柒
心臓の動悸が父への怒りを超えて、古瀬丸は走るのをやめた。
那岐邑から離れた、草地の中、林と山を見渡す場所だった。どうやら古瀬丸は無闇に走り、見ず知らずのところへと来てしまったようだ。子供の足で行ける場所などたかがしれていたが、心細さが募るには十分だった。
このまま那岐邑を出てしまおうか。
そう思ったが踏み切る勇気がなかったので、帰る道を探すことにした。道など関係なく走ったために、自分がどの辺りにいるのかも分からない。目印になるものを探して、古瀬丸は半刻ほどさらに彷徨った。
その最中でも、父のことが頭から離れない。父は、自分も嫌ってしまったのだろうか、母のように。酒に酔い潰れた父には、古瀬丸が見えていないようだった。酒を飲みだす前の父は、女を蔑むような性格ではなかったし、母や子を大事にする手練れの漁師だったのに。酒を飲み出した父を、母は常に気遣っていた。父が酒に溺れて母を殴るようになると、家内の言葉は潮風に当たる鉄器のように錆びていった。
璽師が父を殺せばいいのに。
古瀬丸は呟き、耳にして怖くなった。なぜ誰も望まないことになったのだろう。酒のせいだと父も気付いているはずなのに、なぜ飲み続けるのだろう。怒りを超過すると、古瀬丸はあるべき父と母を歪めたものを恨めしく思った。
しかし、父は古瀬丸にとって一人だけの父親だ。那岐邑に帰ろう。生い茂る草は膝までの高さで、途中に点々と樹々が散らばっている。
蠅の飛び交う音がして、草を踏みながら歩いた古瀬丸は、腐乱して鳥獣に啄まれた死体と出会った。驚いて叫んだが、その死体は璽師に男性器を切り落とされた男だ。死ねば海に流すのが那岐邑の葬儀であるため、腐った死体を目にする機会はほとんどない。だから、その臭いと骨の露わになった姿に古瀬丸は打ち震えた。
死んだ長老と息子も、ここのどこかに捨てられているのかもしれない。
一刻も早く離れたくて、古瀬丸はまた走った。鯨狩りの舟に漕ぎ手として乗れば、魚の餌になるだけだ。玖廬や父と同じことを考えていた。草地に捨てられた男のように、海に揺り落とされ、全身を喰われるのはおぞましい。
不意に横から声を掛けられた。
「子供がここで何をしている」
振り返ると、樹木の下に衛士が佇んでいた。
黒髭を生やし、弓を携えている。衛士は璽師を那岐邑へと運んだ者たちの一人だった。彼らは輿に乗せた璽師を海津屋まで運ぶと、しきたりに従い那岐邑を出た。だが、衛士らはそのまま都府へと戻ったのではなく、那岐邑のそれほど遠くない場所で野営をしていたようだ。行きと同じように、璽師が輿に乗って帰ると考えれば、そうなのだろう。
弓を持っているのは、狩りをしている証だ。
その弓で射られるのは嫌なので、古瀬丸は正直に答えた。
「那岐邑に帰るところだ」
「そうか。那岐邑の者か」
衛士の表情が緩む。都府の華やかさに比べれば、このような場所で野営をするのは耐え難いことだろう。狩りをして食料を賄う以外、基本的には何もしない。だから古瀬丸のような子供でも、話し相手としては十分だった。
「璽師様はいつまで那岐邑に留まるつもりだ」
「近く、鯨を狩ると言っていた」
「そうか。それならば都府に帰れる日も近いであろう。皆も喜ぶ」
衛士は微笑むと、古瀬丸に兎を投げ与えた。狩りで得たものなのだろうが、受け取るべきか迷う。衛士はその弓で、他にも三匹の兎を射たようだ。四匹もいては食べきれないので、喜ばしい知らせを運んだ礼に持って帰るがいい、と衛士は言った。この男は璽師が那岐邑に来た理由を知っている。ならば璽師が鯨を狩る理由も知っているのではないか。
「なぜ璽師様は鯨を狩る」
古瀬丸は問い掛けた。
「朱璽のため、と聞いている」
「朱璽とは何だ」
「高貴なものらしい。大王がお求めになられたという以外は知らん」
古瀬丸は残念そうに俯いた。
兎を取ると、衛士に那岐邑の方向を教えてもらい、古瀬丸は帰りを急いだ。朱璽のために鯨を狩る。高貴なもののために死ぬのは、命の価値に釣り合うのだろうか。璽師は嫌いではないが、都府の道理を那岐邑に強制するのは嫌いだ。でも、酒に酔い潰れた父はもっと嫌いだった。
父が忌み嫌う女と、父が殴る我が子が、那岐邑の誰もが成しえない鯨狩りをしてみせれば、その膿んだ心を洗い流せるかもしれない。古瀬丸は考えた。璽師は朱璽とやらを得るために鯨を狩ればいい。古瀬丸は、酒に溺れた父を取り戻すために、舟を漕ぐ。
古瀬丸にとって高貴なもの、命と引き替えにしてもいいと思える理由は一つだった。
古瀬丸が那岐邑に帰り着いたときには、もう夕方になっていた。
住居に戻ってみると、父は相変わらず酔い潰れたままだ。
「とと」
古瀬丸は囲炉裏の周りの、いつも自分が座っていた場所に兎を置くと、父に別れを告げた。鯨を狩り、九死に一生を得れば、そのときは丸を我が子と見てください。古瀬丸は寝息を立てていた父にそう言った。夢現で耳に入っていなくても構わない。
父の手が恋しくなって、唾を飲み込むと、古瀬丸は近寄った。枕にしている右腕に触れようとしたが、虻蚊のように振り払われて、古瀬丸はいつものように後退る。殴られた記憶が鮮明で、撫でられた記憶には靄が掛かっていた。父の名を呼んでも返事はないので、古瀬丸はもう一度名前を呼んだ。寝苦しそうに顔が歪む。
そして、父は母の名を呟いた。
璽師様は恐ろしい御方だ。この時、なぜ父がそう言うのかを古瀬丸は理解した。父は璽師が恐ろしいのではなくて、母に復讐されるのが恐ろしくて、璽師と母を混同していたのだ。心の底で渦巻く感情が、蔑視のかたちになって父を強がらせ、畏怖となって璽師の前でも四肢を縛った。古瀬丸は父の名を咽に詰まらせて、淋しく住居から出た。
哀れだと思ったのだろう。
海に向かって歩く。璽師が鯨を狩ると、もう多くの者が知っていた。そして、愚かな行為で死ぬなら死ねと、誰もが願っているようだった。玖廬が古瀬丸を呼び止めると、ウツボに噛まれた顎を撫でながら、鯨狩りから戻れば入れ墨を許すと言う。生きていれば、と前置きしないのは、古瀬丸をそこまで見通せない子供と思えばこそだった。
「父をお願いします」
古瀬丸が顔を伏せると、玖廬は言葉を失った。
那岐邑の誰よりも聡明なのが、未だ男と認められてもいない子供だと、玖廬は気付きかけたのかもしれない。長老として子供にも何一つしてやれないのか、玖廬は古瀬丸の後ろ姿を見て思う。男らが、これで璽師が死ねば万事が丸く収まると囁いたが、頷く気にもなれなかった。
浜辺までの道は緩やかな降り坂だったが、足取りは急峻な山道を行くよりも遅かった。しかし古瀬丸の心が思い描くよりも随分早くに海へと到着した。海に接した太陽が、最後の輝きを放っている途中に、璽師の姿があった。波際に立ち、黒衣の裾が濡れるのを楽しんでいるような様子に、古瀬丸は母の面影を見た。似てもいないのに。
「おう、待っていたぞ」
璽師は古瀬丸に笑みを漏らした。
「日が暮れるのを待つのか」
「海様の灯火が鯨を呼び寄せるだろう。慌てることはない」
すでに一艘の小舟が浜に出ている。
大海を我が物顔で遊泳する鯨に比べ、落ち葉のように頼りない。大人の男が総掛かりで璽師を助けたほうが、鯨狩りも少しは容易になるのではないか。古瀬丸は思ったが、璽師はそれがしきたりであるという他に、女と子供が鯨を狩ることに大きな意味を見出していた。怖いのか、と璽師が問うと、怖いのはもう通り過ぎた、と古瀬丸は答える。
顔は、漁師のもの以上に輝いていた。
「璽師様」
「何だ」
「朱璽とは何だ」
古瀬丸は純粋な好奇心から問い掛けた。
だが、朱璽を子供に説明するのは難しい。
「朱璽とは身の証だ」
「そうか。身の証は大切なものだな」
古瀬丸はなぜか璽師の答えに納得した。それは古瀬丸もまた、自分が父の子であるという証を持って、鯨狩りから生きて帰りたいと思っていたからだ。璽師と共に死んでしまえと思っていたとしても、生きて帰れば、そのことが酒から父を取り戻す契機になるはずと。
璽師もまた、何かに自分を認めたがってもらいたいのだろうか。都府のことは知らないけれども、身の証のために鯨を狩らねばならないほどの悩みが、璽師にもあるのだ。古瀬丸の目には、初めて女が近しい者として映った。本当は見当違いだったが、古瀬丸の心を璽師が見抜いていたとしても、あえて否定はしないだろう。
夜を待って、璽師と古瀬丸は海へと繰り出した。
夏はすぐだというのに、涼しい潮風が舟上の二人を扇ぐ。海はこれほどまでに波揺れるものなのか、と璽師は縁に手を伸ばして呟いたが、表情はむしろ楽しげだ。瀕死でなければ鯨が浅瀬に来ることはないので、沖へと舟を走らす。
波が砕け、飛沫になって舞い上がる。櫂を漕ぐ手にも力が籠もった。暗闇に黒く染まった水面を三日月が弱々しく照らしていて、魚の泳ぐ海ではない、得体の知れないもののようにも思える。視野が利かないと不安が募る。得体が知れないものの正体は未来だ。月や星々は弱々しいが、海様の灯火が鯨への道標になるだろう、と璽師は言った。
漁師でもないのに。
古瀬丸は女を睨んだが、もう夜海に出ては璽師も漁師も関係ないということに気が付いた。女も子供も関係ない。未経験のことをするのだから。
「鯨は現れるだろうか」
古瀬丸は潮風の音に耳を傾けながら呟いた。
「占いでは今日と出ていた」
「当たることも、外れることもあるんだろ。璽師様はそのようなものを信じているのか」
「いるとも、いないとも言えない海様を信じるようなものだ」
「海様はいるよ」
璽師の挑戦的な物言いに、古瀬丸は即答した。
「では、鯨も現れるだろう」
「なぜそう思う」
「海様は女が嫌いなのであろう。であれば、鯨に女を殺せと命じるのではないか」
璽師様は海様も占いも信じていないのに、都合の良いときだけ利用するのか。古瀬丸は櫂を漕ぐのを止めると、海水に指先を入れてみた。冷たくも温くもなく、漁師が「死んだ」と言い合う水が指を濡らす。漁であれば豊漁か不漁かが極端に分かれてしまう海だ。それが鯨狩りに、どう影響するだろうか。
すでに舟は沖合に出ていた。浜辺が遠く小さい。海は巨大さを隠しつつも、隠しきれないようだった。璽師が呪言を呟きつつ、鞘に収められた逆剣を抜いた。深海の澱みに揺らめく、静かな気配を感じ取ったのかもしれない。それは潮の臭いになって、古瀬丸の漁師の血にも伝わる。時間が遠離るのではなく、近付いていく感覚に似ていた。島ほどの鯨が現れれば、小舟はそれだけで破壊されてしまわないだろうか。夜の海に落ちて、浜辺まで泳げるだろうか。
古瀬丸は櫂を握りしめた。
「璽師様、毒の調子は良いのか」
「どうだろうね。毒は毒の役目を果たすだけさ」
璽師が微笑むと同時に、海が青く煌めきはじめた。
海様の灯火。海の奥深くから、一つ二つと見えて、瞬く間に光が小舟を包囲する。海に星が、足下に空があるようだ。璽師は海に手を伸ばし、触れたものを捕まえた。
手応えのない、柔らかなものが掌中にある。
玖廬の言葉通り、光を放っているのは小さな烏賊だった。万を超える煌めく烏賊が、空を染める朱鷺のように、海にひしめいているのだ。舟の上からでも、烏賊を目当てに大魚の暴れているのが確かめられた。男岩からは海中の変化が読み取れなかったが、漁師が夢にまで見る光景が広がっている。
そして、璽師の目当ても波間から現れる。
「岩か」
「あれが鯨だ」
璽師は叫び、古瀬丸も叫び返した。