#13【完全迷子】私、どうしたら良いんでしょうか? (3)
【前回までのあらすじ】
桐子とヒロト、夜川さんの三人での打ち上げ。
悩みを打ち明けた桐子に、
夜川さんは『裸のお付き合い』を勧めるのだった。
1話目はここから!
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更新情報は『高橋右手』ツイッターから!
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「は、はじめてなんです……こういうことするの」
うつ伏せになった桐子は、枕代わりのクッションをぎゅっと掴む。シーツとの間で火照った胸が潰れ、湿り気を帯びた肌同士で蒸れてしまう。熱を逃がそうと身じろぎすれば、臀部を隠している薄タオルがずり落ちてしまいそうなので、それも出来ない。
「緊張しちゃダ~メ。気持ちよくなりたいなら、力を抜かないと」
隣で寝そべった夜川さんは腰を動かし、ゆらゆらと遊ばせていた脚を伸ばす。長い髪をアップにしてまとめているので、肌艶のよい背中が暖色系の室内灯に無防備に晒されている。
室内は程よい湿度を保ちながら暖房が効いている。申し訳程度のタオル一枚でも身体はぽかぽかしていた。ラベンダーだろうか、甘い花の香りに包まれていると身体だけでなく、頭の中もふわふわしてくる。
桐子はゆっくりと息を吐き出す。それを合図に、桐子の背中にぬるっとした液体が垂らされた。
「あっ……」
思わず吐息が溢れてしまう。人肌よりも暖かく、とろりとした重みを感じる液体が背中のくぼみを満たしていく。その熱がじんわりと広がっていくのを感じていると、別の感触が桐子の背中を襲う。
「ひぁっ!」
ビクついた身体が、バネが外れたみたいな勢いで反ってしまう。
そんな桐子の驚きにも慣れたものだと、指の長い手がオイルを伸ばしていく。
「んんっ……くぅっ! んぁ、あっ……んんんっ!」
桐子はクッションに顔を押し付けて、声が漏れるのを我慢した。ぬるりとオイルを纏った手が、桐子の背中からお腹周りを容赦なく揉み込んでいく。まるでスライムに肌と肉を弄ばれているかのようだ。
初めての感覚に耐えながら、夜川さんの方を見る。
「あ、そこイイ、んんぅっ、ふあぁ、もっと強くしちゃってー、んんっぅ! あっ、あっ、そこっ……くちゅくちゅされるの好きかも」
夜川さんは自分を曝け出し、与えられる快感に身を任せていた。
「んっ、あっ、夜川さんは……んっ、いつもしてるんですか?」
慣れた様子を見せられ、桐子は尋ねずにはいられなかった。
「まさか~、これで二回目。家族のことであたしが凹んでた時に、友達が誘ってくれたんだよね。気持ちよくてスッキリできたから、今度はあたしが香辻さんのこと誘っちゃった」
凹むんでいる時に人との触れ合いが恋しくなる気持ちは、桐子にも理解できる。
「案内された時はちょっと怖かったです」
表通りから離れた場所にあって、道すがらも桐子には使途不明の怪しい雰囲気のお店が何軒も建っていた。
「実際やってみて、どう?」
「んん、正直……気持ちいいです」
されるがままに解されていく身体を、認めないわけにはいかない。
「たまにはさ、気持ちいいことで心と身体を掃除しないと、次のモノが入らなくなっちゃうよ」
「ですね」
焦げ付いてしまった鍋の汚れが洗剤に浸けて剥がれるように、頭の中のモヤが神経を流れてきた肉体の快感に押し流されていく。
「でも、河本くんに悪いことしちゃいましたね。私達だけ気持ちいいことしちゃってて」
「ここが混浴じゃなくて残念だったんだー」
「ちがっ! そういうつもりで言ったんじゃないから!」
桐子が慌てて否定すると、夜川さんだけでなくマッサージ師のお姉さんたちも微笑ましそうに笑っていた。
夜川さんが推しに推した『裸のお付き合い』ということで、桐子たちは新宿にある温泉施設にやってきていた。伊豆から毎日運ばれてくる天然温泉がメインだけれど、他にも利用者がくつろげるラウンジやお酒が飲めるバーなども入っている。マッサージもその1つで、夜川さんに勧められるままに受けることになってしまった。
ちなみに二人ともハイプロライブの出演料が入って懐に余裕があったので、桐子も少しだけ気が大きくなって冒険に出たのだ。
当然、河本くんは男湯なので別行動中だった。
「河本くんってさ、1人のほうが休まるタイプでしょ。今頃はサウナでも入ってゆっくりしてるんじゃないかなー」
「たしかに私達と一緒だと気が休まらないですからね」
特にやらかしてばかりの桐子が目の前にいたら心配で、せっかくの温泉を楽しめないだろう。
「それもそうだけどー、香辻さんのあられもない姿をみたらさ……河本くんが大変な事になっちゃいそ」
「あ、あられもないって?! そんなこと」
「ベッドの上で凄いことになってるよ~、香辻さんの、お・ム・ネ」
「あぅぅ……」
夜川さんの視線を遮るように脇を締めても、余ったお肉は隠しきれない。
「女湯でも圧巻だったよねー。背は一番小さいのに、胸は一番おっきかったもん」
「モデルみたいに綺麗なお姉さんに、じろじろ見られて恥ずかしかったんですよ」
「羨ましかったんじゃない。スラリとした人だったからねー」
隣りで湯船に浸かっていた夜川さんも気づいていたようだ。
「大変なだけなんです。服は着れないものが多いし、とにかく重くて」
うんざりだと息を漏らすと、マッサージを担当してくれているお姉さんの手が桐子の肩に伸びる。
「バストの豊かなお客様の施術をすると、皆さん苦労されているのが分かります」
肩を揉み込む手がほんの少し強めになっていた。オイルを染み込ませるような手付きで、肩の強張った部位がじんわりと解されていくようだ。
「ふっ、んぅ、はぁ……んんっ……ふぁぅ……」
あまりの気持ちよさに、鼻にかかった声が漏れてしまう。
「うわぉ、えっちぃ声~」
「えっ、エッチじゃありませんから!」
「そーだ! マッサージ中の声を録音して、ASMRの練習ってことで、河本くんに聞かせてあげるのどう? 1人にさせちゃったお詫びにさ~」
「絶対にダメです!」
そんなものお詫びになるとは思えないし、へにゃれた声なんてとても河本くんには聞かせられない。
「あははっ、じゃ、ここだけの秘密ってことでもっと聞きたいな~。そっちのお姉さん、もっと強く揉んじゃって!」
「フフッ、承知しました」
あっさり了承してしまうお姉さん。容赦ないマッサージが桐子を襲う。
「ひゃぅ! わ、脇っ、ひあぁあ、くすぐっ! ひぃんっ! ひあぁ、そこはほぐさないでも、んんぅっ! ちがっ! あ、んぅ、ひっ、あん、ふひぁぁあっ!」
細指の一本一本がまるで別の生き物のように動き、桐子の肉という肉を揉み尽くしていく。女性の身体を知り尽くしたプロの攻めに、桐子は成すすべなく悶え続ける。
「ん~、甘露甘露♪」
組んだ指先に顎を乗せた夜川さんはすっかりくつろいだ様子で、桐子の痴態を楽しんでいた。
「……夜川さんの方も強めのマッサージをお願いします!」
「はい、かしこまりました!」
待ってましたとお姉さんが二つ返事
「ちょっ!? あたしは別にいいか、ひぁぅんっ! ひっ、あひぃっ、ふぅっ! うなじと耳、らめぇ! びんかんにっ! おっ、ひあぁっ! ひにゃぁぁぁ!」
あっという間に弱点を見つけられてしまう夜川さん。オイルを塗った指先のソフトタッチで、首筋から耳にかけてを重点的に刺激されていた。
桐子と夜川さんの反応が楽しいのか、はたまたSっ気からか、お姉さんたちの熱心なマッサージに全身をもみくちゃにされてしまった。
「はぁはぁ……すごすぎて、自分の身体じゃないみたい……んっ」
ようやく太もものリンパマッサージが終わったところだ。肌が敏感になってしまったのかシーツが擦れるだけで吐息が出てしまう。
「足ツボもどうです?」
「え? 30分コース、なんですけど」
お姉さんの言葉に息も絶え絶えな桐子が返す。そろそろ時間だし、そもそもプランに入っていない。
「サービスです。いま暇なんで」
もっとやりたくて仕方ないと、お姉さんは怪しく微笑んでいた。
「えっと……」
「足つぼお願いしまーす! 二人とも!」
「ええっ?!」
桐子が迷っているうちに、夜川さんが答えてしまう。
「それでは」
足の方に移動するお姉さん。絶対に逃しはしないと桐子の足をがしっと掴む。
「いきますね」
優しい声とは真逆の非情で力強いひと押しが、桐子の足裏のツボを的確に射抜く。
「ひぎゃぁあああああああ」
「むひぃぃいいいいいいい」
桐子と夜川さん、絶叫の二重奏がアロマとヒーリングミュージックに満たされた室内に響き渡る。
このあと滅茶苦茶ほぐされた。
温泉施設を出ると、館内の明かりに馴染んだ目には暗く感じるほどに夜の帳が降りていた。遠くに僅かな夕陽の残光を感じるが、あと数分も経たずに消えてしまうだろう。流れてくる空気も、昼間の喧騒から夜のさざめきへと変わっていた。
17時を過ぎ、街は夜の衣装を纏おうとしている。
ショッピングや街歩きを楽しんでいた人たちが帰途につき始め、これからが本番だと宵にテンションを上げる人たちと入れ替わっていく。アルコールを提供する店の看板に明かりが灯され、ライブハウスの開場を待っていた列が地下へと吸い込まれていく。
「河本くん、男湯の方はどうでした?」
桐子は右隣を歩く河本くんに尋ねた。
「空いてたから寛げたよ。久しぶりに長湯をしたけど、気持ちいいものだね」
「まさか河本くんが、ラウンジで居眠りしてるなんて思わなかったよねー」
夜川さんの言葉に、河本くんは少し恥ずかしそうに苦笑していた。マッサージが終わった後、二人がラウンジに行くと隅っこのリクライニングチェアで河本くんが気持ちよさそうに居眠りをしていた。
「いつもはシャワーで済ませちゃってるけど、たまには湯船に浸かるのもいいね」
他人事のように言う河本くんだが、街灯の明かりでも分かるほど顔色が良いし、いつも寝癖気味の髪の毛もぴっちりとしていた。
「ちゃんと湯船に浸からないとダメだと思います」
「そーそー、毛穴を開いて汚れを流さないと禿ちゃうよ」
桐子と夜川さんの二人に責められた河本くんの歩みが少し遅れる。
「気をつけるよ」
河本くんは一ミリも信用できない苦い表情を浮かべていた。きっと明日からもシャワーだけで済ませるつもりなのだろう。桐子と夜川さんは顔を見合わせて、くすりと笑った。
「じゃ、次は定番のカラオケに行っくよー!」
夜川さんは人通りの絶えない表通りをピシッと指差す。
「あの、私、カラオケって初めてで……」
「ダイジョブダイジョブ、怖い場所じゃないからさ」
自分に任せろとばかりに夜川さんは胸をトントンと叩く。
「人前で歌うのも苦手で……」
「えええええっ?! ライブであんなに堂々と歌ってたじゃん!!」
驚きに目を丸くする夜川さん。確かに言っていることは何も間違っていない。
「あれは灰姫レラとしてだから歌えたんです」
「じゃ、灰姫レラちゃんとして歌ってー♪」
「でも」
「おねがいおねがーーーーい! 一緒にカラオケ行きたいのーーーー!」
敢えてひと目を引くように夜川さんは駄々をこねて、桐子の腕を振り回す。逃してくれそうにない。
「ぜ、善処します」
そんな風に言われて桐子も嫌ではなかった。
「河本くんもさ、何か歌ってねー」
「うん、分かった」
意外とあっさり頷く河本くん。
「でも僕が歌える曲がカラオケに入ってるかな?」
一体何を歌ってくれるのか、気になって仕方がないと桐子と夜川さんの足は自然と速まっていく。
表通りに出ると、つい2時間ほど前に通った時とは雰囲気が一変していた。人も建物も綺羅びやかな輝きを放っているように見える。電車で10分ほどの街なのにほとんど来たことが無いせいだろう。
「さて、どこのカラオケボックスがいいかな~」
夜川さんが辺りを見回す。
「あの看板を持ってる人に聞かないんですか?」
桐子は不思議に思って尋ねる。表通りではカラオケの看板を持った男性が幾人かいて、通行人にお店を紹介すると声を掛けていた。
「ダメダメー。呼び込みの人が紹介するお店は割高だったりするんだから。それにお店によって入ってる曲が違うんだよ」
「なるほど、勉強になります」
「アオハルココロちゃんの楽曲が一番多く入ってるとこといえばー」
桐子が歌うだろう曲はお見通しだと、夜川さんがスマホで調べてくれていた。
「んー? ユウからだ」
手を止めた夜川さんの頬が固まる。夜川さんの弟がユウという名前だったはずだ。
「ふぅ……」
安堵の吐息から表情を緩めメッセージを読み進める夜川さん。
「あっ、あああああぁっ!」
そして突然大声を上げる夜川さん。
「どうしました?」
「何か問題発生?」
二人の問いかけに、夜川さんは気まずそうにスマホの画面を見せる。
「ごめーん! おばあちゃんが来る日なのすっかり忘れてた! あたし、帰らないと」
「そうですか……あっ、大丈夫ですから! 気にしないでおばあちゃんに会って下さい!」
残念さを誤魔化そうとして、何故かファイティングポーズをとってしまう桐子だった。
「カラオケ、次は絶対ぜーーーったいに一緒に行こっ!」
「はい!」
「それじゃ、あとは二人で楽しんでねー!」
「へっ?」
「ばいば~い!」
夜川さんは桐子の背中をトンと軽く押すと、その反動を利用したかのようなスピードで走り去っていった。
てっきり3人で駅まで一緒に行って、解散だと思っていた桐子は当惑してしまう。どうしたら良いのか分からず、河本くんの方を見ると彼もこちらを見ていた。
「……」
「…………」
「僕たちも」
「あ、あのっ!」
同時に発した二人の声が重なる。
「……」
「……」
「なにかな?」
「いえ、河本くんから」
「なんでもないから、香辻さんどうぞ」
最終的に譲られてしまい桐子は困った。一度飲み込んだ言葉を胸の奥から取り出さなければいけないからだ。
「……」
躊躇う桐子を、河本くんは待ってくれた。
「見たい映画があって……『クローバー』って映画で、Vチューバーのドルフィーちゃんが出てて、あ、河本くんも知ってますよね……そ、その、テストの後だともう終わっちゃうかも知れなくて……せっかく新宿まで来たから……」
自分でも何を言ってるんだと思いながら、だんだんと声が小さくなってしまう。
「うん、いいよ。まだ時間もあるし観に行こうか。その映画は僕も気になってたんだ」
河本くんが桐子の意図をくんでくれる。
「は、はい!」
返事だけは弾んだ大きな声になったのが、自分のヘタレ具合を如実に表していた。
スマホで映画の上映スケジュールを確認すると、開始時刻の丁度いい映画館が見つかった。場所も近いので早速向かうことになった。
通りは混んでいて、歩きながら会話をする余裕は無い。背の低い桐子では、河本くんの姿を見失わないようにするので精一杯だ。VRで並んで歩いた時とは違って、それが少しだけ寂しかった。
土曜日の夜ということもあり、シネコンの入っているビルも人でごった返している。目的の映画館のロビーに着くのも一苦労だった。
「時間大丈夫でしょうか……」
大勢のお客さんで賑わうロビーを見て桐子は呟いた。券売機と売店、そして入場口と幾本もの列が形成されている。
「二手に別れよう。僕は券売機に並ぶから、香辻さんは売店で飲み物とポップコーンを調達してくれる?」
「任せて下さい!」
手早く分担を決める河本くんに、桐子は良い所を見せたいと意気込んで胸を叩く。
「アイスコーヒーで。映画、楽しみだね」
そう言い残すと、河本くんは長く伸びた券売機の列に並ぶ。桐子も遅れてはならないと、売店に向かった。
メニューを眺めながら待っていると、列は思いのほか早く進んでいく。ゴールデンタイムということで、従業員も全勢力を投入して注文を捌いているようだ。全員を上映時間に間に合わせるんだという並々ならぬ気迫が伝わってきた。
「お次の方どうぞ。ご注文をお伺い致します」
接客のお兄さんの爽やかさに、桐子は思わず「うッ」と身構えてしまう。
「えっと、お茶とアイスコーヒー、それとポップコーンをお願いします!」
「ポップコーンのお味はいかがしますか?」
「えっと、塩、じゃなくて、やっぱりキャラメルで!」
アイスコーヒーならキャラメル味の方が合う気がして、すぐに言い直した。
代金を支払った桐子は、飲み物カップ2つとポップコーンバケツが載ったトレーを受け取り、ロビーに戻る。ちょうどシアターの入れ替えのタイミングとぶつかってしまい、人の流れが大きく変わっていた。
河本くんの姿は無い。まだ券売機の列に並んでいるようだ。桐子は見つかりやすいように、人混みから離れ壁際で待つことにした。
(映画館に来るなんて、いつぶりかな)
小さい頃に、妹の紅葉と母と三人で春休みにアニメを見に行った以来な気がする。
ロビーの雰囲気に自然とワクワクしてきた。観終わった映画の感想を語り合う大学生ぐらいの二人組や、売店でグッズをねだっている子供とその両親、目元を赤らめながらパンフレットを大事そうに抱えた女性、そして桐子と同じトレーを手に入場列に並んでいるカップル。
(あっ、ポップコーン1つしか買ってない!)
つまり上映中は河本くんとの間に置いて、二人で1つのポップコーンを食べることになる。同時に伸ばした手がぶつかるなんてことも起こるかもしれない。
(私、変な匂いしてないよね?)
2時間近く隣同士で座っているのだから、当然匂いだって伝わってしまう。お風呂に入ったばかりだけれど、マッサージオイルがしっかりと肌に塗り込まれている。それに服を着替えたわけでもない。
「くんくん……」
気になって二の腕辺りの匂いを嗅いでしまった。多分、大丈夫だ。
(そういえばこんなシーン、アオハルココロちゃんが声優やってたアニメで観たような。原作が大ヒットした恋愛漫画で………………えっ?)
桐子の呼吸が止まる。
(これってもしかして……本当のデートなのでは?!?!)
VRでアオハルココロちゃん対策で『デート』した時とは全然違う。必要もないのに、二人で映画を観に来ているのだ。
急に心臓がバクバクと主張しだす。そのせいかトレーを持つ手が緊張で小さく震えだす。
怖い。
でも、ワクワクする。
自分がいけないことをしているようで怖い。
でも、河本くんと一緒に映画を見るのはワクワクする。
河本くんは本当は映画なんて観たくないけれど仕方なく付き合ってくれてるのかもと思うと怖い。
でも、河本くんも映画を楽しみだって言ってくれたんだから、きっと喜んでくれてると思うとワクワクする。
激しく動くメトロノームのような心臓の鼓動に、わけが分からなくなるほど感情が揺れ続ける。
早くこの苦しみから解放されたい。
そう願っていると――。
「もしかして、香辻さん?」
不意に呼ばれた自分の名前に顔を上げる。
黒髪の女の子が立っていた。
「……福田さん」
覗き込んでくるような視線に耐えられず、桐子は名前を呼んでしまう。
「やっぱり香辻さんだ」
目を細めた福田さんの口角が上がる。
黙って俯いていればよかったと後悔するがもう遅い。
「ちょっと皆! 来てよ! 香辻さんいるんだけど!」
振り返った福田さんは大きな声を上げ、手を激しく振る。その先には、3人の女の子がいた
「ガチで香辻なの?!」
「うっそー、死んじゃったって聞いたよ」
「ええええええ、幽霊?! ホラー映画とか観たくないんだけど」
大森さん、古谷さん、小島さん。
集まってきたのは中学の同級生だ。
「あ、あの、私……」
その場を離れようとする桐子を、大森さんの手が遮る。
「ちょっとぐらい良いだろ。2年ぶりぐらいに会ったんだから」
「Facebookで死亡説流れてたんだよ」
「ウケるよね。ちゃんと生きてるし」
そんな噂があるなんて知らなかったし、知りたくもなかった。一刻も早く4人の視界から消えてしまいたかったけれど、前方は囲まれ、背後は壁でどこにも逃げられない。
「ねえ、香辻さんは今なにしてるの?」
福田さんが口元に笑みを浮かべながら聞いてくる。
「あの、人を待ってて」
「そうじゃなくて、普段何してるのかを聞いてるのよ」
話の通じなさに苛立たせてしまったのか、福田さんはつま先で床をトトンと叩く。
「やっぱりバイトとかしてる感じ?」
古谷さんの何気ない言葉に、桐子はどきりとさせられる
「し、してないよ。普通に学校に行ってるだけだから……」
Vチューバーをやってることがバレたくない一心で桐子は必死に弁解する。
「ガチで?!」
「意外すぎー」
「中学いかなくても、高校って入れるんだ」
驚きの中にある嘲りを4人は隠そうともしない。
(もう放っておいて……死んだままでいいから……)
いくら願っても彼女たちには通じない。あの頃と同じように。
「どこの学校いってんの?」
「蒼穹高校……」
「ソウキュウって、頭いいとこじゃん!」
「香辻さん、勉強はできたもんね」
否定も肯定も出来ずに桐子は手にしたトレーを見ていた。
「あれー、1人映画じゃないんだ」
飲み物が2つあることに小島さんが気づく。
「うっそーー! 高校で友達できたんだ」
「う、うん」
精一杯の抵抗だった。自分が何を言われたとしても、友達を否定したくない。
「水織以外にもいたんだ、香辻さんをかまってくれる人。よかったね」
福田さんはつまらなそうに言って、スマホの時計をチェックする。予定があるのか、他の三人も「どうする?」と尋ねるように福田さんの方を見る。
このまま興味を失ってくれれば――。
「香辻さん、おまたせ」
チケットを手にした河本くんがやってきてしまう。
「へー、香辻さんの『友達』って」
顔を見合わせた福田さんたちの口元が、小さな笑みに歪む。
「誰、この人達?」
桐子を囲むように立つ福田さんたちを、河本くんが訝しむ。
「あ、あの」
「お友達でーす!」
説明に困る桐子の声を遮った福田さんが、親しげに肩を寄せてくる。肩と肩が触れた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
「ガチの友達」
「香辻さんは久しぶりで緊張してるみたいだけどね」
(……やめて)
助けを求めるように河本くんを見る。
「そうなんだ」
(お願い、信じないで……)
舌が萎んでしまったように言葉が紡げない。
「もしかして、香辻さんのカレシさんだったり?」
「デート中?」
興味津々と言った様子で福田さんたちは詰め寄る。
「学校の友達。一緒に映画を見に来たんだ」
河本くんが誠実に答えても、4人は納得しない。
「うっそー。香辻さんどうなの」
「実は好きなんじゃない?」
猫が狩った鼠をいたぶるように、見えない爪が桐子の心を切りつける。
「あ、あ、あ……うっ」
言葉の代わりに吐き気がこみ上げてくる。
「詳しく話、聞かせてよ」
「悪いんだけど、もうすぐ映画が始まるから」
河本くんは話を打ち切ろうとする。福田さんたちのしつこさに辟易しているようだ。
「えー、ちょっとぐらい良いじゃない。映画の最初なんてどうせCMなんだから」
「中学以来なんだし、香辻さんももっと話したいよね」
こちらの意志は関係ないと、4人は勝手に話し続ける。
「香辻さん、中学の頃と雰囲気違くて、最初は別の人かと思っちゃった」
「あの頃は暗くて、ガチで喋らなかったよな」
「先生にも、ちゃんと返事をしろって詰められて泣いちゃったり」
思い出を舐るようにして、4人は笑っていた。
(やめて……河本くんに変なこと言わないで……)
「体育の時にも」
「興味ないから」
河本くんが強めの声で遮った。
「はっ?」
「興味ないって……友達なんでしょ? 好きじゃないの?」
言ってる意味が分からない福田さんは眉をひそめる。
「もちろん香辻さんは大切な友達だ」
「じゃあ!」
ムキになる福田さんに対して、河本くんは小さくため息をつく。
「もし僕が香辻さんの過去を知りたかったら、香辻さん自身に直接聞くよ。君たちも、君たちが語る過去にも僕は興味がない」
「なっ……」
唖然と目を丸くする4人。自分たちの言葉を聞かない人間がいるなんて信じられないと、開きっぱなしの口が語っていた。
「だから、さっさと消えてくれないかな?」
冷たく言い放つ河本くん。
4人は、顔を真赤にしたり、頬をひくつかせたり、怯えたように口に手を当てたり、そして悔しそうにスカートを掴んだりしていた。
「ふーん、ま、いいや」
不満そうに言った福田さんは桐子にスマホを向ける。
「な、なに?」
カシャッ。シャッターを切る効果音が聞こえた。
「中学の皆も香辻さんのこと知りたがってると思うから、教えてあげるの」
「い、いや」
「今の香辻さんのこと、知ったらきっと驚くよ。そうだ、水織にも生きてたこと教えてあげないと。あんたたち仲良かったもんね」
「もうやめて!」
絞り出すような悲鳴に、横から伸びた手が福田さんのスマホを握る。
「ルール違反だ」
河本くんはさっとスマホを取り上げ、素早く指を走らせる。
「ちょっ、返してよ!!」
驚きから立ち直った福田さんが、河本くんの手からスマホを奪い返す。
「あっ、もう写真消されてる! バックアップも! ちょっと、なに勝手なことしてんのよ!」
怒りも露わに福田さんは河本くんを睨みつける。
「ガチでむかつく」
「こいつのことも晒しちゃお」
「ほんとソレ」
スマホを向けようとする4人。
「これ君たちにあげる」
そう言って河本くんは自ら近づき、何かを差し出す。あまりにも無造作な動きに、福田さんは思わず受け取ってしまう。
「チケット?」
「え?」
「見れなくなったから」
「?」
説明しながら河本くんは桐子の方に手を伸ばすと、トレーの上に乗っているコップを掴む。
「それと、お詫び」
河本くんは一切の躊躇なくコップの中身を4人に向かってぶちまける。
「きゃぁあああっ!」
「冷たっ!!」
「うっそー……」
「スマホ濡れちゃう!」
お茶を滴らせる4人。濡れ方は違うけれど、困惑と怒りの混じった表情だけは似たようなものだ。
「ポップコーンもどうぞ」
さらに河本くんは追い打ちのポップコーンまで撒き散らす。キャラメルのベタベタがうまい具合に働いて、お茶で濡れた髪の毛や服がポップコーンだらけになってしまう。
「ふざけないでよっ!」
濡らしたお茶が一瞬で乾いてしまいそうなほど激怒した福田さんが吠える。
「僕は本気だよ。もしまた香辻さんを侮辱するような事をするなら、熱いコーヒーを頭から被った方がマシだって思うことになるよ。覚えておいてね」
そう言って、河本くんは穏やかに微笑んで見せる。まるで動物をしつけるような視線に、福田さんたちは「ひっ」と小さな悲鳴をあげた後はもう絶句するしかなかった。
「お客様、どうかなさいましたか?」
騒ぎを聞きつけた劇場のスタッフさんが、野次馬の輪をかき分けて近づいてくる。
河本くんは固まって動けない桐子の手を握る。
「行こう、香辻さん」
桐子は手を引かれままに、その場を離れていった。
背後から福田さんたちの声が聞こえてくる。彼女たちも大事にはしたくないのか、スタッフを適当にあしらっているようだった。
桐子は俯いたまま歩いた。
足元だけ見ていても、河本くんが手を握って導いてくれる。安心で安全だ。そうしていれば、嫌なものを見なくて済むし、傷つける人から河本くんが守ってくれる。
でも、そうやって下ばかり見ていると、涙ばかりが落ちていく。
泣きたくないのに、ボロボロと溢れた雫がスカートを濡らす。
辛いのと、嬉しいのと、両方でぐちゃぐちゃだ。
呼吸と鼓動で、頭がガンガンして痛い。
「香辻さん、座って」
促されるままに桐子は腰を下ろす。お尻が感じる硬さはベンチだ。
すぐ近くに非常階段がある。建物の隅だからか、空調があまり効いていず肌寒い。人の気配もなく話し声も聞こえてこない、建物のエアポケットのような場所だった。
「迷惑かけて……ごめんなさい」
擦り切れそうな声で桐子が謝ると、河本くんは困ったような顔で笑った。
「謝らないで。僕が勝手にやったことだから」
そう断ってから河本くんは、桐子の横に座る。
「誰だって触れられたくない過去はある。それを持ち出すなら、ナイフを向けるのと同じ覚悟を持つべきだ」
河本くんの真剣な横顔は、まるで自分自身を見つめているように思えた。
桐子が断片的に知っている河本くんの過去は、どれも平凡とは程遠いものだ。きっと河本くんには思う所が沢山あるのだろう。
「スカッとした?」
そう尋ねる河本くんは、気遣うように表情を緩めていた。
「……少し」
福田さんたちに囲まれて息が苦しかった事より、彼女たちがびしょ濡れのポップコーンまみれになっている姿のほうがハッキリと思い出せた。
「ならよかった」
膝に手をついた河本くんは、長い息を吐き肩の力を抜いて俯いた。
「河本くんがあんなことするなんて思ってもみませんでした」
「僕だって頭に血がのぼることぐらいあるって」
「そうですか? いつだって冷静に全体を見渡してる気がしますけど」
「肝心な時にそれが出来ないんだ。ハイプロライブの時だって」
言いかけた河本くんは、ハッとして桐子から視線をそらす。
「ライブの時?」
「な、なんでもないから」
動揺しているような、恥ずかしがっているような、桐子にはよく分からない反応だった。河本くんはVチューバー好きだから、桐子の見えないところで、ライブで盛り上がってハメを外していたのかもしれない。
桐子の問いかける視線を気まずそうに受けながら、河本くんは口を開く。
「……僕は感情で動くのは愚かだと思ってた。理論で作り上げたものこそが正解で、それ以外は間違い。だから、失敗だと判断したら切り捨てた」
前に作曲家のスミスさんが話していた事を桐子は思い出す。河本くんはアオハルココロちゃん以前にも、5人のVチューバーをプロデュースしていたらしい。
「でも、それって自分一人の時だけに通用する方法だったんだ。数学や物理みたいな勉強なら、理論だけでよかった。得意だからって、甘えてただけだったんだ」
河本くんは恥じ入るように自分の手を見つめる。
「最近ようやく分かったんだ。他人と関わるなら、自分や相手の感情を優先しなくちゃいけない時もあるって」
黒い瞳が桐子を見つめる。
「灰姫レラが、香辻さんが僕に教えてくれたんだ」
そう言って河本くんは微笑む。
ありがとうって言われた気がした。
でも、自分にその気持ちを受け取る資格があるのだろうか……分からない。
「私は……、他人の感情が怖いです」
彼女たちの声が残響のように、桐子の頭の中にはまだ残っていた。
「笑い声を出していても不機嫌かもしれない、涙をこぼしていても笑っているかもしれない、怒鳴っていても喜んでいるかもしれない」
目に見えるものと、心の中が一致しない。
「幽霊みたいに無視されてると思ったら、いきなり弄られたり馬鹿にされたり……」
不安定な空模様みたいだ。傘を持っていったら、晴れなのにと笑われる。傘を置いていったら、雨に濡れてびしょびしょだ。
「あの人達がいじめに関わってたんだね」
河本くんの言葉に桐子は頷く。
「なんでそうなったのか分からないんです。いままで普通に話してた人たちが、いつの間にか私の事を無視したり、ふざけて突き飛ばしたりするようになって……。最初は私が鈍いから何か怒らせちゃったのかなぐらいに思ったんです。時間が経てば、もとどおりになるって……」
理由が分からないなりに、すこしでも思い当たることを謝ったり、不快に思われないように愛想よく笑ってみたりもした。
「だけど、風邪が酷くなるみたいに皆が変になって……学校での居場所もなくなちゃって……」
次第に学校そのものが『来るな』と言っているように思えてきた。
「水織ちゃん、最後まで私と仲良くしてくれてた友達まで無視されるようになって」
限界だった。
「学校にいけなくなっちゃいました」
それからアオハルココロちゃんと出会って高校に入るまで、ずっと引きこもりだった。
「香辻さんは自分と友達を守ったんでしょ。なら、」
「違う!」
桐子は首を振る。
激しく振り乱した髪が涙の跡に張り付いてしまう。
「私、逃げたの! 水織ちゃんのことを言い訳にして……」
河本くんの前だけでは、自分を取り繕いたくなかった。
「水織ちゃんにまで嫌われるのが怖くて、自分から切ったんです。心配してかけてくれた電話も、送ってくれたメッセージも、全部無視して……。結局、私も一緒なんです。優しくしてくれた彼女を傷つけた……自分を守るために」
後悔する資格なんて無い。
どんなに謝ったとしても、どんなに今を頑張ったとしても過去は変えられない。
「香辻さん」
河本くんは椅子から立ち上がると、うつむく桐子の前に屈む。
「自分を大切にすることに罪悪感を持たないで。そうじゃないと……誰も救われないよ」
なんで河本くんにまで、こんな辛そうな表情をさせなくちゃいけないのか。
「こんな自分が嫌なんです。誰かに嫌われないか、変なこと言ってないか、不快にさせてないか、心配で仕方がないんです。配信(灰姫レラ)じゃないのに、そんなことばかり気になって……」
「それも優しさの形じゃないかな」
桐子は頑なまでに首を横に振る。
飲み込めない、河本くんが優しいから。
「アオハルココロちゃんに会えてコラボして、ハイプロのライブにまで出演させてもらって……前に進めた気がしてた」
全部河本くんのお陰だ。
「でも、灰姫レラじゃない私は、臆病で弱いままだったんです……」
「あの人たちに会って昔のことがフラッシュバックしてるだけだよ。香辻さんはちゃんと前に進んでる。自分じゃ認められなくても、僕は知ってるから」
はっきりと目を見て、河本くんは言ってくれる。
「ありがとう、河本くん」
こんな自分にも優しくしてくれる。
でも優しさに甘えてちゃダメなんだ。
「悔しいです」
いつまでも寄りかかってるだけの自分じゃダメなんだ
「河本くんや夜川さん、スミスさん、私の周りには沢山のひと達がいてくれる。なのに、なんでまだあの人達に、過去に心を支配されないといけないの……」
ふつふつと湧き上がってくるものがあった。
今までずっと目を背け諦めていた感情だ。
「強くなりたい。泣きたくない時は泣かないように、逃げたくない時は逃げないように」
他人と衝突するのが怖かった。ずっと避けて来た。
でも、それじゃ強くなれない。
「私も河本くんみたいに戦える人になりたい」
桐子は河本くんの右手をとり、誓うように両手でギュッと握る。河本くんは驚いた顔をしていたけれど。
「うん、分かった」
小さく頷いた河本くんは、握りしめる桐子の手に左手を重ねた。
「強くなりたい」
決意した桐子が選ぶ道とは?
次回から#14(第三部2話)が始まります!
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