愚者の誕生日
ひび割れる音が聞こえた。大きな本懐前の、微かな予兆。
天をも超える直立不動のコンクリートの塔、その中枢に入る目に見えない微かな傷跡。直径一ミリほどのちっぽけな傷で、塔が揺らぐ可能性は万に一つもない。
けれど、傷が入ったという事実もまた、揺らぐことはない。
0が続くだけだった世界が、初めて新たな可能性を生み出した。肌で感じたわけではない。ひび割れる音が聞こえたと言っても、願望が生んだ幻の音かもしれない。
それでも、0から無限分の一へと変わった。それだけは確かにわかったのだ。
無限に広がる暗黒の地で、微小の光芒が暗を裂いたらわかるだろ? そういうことさ。あとはひたすらその小さな傷跡を育て、壊れていくのを待ち続けよう。一度付いた傷は、どれほど完璧な修復をしたとしても、元通りに戻すことはできない。ましてや、目に見える傷ではなく、内側の傷。気が付くはずもない。
塔の天辺で下界を笑い、優雅に互いの血を舐め合う事しかできない神様たちなんかは、地獄に落ちる一秒前に傷があったことを知るのだ。
神は全知万能さ。
これは全人類が知る周知の事実だ。けれど、驕り高ぶったその実力と、鞘から抜かれたことのなかった聖剣は、愚者の千年研ぎ続けられた石の直剣と歴戦の経験の前では、天賦の才など、強情なマダムが宝飾品を身に纏うぐらい無価値なものなのだ。
ここに一人の男、奴隷として生まれる。大きな産声と共に、絶対的な理を持つこの世界に微小の傷跡ととして、本懐そのものとして、生まれ落ちたのだ。
名はエル。誰もが馬鹿な奴と笑う、愚か者。
すなわち愚者として、こよなく平和を愛する革命児である。