼓動は、赤い絨毯が敷き詰められた静かな部屋に響き渡るのではないかと錯覚するほどに鳴き喚いている。


 暫しの逡巡の後、彼女はルーセントの予想だにしなかった言葉を紡いだ。


「あなた、物語は好き?」


 鈴が鳴るような、雫が跳ねるような美しい声で彼女は疑問を投げかける。


「そ、それは……」


 意図が読めずに、思わず言葉に詰まってしまうルーセント。


「そんなに難しい質問かなぁ?」


 彼女にしてみれば他意がある訳ではない、純粋な疑問から質問をしているだけだ。


「……私めも、一介の作家にございますれば」


「なるほどなるほど。そうなんだね」


 満開の笑顔で納得の表情を浮かべる彼女。時と場合が違っていれば、それはどんな男も虜にするような可憐な笑顔。


 だが、ルーセントは嬉しそうな彼女の声を聞いて、困惑しきりの表情を浮かべていた。そんなことはいざ知らず、無邪気に大輪の花を咲かせる彼女は言葉を続ける。


「私もね、物語が好きなんだ。特に冒険譚! 知らないところに行って、知らない人に会って、なぜか凄いことに巻き込まれてるの!」


「……ええ、心躍りますな」


「でしょ? 時には大事な人が傷付いて……もしかしたら失っちゃうかもしれない。それでもその人の意思を継いで目的を達成するの!」


「王道ですな。ですが、それ故に王道とは読者の心を掴んで離さないのやも知れませぬ」


 物語、という話題に花を咲かせる二人。いつの間にか彼女と談笑できるほどに緊張が解れていた。共通の趣味を持ち合わせた相手には自然と心が開いていくものなのだろう。


「死ぬ人物が主人公と親しければ親しいほど、読者の感動を誘うことができますからな」


 ルーセントは作家であるが故に、その目線でつい語ってしまう。自分が今、どんな立場に立たされているのかも忘れて。


「やっぱり人殺しの考えなんてそんなものだよね」


「――ッ!」


 その一言に心臓を鷲掴みにされた様な気分になった。否、比喩でもなんでもなく、鷲掴みにされているのだ。彼女の足元から伸びる紅い――血の色よりも赤い影が、ルーセントの左胸に吸い込まれている。動きたいにも関わらずそれが叶わなくて、まるで死にかけの魚のようにビク、ビク、と心臓が悲鳴を上げている。


「そんな考えだから、簡単に人殺しなんてできるのかな?」


 彼女が何かを言っているがそれどころではない。苦しさから逃れようと左胸に手を当て、身を捩るが一向に楽になる気配はなかった。身体を起こしていることすらできない程の苦しさに、その場に倒れ伏すルーセント。地獄のような苦しみに悶えていると、彼女が近付いてくるのが目に入った。


 ――やめろ。来るな。やめろ。助けて。来るな。


 目を見開き、口をはくはくさせるがそれは音を紡ぐことはなかった。そんなルーセントの願いを知ってか知らずか、彼女の声色は歌うように高いソプラノを奏でる。


()()の癖に、自分は命乞いするんだ?」


 うつ伏せになった状態で、黒のヒールの靴で軽やかにこちらへ向かう足を凝視する。いっそ睨みつけていると言ってもいい。


 この部屋に入って初めて目に入れる彼女の脚は、宵闇のような漆黒のドレスに包まれていた。一歩踏み出されるごとに、ちらりと白磁の陶器のような(くるぶし)が眼に入る。朦朧とした意識の中でもはっきりと美しいと感じられ、魅了されたかのように目線が釘付けになる。


「あ、いいこと考えちゃった。……いいよ。お望み通り、殺さないであげる」


 この世のものとは思えない程に美しい黒と白が目の前で立ち止まったのが分かった。衣擦れの音が聞こえたと思えば、白の代わりに眩ゆい銀色がドレスとのコントラストを彩る。それが屈んだ彼女の髪の色なのだと理解が及ぶ直前。ついに脳に十分な血液が行き渡らなくなり意識を失う――


「あなたが殺してくれって、言うまではね?」


 ことはできなかった。

 激痛を伴って激しく鳴り出す心臓の音が、金槌で殴るように頭の中に響いてくる。涙で滲む視界で目を下に向けると、先程まで伸びていた紅い影は既に主人の元であるべき形に収まっていた。


 荒い息でひたすらに生命活動を続けようとする己の身。呼吸が落ち着くにつれて徐々に冷静になる頭の中には、彼女が告げた言葉が残響のように響いていた。


 ――殺してくれと言うまでは、殺さない。


 逃げなくては。この場にいてはいけない。彼女から少しでも。距離を取り。逃げなくては。


 言葉の意味を正しく理解したルーセントの脳内に、凄まじい速度で警鐘が鳴り響く。両の腕を支えに立ち上がろうとしたその時、静かに留まっていたはずの紅い影がまたルーセントの左胸に伸びた。


「ぁぁあああ! うぐあああぁぁあああ!!」


 恐怖からか、苦痛からか、獣の遠吠えのような悲鳴を上げるが、そんなことでは少しも痛みは和らがない。彼女は手心を加えてはくれない。


 心臓が完全に動きを止める直前に、ルーセントが命の灯火を消してしまう寸前に、彼女は己の影を引っ込める。彼の回復が最低限に行われたと判断されたら、また影を伸ばす。そんな単純作業が何度、何十度と繰り返される。


 無間地獄のその幕間。顔を涙とも鼻水ともつかぬ液体でぐしゃぐしゃにして、


「……ろ、て……」

 ――殺して。


 息も絶え絶えに声にならない声でそう告げる。が、眼前で己を見下ろす黒銀はただ「んー?」と無邪気に、無慈悲に笑いかけるだけ。


 そして、虚ろな目をして己の人生の終焉を懇願するルーセントに細い首を傾け、幼子に言い聞かせるように囁く。


「お願いは、聞こえるように、言いましょうね?」


 雫が跳ねるような音が耳元で聞こえた、気がした。


「――――ぁ」


 それが彼の最期の言葉になった。


 その小さな断末魔を聞いて彼女もまた「あ」と声を上げた。首が分かたれ赤い水溜りを作り上げている、人の形をしていた目の前の()を呆然と見つめる。


「なんで殺しちゃうの?」


 面白くなさそうに口を尖らせて顔を上げる彼女。その宝石のような赤い瞳に不満げな色を浮かべている。まるで気紛れに手にした玩具を壊されたとでもいうような、その程度の感慨だが。


 ルーセントの抜け殻から一歩下がった位置で、じっとこちらを見つめる少年。耳に掛かる程度に切り揃えた銀髪が窓から降り注ぐ光に煌めく。顔付きは彼女によく似ている。だが、彼女と同じ赤い瞳には無垢を感じさせない冷たさがある。彼もまた、黒で統一された装束に身を包んでいた。


 ルーセントの最期の願いを叶えた彼は呆れた表情だ。対して膝の上に華奢な腕を組み、頬を膨らませている少女。


 そんな彼女の文句を、今度はどのように躱そうかと腰に片手を当てて考える彼。そうして思い付く中で最も無難な答えを返す。


「どうせ罪人なんだから別にいいだろ?」


 その言葉にはルーセントに対する同情の気持ちなど欠片も見られない。


「使える物は有効活用しなきゃ勿体ないじゃん」


 あれのどこが有効活用だ、という言葉を飲み込んでまた一つ小さく溜息を漏らす。こうして彼はいつも説得を諦めるのだ。いくら正論をぶつけたところで、感情を優先してしまう彼女は聞く耳を持たない。


「まあいい。どちらにしてもこれは邪魔だろ? 消していいか?」


「お好きにどうぞー、だ」


 舌を出しながら投げやりに答えた。それだけ言うとさっさと立ち上がり、腰まで伸ばした銀色の髪をなびかせて背を向ける。そうして彼に(まつ)わる一切合切の興味を投げ捨てて、お気に入りの肘掛け椅子に座りながらぼーっと窓の外を眺め始めた。


 いつも通りに彼女の気晴らしが始まったことを認め、少年は死体にそっと手をかざす。首と頭の切断面。そこに小さな青い火が灯る。少しずつ貪るように青い火はルーセントの全身に広がり、それはやがて炎となった。蒼炎は流れ出た血すらも喰い漁り、蝋燭程度の小さな灯火となる頃には、名も知れぬ故人の存在を主張する物は何一つとして残ってはいなかった。


 ちらり、と窓に反射したその青を目に映す彼女だったが、それ以上の反応はない。少年の方にも浮かべる表情はなく。その火が完全に消滅するのを確認すると、かざしていた手を握り締める。そう、いつも通りのことだった。


「終わったぞ」


「んー。大義」


「何様なんだよ」


 苦笑を漏らす。ひと仕事とも呼べない作業を終えた彼もまた、彼女の望む景色を見る為に窓へと歩みを進める。一歩踏み出す毎に刺さる陽光に目を細め、彼女の隣へと並び立つ。


「何様って。そんなの……」


 窓の外には橙がかった大きな雲がゆったりと流れていく。それを追い越さんと、連なった鳥の群れが空を泳いでいた。なんとも長閑な風景に満足の笑みを浮かべた彼女は、今度は出窓の桟に両腕を付き、ダレるように目を落とす。


 眼下に広がるのは赤や白の煉瓦造りの屋根。その合間を目を凝らして見れば、小さな金、茶、黒といった様々な色が絶えず動いているのが分かる。耳を澄ませばざわざわ、と遠くに音が聞こえるようだ。


 どの家屋をも見下ろす位置にいる二人。黒に身を隠し、銀色の髪を持つ二人が暮らす浮遊建造物。それはつまり、


「――王様に決まってるじゃん」


 この国、アルカディアの王城である。


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