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森の民 掟に背く風来坊

作者: S.U.Y

 都から遠く離れた辺境の地、深い森の側に小さな村があった。緩やかな丘の上に木の柵を張り巡らせた、モット・アンド・ベーリー様式で建築されたそこそこ堅固な防壁を持つ、田舎の村である。

 村の民たちは、森の恵みとわずかな規模の畑を耕し生活をしていた。国同士の争いも無い、ごくごく平和な村落である。住民たちの気性も穏やかで、魔物が出没する森の奥へは決して足を踏み入れなかった。

 村へやって来るのは、一応村へと繋がっている街道からの行商人と、そして極稀に訪れる冒険者などである。前者は村の産物をいくつか購入し、僅かな外貨を落としてゆく。そして後者は、まだ見ぬ冒険の地を求めてさらに辺境へと通り過ぎてゆくのみであった。

 そんな辺鄙でありふれた村に、キーラという一人の村娘がいた。村の門から外へと出てゆき、森へと入ってゆく。手にしているのは、薬草籠のみだった。森の奥へは入らず、浅い部分で薬草を集めるには、それで充分なのだ。実際、キーラの行く手に現れるのは、ウサギやリスなどの無害な小動物のみである。素朴な顔を笑みで緩めながら、キーラは小動物たちに挨拶をしつつ森を歩いていた。

 薬草の群生地までは、何事もなく到着できた。腰を屈め、キーラは丁寧に薬草を摘んでゆく。子供の頃から、大人に連れられてやってきては繰り返した所作である。慣れた手つきで摘み続ければ、ほどなく籠はいっぱいになった。

「これくらいで、いっか。そろそろ、帰りましょ」

 ひとりごちて、キーラは籠を抱えて来た道を引き返す。足取りは軽く、枯れた木の枝を踏むと小気味よい音が鳴った。

 ごくごく平凡な、帰り道。そこで、異変は訪れる。森を軽やかに歩くキーラの行く手で、茂みがガサリと揺れたのだ。

「……ウサギさん?」

 首を傾げるキーラの目の前に、飛び出してくるものがあった。残念ながら、それはウサギなどでは無い。

「へっへっへ、今日はツイてるぜ」

 下卑た濁声と共に現れたのは、流れのごろつき風の男であった。男の汚い風体と、その手に握られたぎらりと光る鉈にキーラは息を呑む。

「ひっ……」

「おっと、怖がらなくてもいいぜ、お嬢ちゃん。ちょっと、旅の慰みに、お嬢ちゃんを使わせてもらうだけだからよ。たっぷり楽しんだ後は、ちゃあんと売り飛ばしてやるから、心配すんなよ」

 いかにも盗賊風の男が、そんなことを言いながらキーラへと近づいてくる。さあっと、キーラの全身から血の気が引いた。

「やあっ!」

 抱えていた籠を、キーラは男目掛けて投げつける。真正面から飛来した籠を鉈で斬り払った男に、中身の薬草が散らばり降りかかる。

「んなっ……ぺっぺっ! 無駄な抵抗はやめろ!」

 がなり立てる男に背を向けて、キーラは脱兎のごとく駆け出した。早く、逃げなくては。恐怖と焦燥で頭をいっぱいにしたキーラの側で、再び茂みが揺れる。あっ、と思う間も無く、キーラの顔面にがつんと衝撃が走る。直後、仰向けに倒れるキーラに、大きなものが覆いかぶさってくる。

「何やってんだ。こんな小娘相手に、油断もいいとこだな」

 キーラにのしかかる重いものが、汚い声で仲間を罵倒する。くわんくわん、と揺れる意識の中でその声を聞いたキーラの頭に、絶望が過ぎった。陰惨な未来を想像し、キーラの目に涙が浮かぶ。

「へへへ、泣くなよお嬢ちゃん。いまに、良い声で啼かせてやるからな……」

 太い男の指が、キーラの身体に触れて来る。絶望の中で、キーラに出来ることといえば神に祈ることだけだった。幼い頃、村の老司祭が教えてくれた祝詞を、キーラはぎゅっと閉じた瞼の裏に浮かべる。だが、教えの通り、神が救ってくれるということなど無い。キーラは、僧侶ではなくごく普通の村娘なのだ。特別に、信心深いということも無い。流れ者に身体をまさぐられつつ、キーラの脳裏には老司祭の穏やかな声が走馬燈のように浮かんでは、消えていった。

「こいつ、結構いいもの持ってんじゃねえか」

 ついに、男の手がキーラのシャツを割りその身体を木漏れ日の元に晒し出してしまう。ああ、とキーラの口から諦めの吐息が漏れた、そのときである。

「その子から、離れろ」

 低く、深い声がどこからともなく聞こえてくる。幻聴ではないか、とキーラは眉を寄せ、うっすらと目を開く。キーラの上に乗った男が、きょろきょろと辺りを見回していた。幻聴では、ないらしい。

「誰だっ!」

 濁声による問いかけと同時に、キーラの上から重みが消える。ほうっと詰まりそうになっていた息を吐き、キーラはしかし起き上がることが出来ずにいた。顔を殴られた衝撃が、まだ残っていたのだ。

「このまま、立ち去るのであれば、何もしない。しかし……これ以上、森で狼藉を続けるのであれば、阻止させてもらうことになる」

 姿の見えぬ声が、キーラと男たちの頭上から降り注ぐ。

「どこに隠れてやがるっ! 出てきやがれっ!」

 頭上の木々に向けて、男が怒鳴り声を上げた。

「いいとも」

 応えるように、男の眼前へ緑色の何かが降り立った。ほんのわずかな足音もさせず、空気を揺らすことさえ無い、それは密やかな登場だった。

「な、なんだ、てめえ……」

 突如現れた緑色のものに、男が震える声を向ける。よくよく見れば、それは枯れ草色の外套をすっぽりと被った、痩身長躯の人間の形をしていた。

「僕は、姿を見せた。だから、今度は君たちの番だ。ここから立ち去るか、手酷い傷を受け、追放されるか……道は、二つに一つ。どうする?」

 低く静かな声が、男たちへと投げかけられる。男たちは緑ずくめに目を向け、それからその背後の茂みが揺れるのを見つけてこっそりとほくそ笑みつつ口を開く。

「あー、俺たちの、答えは……だな。お前が死ね! だ!」

 三人目の男が、緑ずくめの背後に現れ鉈を振り上げる。よろよろと身を起こしかけていたキーラの口が、危ない、と声を発する直前。緑ずくめの姿が、消え失せた。そうして、何もない空間を男たちの鉈が通り過ぎ、地面にがつりと叩きつけられる。

「な、んだあ?」

 訝しげに、男たちは首を傾げる。

「なるほど。それが、君たちの答え、か」

 静かな声は、三人目の男の後ろから聞こえた。

「うっ……」

 鉈を手元へ戻そうとした男が、白目を剥いてゆっくりと倒れ伏す。

「て、てめえ、一体何を……ぐっ」

 真正面でそれを見ていた男が、鉈を振り上げようとして仰向けに倒れた。

「な、なんだ? 一体どうなってやがる!」

 狼狽えた声を上げる男が、首を巡らし視線を彷徨わせる。緑ずくめの姿が、再び消えてしまったからだ。

「残りは、君だけのようだが……」

 男の肩に、背後からぽん、と緑ずくめの手が置かれた。

「ひ、ひいいいっ! 助けてくれえっ!」

 恐怖に駆られた男が、鉈を捨てて駆け出した。

「そのまま進むと、森の奥へ行ってしまうぞ? むむ、もう、聞こえないか」

 駆け去る男へ、緑ずくめが手を伸ばす。だが、男は振り向きもせず、全力疾走で森の奥へと向かってしまった。

「やれやれ……森の奥は、危険なのだが。まあ、仕方無いか。さて」

 肩をすくめた緑ずくめが、キーラの元へとゆっくり近づいてくる。差し伸べられた手に、キーラはぼんやりとした視線を向けるばかりである。

「大丈夫かな、お嬢さん?」

 問われ、うなずいたキーラは視線を上げて、緑ずくめの顔を見て、ひっと息を呑んだ。その顔には、ボロボロの深緑色の包帯が巻かれていたのだ。目元と口元にわずかな隙間があるだけで、その容貌は完全に覆い隠されている。

 異形に慄くキーラの前で、緑ずくめは困ったように包帯頭をぽりぽりと掻いた。

「ああ、怖がることは、無い。といっても、無理か。だが、すまないねお嬢さん。掟で、僕は素顔を晒すことは出来ないんだ」

 緑ずくめの言葉には、心底すまなそうな感情がこもっていた。何となくそれを察知したキーラは、慌てて身を起こし緑ずくめに頭を下げた。

「と、とんでもありません! あ、あのっ、危ないところを、助けて、いただいて……ありがとうございますっ!」

「何、気にしなくても、いいよ。通りがかりに、ちょっとしたお節介を焼いただけなのだから。君は、この森に、住んでいる人かな?」

 穏やかな声で緑ずくめはキーラの謝罪を受け容れ、問いかけてくる。キーラはぶんぶんと首を横へ振った。

「い、いえ! 私は……森のすぐ近くの、村に住んでる、キーラっていいます」

「そうか。僕は、ハンゾーという名だ。キーラさん、もし、良かったらその村へ、送っていってあげようか。さっきの狼藉者どもの、仲間がいないとも限らないから」

 ハンゾーと名乗った緑ずくめの言葉に、キーラはぶるりと身を震わせうなずいた。

「よ、よろしく、お願いします」

「いいよ。そんなに固くならなくても。それから、散らばってしまった薬草、君が集めたものだろう。拾い集めてしまおうか」

 優しい声をかけるハンゾーに、キーラは笑みを見せてうなずく。幸い、籠はちょっと傷が付いただけで、それもハンゾーが簡単に補修して問題無く使えるようになった。ハンゾーと二人、散らばった薬草を集め、キーラは村への道を歩き出す。ハンゾーは静かに、穏やかな歩調でキーラに続いた。


 村の門をくぐるのは、一苦労であった。顔に青黒い痣を作ったキーラと、怪しい風体のハンゾーを門番が止めたためである。キーラはハンゾーが命の恩人であることを必死に説明し、そうして流れ者が森の中に潜んでいることを告げてようやく中に入ることができた。それが、一時間前の出来事だった。

 今、キーラはハンゾーを連れて村はずれにある廃教会へとやって来ていた。

「ごめんなさい、ハンゾーさん。本当なら、旅の人は村長の家に泊まることが出来るんですけど……」

 意気消沈の表情で、キーラはハンゾーに謝った。

「さすがに、この風体ではね。大丈夫、慣れてるから。それに」

 あくまで穏やかな声音で、ハンゾーが軽く流して教会を見る。

「結構、良い建物だよ、ここも。誰も住んでいないにしては、綺麗に見える」

「五年前に、司祭のお爺さんが亡くなってから、もう誰も住んではいないんです。でも、一応神さまのいる場所だからって、村のみんなで掃除だけは欠かさないようにしてたんですよ」

「なるほど。ここは、村の信仰の拠り所なんだね」

「そんな大層なものじゃありません。ただ、みんな何となく綺麗にしておきたいだけなんです」

 言って、キーラは教会の中へと入る。外から光が差し込んではいるが、中は薄暗い。

「待っててください。今、蝋燭を用意しますから」

「これくらいの明るさで、大丈夫だよ。中にあるものは、動かしても?」

 油紙に包んだ蝋燭を取り出すキーラを、ハンゾーが手を挙げて止める。そのまま、光源の乏しい内部へ難なく歩を進めるハンゾーにキーラが目を大きくした。

「み、見えるんですか?」

 慌てて追いかけようとしたキーラの足に、長椅子がぶつかり音を立てる。

「うん。でも……やっぱり点けてもらったほうがいいかな、蝋燭」

 暗い室内で、しかも包帯を巻いた顔からはハンゾーの表情は読めない。しかし、その声にはどこか苦笑が含まれているようにキーラには感じられた。

「……ごめんなさい。あ、中にあるものは、不便なようでしたら自由に動かしてくださいね。奥に、司祭のお爺さんが使っていたお部屋もありますから、寝る時はそっちを使ってもらって大丈夫です」

 蝋燭を灯しつつ言うキーラの前で、ハンゾーが並んだ椅子を端へやり、少し広めの空間を作る。

「ありがとう。そうさせてもらうよ。あっちの、奥の扉だね?」

 祭壇の横手にある扉を指すハンゾーに、キーラはうなずく。

「はい。お爺さんのものは、処分してしまったので何にも無い部屋ですけど……一応、鍵はまだ掛けられますから。ハンゾーさんは、そこで何をするんですか? お食事だったら、良かったら私の家で召し上がりませんか? 助けてくれた、お礼もしたいですし」

 キーラの提案に、ハンゾーが静かに首を横へ振る。

「ああ、大丈夫。食事は木の実なんかがあるし、君を助けることになったのも、たまたま通りがかっただけだから。今からやるのは、生薬作りだね。良かったら、キーラさんも見ていかない?」

 言いながら、ハンゾーが長い足を優雅に折りたたみ、床へ正座をする。

「生薬作り、ですか? でも、ハンゾーさん、手ぶらに見えますけど……ええっ?」

 首を傾げたキーラだったが、目の前のハンゾーが懐から次々に薬草を取り出し床に並べてゆくのを見て、驚きの声を上げる。摘みたての草の臭いが、小さな教会の聖堂へと満ちてゆく。瞬く間に、取り出された薬草はハンゾーの前で山となっていた。

「森を通る道すがら、少しずつ摘んできたんだ。あちこちからちょっとずつ貰ったものだから、生態系を乱したりはしていない筈だよ」

「そ、そうですか……」

 キーラにはハンゾーの言葉は難しく、よく分からないものだった。しかし、ハンゾーの懐から出てくるにしては、薬草の数はあまりに多い、ということだけは分かる。思わず、枯れ草色の外套を身に着けたハンゾーの痩せた身体をしげしげと眺めてしまう。

「どうしたの? 初めて見る薬草でもあった?」

 問いかける声に、キーラはふるふると首を動かす。

「い、いえ……たくさんあるなあ、って」

「単純にすり潰して煎じるよりも、組み合わせたほうが効果の高いものが出来ることもあるからね。あそこの森は、良い場所だよ。これだけ沢山の種類の植物が、互いの領分を侵すことなく生きているんだから」

 言いながら、ハンゾーがまた懐へと手を入れる。じっと見守るキーラの前で、ハンゾーの懐から出て来たものは……一抱えほどもある、大きな調薬鉢だった。

「えええええっ!?」

 キーラの上げた大きな声が、廃教会へと響き渡ってゆく。屋根の十字架から、驚いたハトが一羽飛び立っていった。


 一方、村の近くの森の奥では、ごそごそと動く多数の男たちがいた。恰好からいえば、まともな稼業に就いた人間ではなく、落ちぶれた盗賊、といった集団である。二十人ほどいる男たちが輪になって、味気の無い保存食を齧っていた。

「村の奴らが動き始めやがったお陰で、こんな奥のほうまで逃げて来なきゃならなくなっちまった。くそが」

 男たちの上座に座る、ひときわ体格の良い男が忌々しげに言う。

「田舎村の、間抜け面した兵士どもですぜ。やっちまえば、いいんじゃないですか、頭」

 隣で言う男に、頭と呼ばれた男は拳骨を落とす。

「馬鹿野郎! ここで騒ぎになりゃ、中央からもっと強力な奴らが来るかも知れねえじゃねえか! 盗賊狩りの騎士団どもの恐ろしさ、忘れたわけじゃねえだろう!」

「そりゃ、そうですが」

「それに、三人がかりで一人の野郎に襲い掛かって、逃げ帰ってきた馬鹿どももいる。ここは大人しく、ほとぼりが冷めるのを待つのが一番よ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、頭はちらりと広場の隅を見やる。寝転がっている二人の男と、それを介抱する一人の男がいた。

「おい、お前らが会ったってえのは、どんな奴だった」

 頭が声をかけるのは、介抱をしている男だ。

「か、枯れた葉っぱみてえな色のマントを着けた、ひょろっとした野郎でした。あっという間に、こいつら二人が伸されて……」

「伸された二人は、どうなんだ」

「揺すっても叩いても、目を覚ましやせん。寝ているだけに見えるんですが……頭、ここは、何だか変ですぜ。早く、出て行ったほうが」

「どこへ行くってんだ。これ以上辺鄙なとこに逃げりゃ、前人未到の魔境だぞ? んなとこ、俺は御免だ」

 男の言葉を遮り、頭が激しく首を振る。暗く沈んだ男たちの顔を見れば、皆頭の意見には同意のようだった。

「くそっ、どうすりゃいい……」

 焦りの色を浮かべる頭が呟いた、そのときだった。

「中々、興味深い話をしているじゃないか、お前たち」

 背後から聞こえた静かな声に、頭はバッと身を振り向かせる。

「だ、誰だ、てめえは!」

 いつの間にか、頭の背後に黒ずくめの男が一人、立っていた。

「誰でも良い。お前たちが先ほど話していた、枯れ草色のマントの男について、聞きたいだけだ」

「ふざけやがって……おい、てめえら!」

 黒ずくめの言葉に、激昂した頭が手下へ声を上げる。寝ている二人以外の男たちが、手に鉈をぶら下げて突如現れた黒ずくめを取り囲む。

「面倒が省けて、良い事だ」

 包囲を受けた黒ずくめが、笑みを含んだ声で言う。同時に黒ずくめは、背中に差した曲刀をすらりと抜いて構える。

「やるってのか……? こっちは、二十人だぞ」

 頭の言葉に、黒ずくめが小馬鹿にするように小さく息を吐く。

「有象無象が二十。それでは、この私の刀法・一刀両断を破ることは出来ん……」

 黒ずくめの全身から、妖気のようなものが立ち昇ってくる。底知れぬ不気味さを感じた頭は、思わず半歩身を引いて指令を下す。

「か、かかれえっ!」

 頭の指令に、男たちが鉈を振り下ろす。だが、黒ずくめの動きは、それよりも遥かに速い。

「刀法・一刀両断!」

 閃光が、男たちの間を駆け抜ける。同時に、黒ずくめに背を向けて頭は駆け出していた。

「ありゃあ、やばい奴だ! 畜生がっ!」

 駆け出した頭の視界が、ぐらりと揺れた。迫って来る地面に、頭は手を突いて受け身を取ろうとする。だが、それは叶わなかった。

「我が刀法の、間合いは長い。逃げ切れると思っていたか?」

 忌々しい黒ずくめの声が、まるで遠くから聞こえてくるようだった。頭の視界は、ぐるぐると回り地面と空を行き来する。ごつん、と鈍い音が鳴り、やがて視界の動きが止まる。馬鹿な。そう言おうとした頭が、最後に見たのは黒々とした土と木の根、そして首を失くして倒れ伏す己の身体であった。

「まもなく、追い付きます。大人しくしていてください、ハンゾー様……」

 暗く静かなその声を、もう頭は認識することは出来なかった。


 廃教会の白壁を、夕陽が赤く染めてゆく。換気のため開け放たれた入口の扉からは、濃密な草の臭いが漂っていた。

 聖堂の中心で、ハンゾーが調薬鉢を傾ける。とろりと流れ落ちる液体を、キーラは小瓶へと詰めてゆく。

「こうして、薬草を調合して生薬にしておくと、日保ちが良くなるんだ。葉っぱの状態で置いておくより、管理も易しい。それに、目端の利く商人には、薬草よりも高値で売れるよ」

「はい、ありがとうございます、ハンゾーさん。私の、採って来たぶんまで調合していただいた上に、調合のレシピまで教えていただけるなんて」

「僕のぶんのついでだったし、キーラさんが勉強熱心だったから、つい絆されただけ。気にしなくて、大丈夫だよ」

 優しく言ったハンゾーが、鉢を布で拭い懐へ仕舞う。どうやって大きな鉢を収納しているのか、と凝視するキーラを気にすることなく、ハンゾーが今度は小瓶などを懐へと入れた。

「あれ、ハンゾーさん? その木の実みたいなのは、調合しないんですか?」

 ハンゾーが無造作に掴んだ木の実を目にしたキーラが、小首を傾げた。

「これ? ああ、闇トネリコの種子だね。これは、特殊な薬の材料になるんだ。今調合しても良いのだけど、使い道が限られていてね」

「特殊な薬?」

「睡眠薬、だよ。精神的外傷などで、不眠を患っている人に用いる薬なんだ。薬品にすると、管理がちょっと大変でね。火の近くなんかに置くと、濃縮された薬効成分が膨張して大変なことになってしまうからね。だから、必要な時だけ、加工するようにしてるんだ」

 ハンゾーの難解な説明に、キーラは首の角度を深くして木の実を見つめる。丸い棘のような突起のある、栗色の木の実だった。

「……見たことない、木の実ですね。これも、あそこの森で採れるんですか?」

「うん。といっても、森の奥のほうでしか採れないから、キーラさんが普段目にすることは、まずないんじゃないかな」

 木の実を布で包み、懐へ入れつつハンゾーが言う。

「そうですね。森の奥は、危険だから村のみんなもまず入らないですし。でも、ハンゾーさんは、森の奥、入ってきたんですか?」

「うん。僕の着ている外套、魔物避けの仕掛けがあってね。希少な薬種が欲しかったこともあって、少しだけ入らせてもらったんだ。でも、君たちの迷惑になるようなことはしていないから、安心して」

 そう言って、ハンゾーがキーラへじっと目を向けてくる。緑色の包帯に包まれたその顔からは、表情は読めない。だが、開いた目と口元の部分には、穏やかな笑みがあるようにキーラには感じられた。

「は、はい……安心、しておきます……」

 ハンゾーに見つめられ、キーラはくすぐったいような息苦しいような、奇妙な気分になって口ごもる。しばし、沈黙が流れた。

「そろそろ、日が暮れるね。家に帰ったほうが、良いんじゃないかな、キーラさん?」

 ぽつりと言ったハンゾーに、キーラは扉の外へと目をやった。茜色だった空は、もう闇に染まり銀色の月が姿を見せている。

「そう、ですね。ご飯の支度も、しなきゃいけませんし。あ、ハンゾーさん、もし良かったら、私の家で一緒に食べませんか? うちには井戸もありますので、身体を洗ったりもできますし」

 キーラの提案に、ハンゾーが首を横へ振る。

「大丈夫。僕は、食は細いほうだから。木の実が少し、あればいいんだ」

「でも……」

 キーラはハンゾーに近寄り、すんすんと鼻を鳴らす。

「ほえっ!? キーラさん!?」

 触れそうなほどの距離にあったハンゾーの身体が、奇妙な悲鳴とともに遠ざかる。

「身体は、ちゃんと綺麗に拭っておいたほうが、いいですよ……って、いつの間に壁際に?」

「う、うん。でも」

「手も洗わないと、薬草の臭い、取れなくなっちゃいますよ?」

「あ、うん……」

「食が細いなら、私も困ることはありませんし。助けていただいたお礼と、レシピを教えてくださったお礼、させてくれませんか?」

 じっと、上目遣いにキーラはハンゾーを見つめる。

「……うん、お言葉に、甘えるよ」

 観念したように、ハンゾーが言った。


 月が、中天から沈み始めようとする夜半時。毛布を抱えたキーラは、廃教会へ早足で向かっていた。

「ハンゾーさん、慌てて帰っちゃうんだもん。全く……ふふ」

 夜目の効かないキーラではあるが、冴え冴えとした月の光に照らされた、歩きなれた道は何の障害にもならない。足元に気をつけつつ、歩くその顔は笑顔であった。

「盗賊たちをあっという間に伸しちゃったり、薬草の調合方法を詳しく知っていたリするけど……案外、純朴なひとなのね」

 軽やかに夜道を進みながら、キーラはそんなことを口にする。夜更けの時間帯であるので、誰に聞かれる心配もない。だから、キーラの独り言は憚り潜めることもないのである。

 井戸で、ハンゾーが水浴びをしていた時のことだ。キーラも、薄着で井戸の側へと向かい、ハンゾーと一緒に身体を清めようとした。小さな村で、鷹揚に育てられたキーラであれば、それは奔放に過ぎる、ということではない。ごく自然に、ハンゾーの背中を拭う手伝いをしよう、と考えただけのことだった。

 そんなキーラに、ハンゾーはその場で跳び上がり、茂みに身を隠してしまった。ちらりと見えたハンゾーの背中は、まるで女性のように華奢で、そして美しかった。思い返すキーラの中に、得体の知れない感情がふつふつと沸き上がってくる。それは心地よく、触れる夜気を涼しいものにしていた。

「ハンゾーさん、ずっと村にいてくれないかな……そもそも、ハンゾーさんはどこから来て、どこへ行こうとしているのかしら」

 何となく、聞きそびれていた疑問をキーラは口にする。まだハンゾーが起きていたならば、聞けば良いことだ。そう考えるキーラの行く手に、やがて廃教会が見えてきた。

「あれ……教会の入口に、荷車が停まってる?」

 廃教会の入口に、見たことの無い荷車があった。荷台は空っぽで、荷を覆っていたものか、白い布が傍らに落ちていた。

「ハンゾーさんが、懐から出したのかな……? ううん、まさかね」

 突拍子もないことだ、と頭の一部で否定するも、ハンゾーならばやりかねない、とキーラの頭の片隅には奇妙な納得もあった。そんなキーラの耳に、物音が聴こえてくる。

「教会の……裏手? 何かしら」

 きっと、そこにハンゾーもいるだろう。そう思い、キーラはぐるりと廃教会の裏手に回る。果たして、キーラの視界に人影が映った。

「ハンゾーさん?……いえ、違う」

 目に入ってきた二つの人影に、キーラは咄嗟に廃教会の壁を背にして角に身を潜める。そっと首を伸ばし、裏手を覗き込んだキーラは大きく目を見開いた。

「あ、あれは……森にいた、盗賊?」

 よくよく見れば、人影はキーラを襲った二人の盗賊だった。なぜ、村の中に入り込んでいるのか。早鐘を打つ胸のあたりを押さえつつ、キーラは息を呑む。キーラが動揺する間に、二人の盗賊たちは火打石を用い、裏手に積み上げられた何かに火を灯そうとしていた。

 かちり、かちりと石が鳴り、火花が散る。その瞬間、白壁に添うように積み上げられたものが激しく燃え始めた。

「きゃっ……!」

 燃え盛る炎は瞬く間に、壁を伝いキーラの元まで到達する。噴き上げる勢いの炎に押し出されるように、キーラは前のめりに倒れた。炎はキーラのいた場所を通り過ぎ、廃教会をぐるりと、とぐろを巻く蛇の挙動をもって延焼してゆく。

「は、ハンゾーさん、ハンゾーさんはっ……!」

 熱い炎の帯を前に、青い顔になったキーラは起き上がり、教会の入口へと駆け出した。その背後、教会の裏手では二人の盗賊が炎に巻かれ、成す術も無く焼け死んでいったがキーラがそれに気づくことは、無かった。盗賊たちは断末魔の悲鳴も上げず、虚ろな目で静かに灰になっていったのだ。

「ハンゾーさんっ!」

 油でも撒かれていたのか、激しく燃え上がる扉へ体当たりを敢行したキーラは、そのまま教会の床へと倒れ込む。ちりちりと、頬のあたりに鋭い痛みが訪れた。キーラはそれを顧みず、顔を上げて硬直する。

「キーラさん!?」

 そこへ見えたのは、驚いた声を上げてキーラを見やるハンゾーと、そして。

「招かれざる、客ですか……」

 ハンゾーと対峙し暗い声を出す、黒ずくめの男がいた。


 廃教会の燃える少し前、聖堂の真ん中でハンゾーは座禅を組んでいた。

「……キーラさんは、思ったより奔放なひとなのかも知れない」

 ハンゾーの前には、一本の蝋燭が立てられており、その炎は彼の内面を表すかのようにちろちろと揺れ、震えていた。

「未婚の女性の肌を、妄りに目にしてはいけない……はあ。また、掟を破ってしまうところだった」

 井戸の側で、背後から近づく気配は感じていた。そうして、振り向いた先には察知した通り、キーラがいた。少し前の出来事を、ハンゾーは頭の中で反芻する。ハンゾーの鋭すぎる動体視力は、彼女の短衣からのぞく日に焼けたすらりとした手足を、しっかりと捉えてしまっていた。

「やっぱり、森の外は色々と危険なのかも知れない……」

 キーラの気配からして、あの行為は何でもないことのようだった。とすれば、ハンゾーの知る世界の常識と、森の外の常識は激しく乖離してしまっているのかも知れない。悶々と、そして戦々恐々とする自身の心を、ハンゾーは静かに宥め続ける。

 そうした、雑念があった為だろう。だから、ハンゾーは()()()()()()()

 座禅を解き、ハンゾーはゆっくりと立ち上がり教会の入口へと身体を向ける。

「……こちらへ、入ってきたらどうだい?」

 呼びかけるのは、一見して無人の入口のすぐ外である。しかし、それに応じるように、扉がぎしりと開かれた。

「お久しゅうございます、ハンゾー様」

 夜陰の中から溶け出すように、一人の男が現れる。黒い頭巾に覆面、そして黒の布服と刀を身に着けた長身痩躯の男である。

「君が、直々に来るとはね、ゲンバ」

 出現した黒ずくめに、軽く驚いたような声音を作りハンゾーは言った。

「早速ですが、要件をお伝えします」

 ゲンバ、と呼ばれた黒ずくめが、足音を立てずにハンゾーへと歩み寄り、三歩ほどの場所で止まった。

「見当はついているけど……聞こう。兄上は、何と?」

 対峙するハンゾーは、あくまで静かな口調で問う。

「兄上様、サイゾー様は、サイレントクロークの森へ、戻るようにとの仰せです。今ならば、掟を破ったことを無かったことにしても良い、と」

「長の許し無く、森の外へ出ること、並びに森の外で長く活動をすることを、禁じる。その掟には、従えない。僕が戻れば、森に余計な諍いが生まれることになる。兄上には、そう伝えてくれないか、ゲンバ?」

 ハンゾーの答えに、ゲンバが小さく息を吐く。

「それが通用する段階は、とうに過ぎ去っているのです、ハンゾー様。もはや、猶予はありません。俺には、力ずくでも連れ帰れ、という厳命が下されています」

 言葉とともに、ゲンバから強い気迫が叩きつけられる。ハンゾーはそれを、真向から受け止めた。

「戻れば、僕は陽流の代表者として、陰流を極める兄上と戦うことになる。それは、亡き父上の望むことではない。それに、僕は……陽流に、別の可能性を感じるんだ。森の外を、救う可能性を、ね」

「……意思は、堅いようですね。仕方ありません」

 そう言ってゲンバが、奥歯を噛んで鳴らす。不可視の音波が、廃教会の中へと響き渡る。

「ゲンバ、まさか、仕掛けを!?」

「ここにお一人でおられたのは、幸いでした。我らの姿を見たものは、悉くを殺さねばならぬ掟。手間が、省けたと喜ぶべきでしょうな」

 驚きの気配を漏らすハンゾーに、ゲンバが背中の刀を抜きつつ答える。同時に、廃教会が熱気に包まれてゆく。

「陰流、火炎地獄陣。もはや、この地は死地と化しました。逃げることは、諦めなさいませ、ハンゾー様」

「やめろ、ゲンバ。ここは、この村の人たちにとって、大切な……っ!」

 言葉の途中でハンゾーは、半歩後ろへ飛び退いた。しゅっと空気の裂ける音とともに、それまでハンゾーの頭のあった空間を刃が通り過ぎてゆく。

「さすがは、ハンゾー様。一太刀で、という訳にはいかぬようで……おや」

 振り抜いた刀を戻し、構えかけたゲンバが入口のほうへ目を向ける。陰流の技によって燃え上がる扉が、内側に向けて爆ぜるように砕けたのは、その直後のことだった。

「ハンゾーさんっ!」

 扉を破り、勢い余って転倒した女性が呼びかけてくる。

「キーラさん!?」

 ハンゾーの頭の中が、驚きと、そして自責の念に溢れた。何故、彼女の近づいてくる気配に気づけなかったのか。そして、何故彼女が地獄火炎陣の只中へ、飛び込んできたのか。扉は、炎に焼かれ脆くなっていたのだろう。だが、燃えさかる火の中へ、どうして。ぐるぐると、ハンゾーの中で思考が回る。

「招かれざる、客ですか……」

 ゲンバの低い声が、ハンゾーの思考を断ち切った。ハンゾーは呆然と立ち尽くすキーラの側へ移動し、その身体を横抱きにして勢いのままに跳んだ。ゲンバの凶刃が、ハンゾーとキーラのいた場所を擦過したのは、その直後のことだ。

「ゲンバ! 彼女は、関係の無い人だ!」

「だからこそ、ですよ。掟に従い、その女は殺します。掟は、絶対なのですから」

 踏み込み、刀を振り抜いた姿勢から素早くハンゾーへ向き直りゲンバが言った。

「……させない。ゲンバ、ここでお前を、倒す」

 静かな、しかし決意を込めた声音でハンゾーは言う。ゲンバへ目を向けたまま、抱えていたキーラをそっと降ろした。

「ハンゾー、さん?」

「キーラさん、僕の後ろに、下がっていて……あっ」

 問いかけるキーラに言葉を返すハンゾーの顔から、ぺらりと包帯が落ちた。ゲンバの二度の斬撃は、僅かにハンゾーを捉えていたのだ。

 炎に照らされた教会の中で、ハンゾーの素顔が晒される。包帯の下にあるのは、きめ細やかな肌と少し垂れ目ぎみの優しげな顔、そして長く尖った耳である。

「ハンゾーさんが、エルフ……?」

 呟くキーラの声に、ハンゾーの表情は苦いものになる。そして目の前のゲンバの殺気が、さらに大きく膨れ上がった。

「素顔まで見られたとあっては……ますますその人間の女は、殺さねばなりませぬな、ハンゾー様」

 言いながらゲンバが、自らの覆面に手をやった。

「まさか……ゲンバ!」

 呼びかけるハンゾーの前で、ゲンバが覆面を取った。細面の、怜悧な印象を受ける美貌、そしてハンゾーと同じ長い耳が、人間の女(キーラ)の前に露わとなった。

「掟は、守らねばなりません。俺は、貴方と違って掟に忠実ですからね。最大の、奥義をもって葬ります。庇うのは構いませんが、出来れば死なないでください、ハンゾー様」

 にやり、と不敵な笑みを浮かべ、ゲンバが構えるのは大上段の構えである。右手一本で剣を握り、拳に固めた左手を右手首に添える。独特のその構えに、ハンゾーは目を見開いた。

「刀法・一刀、両断……陰流の奥義を、遣うようになったのか」

「あなたを追う忍務を受ける際、サイゾー様に授けられたのです。薬学を主として扱う陽流では、この太刀は防げますまい。御覚悟を」

 ゲンバの殺気が、天井を向いた切っ先に集まってゆく。

「キーラさん」

 対峙したまま、ハンゾーはキーラへと声をかける。

「はい」

「隠していて、ごめん。それと、今のうちに……さよなら」

「えっ?」

 場にそぐわぬ穏やかな別離の言葉に、キーラが声を上げる。ハンゾーは構わず、人差し指を立てた両手を組み合わせ、印を組む。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前……」

 ハンゾーの周囲の空気が、不自然な流れを見せる。その足元から巻き起こる風が、ハンゾーの金の髪をさらりと揺らした。

「陽流得意の、小細工ですか。ですが、そのようなもの、まとめて叩き斬って差し上げましょう」

 じり、とゲンバがすり足で、ハンゾーへにじり寄る。印を組んだまま、両目を閉じてハンゾーはそれを迎え入れる。ほんのわずかな、静止の時間が過ぎてゆく。

「刀法・一刀両断!」

 裂帛の気合を込めた叫びが、ゲンバの口から放たれる。

「忍法・風宴舞」

 ほぼ同時に、ハンゾーが静かに術を発動させる。直後、踏み込みかけていたゲンバが大きく飛び退いた。ゲンバの前方に、激しい炎が叩きつけられる。それは、入口の扉の外で燃えていた炎であった。

「風の術で、火炎地獄陣を動かしましたか。そのまま斬りかかれば、焼き尽くされてしまうところでした……しかし、残念ですがもうそれも見切りました。超高速の踏み込み、一刀両断にて次こそは」

「次は無いよ、ゲンバ」

 笑みを深くするゲンバに、ハンゾーは落ち着いた声で告げる。

「ほう、それは一体……う、ぐっ」

 訝しむゲンバの表情が歪み、その手から刀が落ちる。膝から崩れ落ちるように、うつ伏せにゲンバが倒れた。

「闇、トネリコ……? まさか、あの、炎、は……」

 床に転がる小さなものを見つめ、ゲンバが呟く。立ち上がろうとするその手が、ぱたりと落ちた。

「陽流の奥義は、知識そのものだ。闇トネリコの睡眠効果は、しばらく続く。その間に、暗示をかけさせてもらうよ、ゲンバ。そして、キーラさん」

 ハンゾーの背後で、キーラがぱたりと倒れた。すやすやと眠るその顔は、あどけなく安らかなものだった。

「忍法・立つ鳥跡を濁さず」

 外壁の焼け焦げた廃教会の中で、ハンゾーの静かな声が響いた。


 村の廃教会に、不審火があって数日後。キーラは()廃教会へと向かう。その姿は村娘ふうのものではなく、荷物鞄を背負いズボンにブーツを履いてマントを身に着けた旅装であった。

 廃教会だった建物は、不審火の翌日、村に新たにやってきた司祭によって一日で建て直されていた。村のみんなは訝しがり、神の奇跡だと感動していたが、キーラは違った。

「おはようございます、ゲンバさん!」

 新しくなった教会の前に立つ司祭へ、キーラは元気よく挨拶をする。

「おはようございます、キーラさん。今日、旅立たれるのですか」

 仮面とフードで頭部を隠した司祭のゲンバが、低い声で問いかける。

「はい。表向きは、生薬の行商ということで、村長さんからは許可を頂けました」

 にこやかに言って、キーラは背負った鞄をくるりと示す。

「そうですか……ですが、易しい旅になる、とは言えませんよ? あの御方の足取りを、追うのはとても大変なのです」

 うなずきを見せるゲンバであったが、その言葉は重い。

「大丈夫です。いつか、必ずあのひとに、たどり着いてみせますから! 応援していてくださいね、ゲンバさん!」

「……あなたに、神のご加護がありますように」

 ゲンバに見送られ、キーラは重い荷を背負い足取り軽く村を旅立ってゆく。あの日見た、枯れ草色の外套を目指して。


 キーラを見送ったゲンバは、ふっと息を吐く。

「ハンゾー様、あなたにしては、らしくない失敗でしたね……」

 遠い空を見上げ、ゲンバは届かぬ言葉を呟く。暗示により、ゲンバの中からはハンゾーへの敵愾心などは薄れ、陽流の技を用いて村を助けるべく司祭としてここにいる。ゲンバにかけられた術は、完璧であった。

「心術は、真に惚れた相手には効かぬもの。初歩の初歩ではありますが……なんとも、貴方らしいことです」

 ぽかぽかと照り付ける太陽に目を細め、ゲンバは流れる雲に語り掛ける。

「俺の失敗は、すぐにサイゾー様の知るところとなりましょう。恋する乙女と、新たな刺客。貴方を追う者は、さらに増えてゆくことでしょうなあ」

 空の上で、くるりと輪を描く鳥を眺めてゲンバはもう一度、息を吐いた。

「こうなれば、貴方の旅の無事を、祈らせていただきますよ、ハンゾー様」

 言って、ゲンバは教会の中へと姿を消した。感慨に浸っている時間は、ゲンバには無い。陽流の、技をひとつひとつ、覚えてゆかねばならないのだ。野草を挽く音が、しばし教会から流れてくる。屋根の十字架の上に、一羽のハトが止まった。


 のんびりと街道を歩き、ハンゾーは新たな地へと向かっていた。あてのない、のんびりとした旅路である。行く手に、何が待ち受けているのか。どんな出会いがあるのか。そして、過去からの追っ手が、いつ現れるのか。枯れ草色の外套を揺らし、歩くハンゾーにはまだ知る由もないことなのであった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。

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