八
死傷した鯨を「寄せ鯨」と言い、海の賜物として食すことは昔からあった。鯨を舟で取り囲み、銛を打ち込む「鯨狩り」も、困窮した漁民の最後の手段として行われていた。
だが、璽師のように一人と一艘の舟と一本の剣で鯨を殺そうとする者はいない。
「やはり無理なのか」
と呟く。
璽に巡り会えた璽師が、相応しい朱を作るため、鯨を狩る。璽師は誰にも言わなかったが、これまで鯨を殺した璽師はいないと気付いていた。璽師は鯨に挑み、鯨は璽師を殺し、そこで血統が絶える。大王は大漢の皇帝に謝辞を述べ、野蛮の地に璽の扱いに長けた者の招聘を求め、新たな朱璽が完成するのだ。海津屋は本来、鯨に殺された璽師を供養するためのものだった。
それが古来からのしきたりなのだ。
鯨を狩るなどという話が昔語りにも残っていないのは、失敗したからに決まっている。璽師ほどの聡明な女が朱璽に秘せられた思惑に勘付かないはずがなかった。逃げようと思えば逃げられた。実際に逃げた璽師もいただろう。
女には、大王の側に控える者としての矜恃があった。
面と向かって死ねと言われたわけではない。死を期待しているのであれば、生きるのも勝手であろうと璽師は思っていた。困難であろうとも成し遂げる自信はあった。一人で城を傾けた女もいるし、国を滅ぼした女も枚挙に暇はないのだから。
烏賊を飲み込む鯨の口が、飛沫と恐怖を撒き散らす。
「璽師様、どうする」
古瀬丸が大声を出した。
海の質量が膨張し、小舟に押し寄せる。鯨の巨躯が浮かび上がり、沈むのを、璽師も古瀬丸も凝視することしかできなかった。息を止めていたからか、鯨が潜った後で、古瀬丸は荒い呼吸を繰り返した。ここに至れば璽師だけが頼りだ。
璽師は鯨に勝つ算段をしていた。優位なのは逆剣に塗られた毒と、最初の一撃が奇襲になるということだ。鯨にとっては小舟などは敵の範疇にもない。だから、海中から黒々とした背中を出した瞬間は、必ず攻撃が成功するだろう。
最も効果的な部分を狙う。
「鯨が出てきたら舟を寄せよ」
古瀬丸に命じた。
璽師様は馬鹿だ、という言葉を飲み込む。ここで引き返すのは容易いが、それでは何も進展しない。二人は二人の事情で鯨と戦うことを決意した。
やや離れたところから鯨が浮かび上がる。
「璽師様、あそこだ」
「寄せよ」
だが、時を同じくして、舟の間近で海が迫り上がった。大嵐に翻弄されるように、古瀬丸の身体が舟から飛ばされそうになる。それを璽師が片手で防いだ。舟を持ち上げようとしたのが二頭目の鯨であることに璽師は気付いた。
烏賊の光に、海の様子は簡単に把握できる。
古瀬丸は、寄り添おうとする二頭の鯨を注視していた。小さな鯨と、比べるものがないほど巨大な鯨。大鯨は小舟から発せられる殺意を感じているのか、小さな鯨を守りながら遊泳している。
親子だ、と古瀬丸は直感した。
「璽師様、あの鯨は親子だ」
「そう」
「璽師様、あの鯨を殺さないで」
古瀬丸は、大鯨に父親の幻を見て、叫んだ。
威嚇のためなのか、大鯨が小舟に近付いてきた。璽師の目は海に向けられて、古瀬丸を顧みる余裕がない。逆剣を伸ばして、海から迫る鯨の背を斬った。流されまいと櫂を漕ぎ続ける古瀬丸の目の前で、毒の剣先が鯨の皮膚を裂く。
青い光の海に、血が数滴零れた。
「璽師様」
「浅い。あれでは駄目だ」
苛立ちながら、一撃目が失敗したことを舌打ちする。柔らかな岩を斬るようなものだ、と璽師は剣の手応えを感じていた。下手をすれば剣が砕けるか、手首が折れる。そして、璽師は自らの算段が外れていたことに焦燥していた。鯨は最初から、小舟の人間を敵と認識していたのだ。
次は沈める、と主張しているようだ。
「古瀬丸よ、また来るぞ」
「璽師様、あれは子供を守っているんだ」
「逃げないのであれば、都合良いとも言える」
青い煌めきは鯨の巨体が通ると、黒い道になって残される。舟の上からでも、鯨がどのように泳ぎ、再び舟に向かおうとしているのが分かった。先程は威嚇だったが、剣で傷付けられた二度目は、小舟を破壊しにかかるに違いない。
大鯨の巨躯が小舟の下を潜る。
「璽師様」
その時、古瀬丸が璽師に飛びかかった。
何が起きたのか、璽師には認識できなかったようだ。混乱は瞬く間だったとしても、その時の衝撃で剣が海中に落ちた。古瀬丸は子を守ろうとする鯨にかつての父を見ていたが、璽師には暴挙としか伝わらなかった。掴みかかる古瀬丸を殴り、首に腕を回す。
「お前も那岐邑の男ということか」
血走った目で、璽師が声を吐き出す。
「あれは、子供を守っているんだ」
「だからどうした」
「あの、鯨は、僕とととだ」
古瀬丸の涙に、璽師の力が緩んだ。
その時、鯨が二人の乗る舟に衝突した。
青白い光と闇の海に、璽師も古瀬丸も突き落とされる。波を伴う鯨の巨躯を、璽師は肌で感じたが、目では何も見えなかった。海水の渦に身体の自由を奪われ、古瀬丸を助けようとすることも、死地から抜け出ようとすることもままならない。
ただ、浮かび上がろうとするだけだ。海から顔を出した璽師は、大きく息を吸い、舟の残骸に古瀬丸の姿がないのを見た。次の瞬間には、璽師の身体は再び海中に沈んだ。
大鯨の口が璽師の右腕をくわえていた。
細い歯が璽師の右腕を血に染める。耐え難い激痛に顔が歪むが、叫んで肺に蓄えた息を減らす真似はしなかった。ただ、残された左手で死中に活を見出そうとする。鯨が深海へと潜ろうとする寸前に、璽師は左手で衣服の中に隠していた薬瓶を掴んだ。それを鯨の口に入れ、無理矢理右手を引き抜いた。
右手の感覚を失ったまま、息をするために浮かび上がる。血と水圧で意識を失ってもおかしくなかったが、生きようという意志が璽師を奮い立たせていた。鯨がまた襲いかかってくれば、その時が生死を別つときだ。璽師は古瀬丸を探そうと、周囲を見渡したがいないので、諦めた。
左手を伸ばし、次の攻撃を待ち構える。鯨の口に入れた薬瓶には毒が入っていたが、効果が現れるのは時間が掛かりそうだ。もっと直接的に傷口に毒を注ぎ込まなければ、鯨を殺すことはできない。
「古瀬丸」
璽師は呟いた。
海の底から迫る黒い口。璽師が再び海中に引き込まれる。
足に食らいついた鯨は時を置かずに璽師を奥底へ沈めようとした。細かな泡が璽師の身体から広がっていく。このままでは、十を数えるよりも早く内臓が水に潰されてしまう。力を。光を放つ烏賊の群れが璽師の瞳に映り、左手に渾身の力が注がれる。
左手に握られているのは、毒の逆剣だった。
殺気に彩られた璽師の目と鯨の目が、突き刺さる僅かな間、交差する。
璽師の剣が鯨の目に突き込まれ、その脳を貫いた。恐ろしいまでの咆吼が鯨から発せられ、巨躯が複雑に捩れる。鯨の口から解放された璽師は、小舟の残骸を頼りに浮かび上がった。死の淵を覗き込んだ女の顔は血の気が失せていたが、剣を突き込まれた大鯨が藻掻き苦しむのを目撃した。神経に作用する麻痺毒が、損傷した脳を殺そうとしているのだ。
鯨は浮かび上がった。
また沈む。
鯨の臓腑に溜め込まれた命が、飛沫となって降り注ぐ。闇夜でありながら空と海の光の狭間で、大鯨は浮沈するごとに海を爆ぜさせた。鯨の全身に毒が回っているようだ。脳を冒され、身体が麻痺し、呼吸が不完全になり、心臓が止まる。それでも目に剣を突き立てたまま、鯨は人に殺される屈辱に怒り、戦い続けた。
鯨の鼻先が、璽師の身体を宙へと舞い上げる。
死。
空中と海中の違いも分からないまま、ふと璽師は思った。古瀬丸を殺し、鯨を殺しそこね、自らも死ぬのか。海に叩き付けられた璽師は、身体が烏賊の光に包まれていくのを感じた。大鯨が光の雨を飲み込みながら璽師の覆い被さる。目まぐるしく海の昼と夜が入れ替わった。
璽師は左手を伸ばした。
その先に、鯨の目に刺さる剣がある。
「古瀬丸、力を貸しておくれ」
璽師は海中に消えた古瀬丸に助力を願った。そして剣を引き抜く。
大鯨の目から血と脳髄が溢れ出た。血は海を染め、璽師の身体を洗った。岸では篝火を焚いた那岐邑の人々が、この壮絶な戦いを見守っていた。鯨は潮を吹くと、巨大な尾を振った。璽師の姿はもうどこにも見えない。力尽きたのは鯨も同じだ。最後に浮かび上がると、弱々しく鰭を動かすだけで、やがて泡が大鯨の死を決定づけた。
「璽師様も、鯨も死んだのか」
玖廬の横で男が呟く。
「明日になれば、死体は浜に上がるだろう」
「そのときに、どうするか考えよう」
大鯨と戦う璽師の姿は、誰の脳裏にも焼き付いていた。誰も、二度と忘れないだろう。玖廬は篝火を消して、皆に住居へ帰るよう諭した。鯨の命と引き替えに、海様は古瀬丸と璽師の命を飲み込んだ。それが結果の全てと知りながら、玖廬には喜びも恐れも見出せなかった。